外反母趾(令和6年9月10日)

 外反母趾とは足指の変形のことで、母趾ぼし(足の親指)の付け根の関節が第二趾のほうに20度以上“くの字”に曲がったものをいいます。 母趾の付け根の関節は足の内側に大きく突き出し、靴との摩擦で強い痛みが生じるため、歩行障害の原因になります。 外反母趾の原因には、生まれながらの遺伝的な要因と、生活習慣が大きく関わる非遺伝的な要因があります。
 左足の親指にこれと同じような症状が現れたのはもう何年も前のことです。 「加齢によるものですね。湿布薬と痛み止めを出しておきます。」としか言わない近くの整形外科医に診てもらうと、 「何か左足に負担がかかるスポーツをしてますか?」といつもとは違う質問です。
一つ思い当たることがありました。 ゴルフを始めたころ、踊りのしなをつくるようなフォームから、「花柳流」と揶揄されていました。 左足先をひねるフィニッシュの形で左足親指に負担がかかり、第二関節の軟骨がすり減り、変形してしまったようです。 外反母趾との診断はありませんでしたが、やはり、湿布薬と痛み止めを処方されただけでした。 その後左足親指の第二関節は、骨が太くなり膨らんだ状態で靴を履くと少し痛みますが、日常生活に支障をきたすほどでもないのでそのままにしていました。
 先日その左足がはれて痛み出し、びっこを引かないと歩けないようになってきました。 いよいよ本格的に治療した方が良いのではないかと思い、外反母趾の手術をしたことのある大学の友人に相談して、手術を担当したS先生と病院を教えてもらいました。 数日後、教えてもらった国保中央病院へ行って診察してもらいましたが、足の専門医の担当ではなかったので、 レントゲン写真を見て別の曜日に来るように指示されただけでした。 次の週の月曜日に再び診察に伺うと、予約診療が優先のため長い時間待たされ、最後にS先生の診察を受けることができました。 ゴルフだけでこのような状態になるとは思われないため、CT検査と血液検査の結果を見て次の診察の時にどのように治療するかを決めようと言われました。
 その診察を受ける前に、今度は右足のくるぶしが痛み出しました。 ひねった覚えはないのですが、朝起きると右足首が痛く、びっこを引かないと歩けない状態です。両足ともに痛い最悪の状態です。 例の街の整形外科で診てもらったところ、関節に悪いところは見当たらないとのことです。 念のため持って行った生活習慣病検診の血液検査の結果を見せると、尿酸値が高く痛風の疑いがあるとの診断です。 いつものように湿布薬と痛み止めの薬を処方されました。
 今は、右足の痛みは治まり、左足も悪いなりに以前の状態まで回復しました。 70年以上使い続けていると主要な部分はまだ大丈夫ですが、末端の部品にいろいろと支障が出るようになってきました。 この際本格的に修理をしてあと20年くらいは使い続けられるようにしたいと思っています。

フリーテニス(令和6年3月12日)

 フリーテニスは、テニスコートの9分の1のほどの平坦な場所で、テニスボールよりも小さなゴムボールを卓球のひと回り大きな木製ラケットで打ち合う競技です。 就職して造船所に勤めていた頃、昼休によくプレーしていました。 先日、町長選挙の不在者投票で町の文化センターへ行ったとき、フリーテニスサークルの会員募集のポスターを見つけました。 今やっている運動といえば、ゴルフや畑仕事などあまり体に負荷がかからないものなので、少し体を動かせるものを始めようと思って入会することにしました。
 指定された時間に町の体育館に行くと、コートを半分に区切ってフリーテニスとバウンドテニスのサークルが開かれていました。 バウンドテニスは、テニスのラケットより一回り小さいグリップの短いラケットを使い、よりテニスに近いスポーツです。 男性と女性の会員はほぼ半々ですが、フリーテニスのサークルは全員女性です。 少しためらいましたが、入会することにしました。40年ぶりのフリーテニスでしたが、感覚はすぐに戻りました。 ただ、当時ボールはもっと弾んでいたように思いますし体もよく動きました。ネット近くに落ちて拾えると思ったボールが拾えません。 普段とったことのない態勢でアキレス腱を伸ばしすぎました。プレーしている時は感じませんでしたが、終わってからアキレスけんが痛みだしました。 翌日は小型船舶免許更新のため、大阪に行かなければなりません。思うように歩けずびっこを引いて天満橋に向い、講習を受けてきましました。
 昼食は天王寺のあべのハルカスの地下でとるつもりでしたが、天満橋駅まで痛みをこらえながら歩いていると、 大阪歯科大学病院の前に安くておいしそうなカキフライ定食の看板が出ていました。 患者も乗ってくるエレベータで最上階へ行き、造幣局を見下ろせるレストランで昼食をとりました。 桜の頃にはお花見もできそうな場所です。
 人生100年の時代、残された期間をゴルフだけでは埋めきれません。 週一回の会社勤め、畑仕事、梶賀での2地域居住にフリーテニスが加わりました。 「LIFE SHIFT(ライフ・シフト)」という本で複数の仕事を組み合わせて働くポートフォリオワーカーが紹介されています。 複数の仕事ではなく一つの仕事と複数の遊びを組み合わせるライフスタイルを続けて行ければと思っています。

 ウクライナ侵攻(令和4年5月24日)

 20世紀におけるモノクロの記録映像ではなく、現在進行形の現実世界で戦車が砲撃しながらヨーロッパ大陸を侵略する。 ロシアによるウクライナ侵攻から3か月たち、停戦交渉はロシア軍による戦争犯罪、人権蹂躙が明らかになってからは進まず、世界はその対立の帰趨をただ見守るばかりです。 個人レベルでは何ができるのかと無力感にさいなまれつつも、この侵略戦争について何らかの理解を得たいと様々な記事に接しています。 ロシアの歴史や民族の面から今回の侵略を説明する専門的な解説も多いのですが、馴染みのない日本人には理解しにくいものです。 先日、読売新聞の「地球を読む」でロシアの国家観から見た少し分かりやすい解説がありましたので、それを紹介します。
 『ウクライナに侵攻したロシア軍を見ると、「命は鴻毛よりも軽し」という言葉を思い出す。 それは国民あってのプーチンではなく、プーチンあっての国民という独自の国家観のせいである。 国民は母なるロシアを守る必要はあっても、母なるロシアの方は必ずしも国民を守らず、若い兵士たちの戦死さえ意に介さない。
 欧米や日本では、国家は国民の自由と権利を守るために存在する。 一方スターリンからプーチンに至るまで、ロシアでは、個人や社会は国家や独裁者より重要性が低い。 個人として重要視されるのは、大きな影響力を持つ社会的エリートだけである。 それは国家保安委員会出身のプーチンの権力を支えてきた連邦保安局、内務省、国防省にいる「国家の人間」たちに他ならない。 これらの武力省庁に属する者(シロビキ)は、自分たちこそ最高の愛国者にして国家の最終守護者だと自認する。 しかし、彼らはプーチンを含めてロシア国家を内部から食い尽くす白アリのようだ。前線の兵士に食料も装備品も行き渡らず、投降や脱走する者も多く出ている。 これは23兆円もの個人資産を秘匿しているとささやかれている大統領のせいでもある。 軍から秘密警察まで、兆や億の単位で国家財政や各種利権を横領している。 この種の不正が大規模にはびこる現代のロシアでは、ワレリー・ゲラシモフ参謀総長があわやの危機にひんし、10人以上の将軍が実際に戦死したように、前線で督戦しなければ兵士たちは戦闘の現場に出ようとしない。 前線の兵力を補うためシリアやチェチェンのムスリム兵を国内外から投入したとすれば、プーチンはロシア国家をまとめてきたロシア正教と国民性から離れた「大儀なき戦争」への道をますます進むことになる。 自分の権力と利益を追求する「たった一人の人間」による不公正な支配は、国民のためではない。』
 ロシアは支配者が皇帝、共産党、大統領と変わっても一貫して独裁主義であって、民主主義が定着したことはありません。 お隣の中国も同じで、市場経済で豊かになれば民主主義国家に移行するとして国際経済に組み込まれてきましたが、共産党によると独裁が続いています。 以前なら集団指導体制でまだブレーキが利いていましたが、個人崇拝が進んで習近平独裁の様相を呈してきています。 理由は分かりませんがこれらの国々に民主主義を望むのは無理なのかも知れません。 この記事でロシアの国家としての性格はある程度理解できますが、全く理解できないのはロシア政府関係者個人の価値観です。 自分たちに都合の悪い事実は、全てフェイクだとして退けますが、本当にフェイクだと思っているのでしょうか。 ロシアの駐日大使が、これ程見え透いた嘘を流暢な日本語で語るのを聞いていると、「盗人猛々しい」という言葉がぴったりに思えます。

 幸せランチ(令和4年4月27日)

 読売新聞大阪版のコラム「幸せランチ」は、各界著名人が思い入れのあるランチを語るコーナーです。 「特選牛肉の網焼き」、「たむらのらぁめん」、「煮込みハンバーグスペシャル定食」、どれもおいしそうなランチが推薦者のコメントと共に紹介されています。
 季節により変わりますが、寒い時期の私の「幸せランチ」は、会社の近くにある「かつ麦」の「牡蠣フライ定食」です。 カリッと揚がった牡蠣フライ4個と5個を選べますが、少なめの4個にします。 たっぷりと胡麻ドレッシングのかかった千切りキャベツと一緒に2個食べたら国産米ともち麦で炊き上げたご飯をお替りします。 ご飯には山芋と大和芋をすりおろし、鶏ガラ・帆立・鰹節をふんだんに使用した出汁と合わせたとろろをかけます。 4月になって牡蠣フライがメニューから消えると、同じビルにあるスーパーで弁当を買って近くの琵琶湖畔に持っていきます。 目の前を外輪船のミシガンが横切り、遠くには雪の残る比良山や新緑に包まれた比叡山が望めます。 「幸せランチ」のメニューには及びませんが、景色はそれ以上です。 もう一つおすすめのランチは、尾鷲市の水産加工会社尾鷲物産 が経営する地場産品直売所「おとと」にある食堂の「びんちょう鮪のづけ丼」です。 尾鷲物産ではブリやタイの養殖・加工のほかに、近海マグロはえ縄船の操業も行っていて、鮮度抜群の魚介類が自慢です。 あさおの味噌汁と2品600円ほどで、大葉にのった辛いわさびにむせながらいただいています。 市場で販売されているぶりのみりん漬けやカマスの干物と共にパックされたびんちょう鮪をお土産に買って帰り、家でもこのづけ丼を味わっています。 梶賀の山小屋のリフォームに今でも月に一回通っていますが、自宅へ帰る日のランチはいつもこれです。
 先日もこのランチを楽しみに梶賀へ向かいましたが、家を出るときにちょっと変なことがありました。 玄関扉の2重ロックを解除してチェーンを外そうとしたとき、先端の丸いリングが変形しているのに気が付きました。 チェーンをドアーに止めている金具のねじも少し緩んでいます。 もう何十年も前まだ現役の社会人の頃、夜遅く帰ってきたとき家内は2階で寝ていたのですが、なぜか内側からチェーンが掛かっていて家の中に入れないことがありました。 まだ携帯が無かった時代で、ドアーを叩いて起こそうとしたのですが、なかなか起きて来ません。 辛抱を切らして工具箱から大型のカッターを取り出し、チェーンの先端部分を切りました。 以来チェーンの先端部分にはキーホルダーで使うリング付けていたのですが、それが引きちぎられるようにずれて楕円になっています。 チェーンをかけるのは寝る前ですので、誰かがドアーを開けようとしたのは就寝中です。 しかも2つの鍵を開けなければなりません。 どうやってロックを解除したのかわからなかったのですが、あることに思い当たりました。 予備の鍵をキーボックスに入れて玄関の門の傍にぶら下げてありますが、4桁の数字を合わせれば開くタイプのもので、一番上の数字だけを回転させているため数字が合わせやすくなっています。 どうやらそのキーボックスの数字を合わせて中から鍵を取り出し、玄関のドアーを開けてチェーンを無理やり引っ張ったため、先端のリングが変形したようです。 直ぐに家内に連絡してキーボックスを取り外してもらいましたが、犯罪に会わなかっただけでもラッキーでした。 ちょっとした油断が今回の事件の原因でしたが、歳を取ってくるとついうっかりが、多くなります。 オレオレ詐欺にはあわないと思いますが、しっかりしておきたいものです。

 十一面観音菩薩(令和4年3月22日)

 毎週水曜日、大阪、京都、奈良に住む大学の同級生6人で、ワイルドカードを1回使ってOBを無かったことにできるプライベートルールのゴルフを楽しんでいます。 よく行くゴルフ場はレークフォレスト、木津川や奈良の杜など柳生街道沿いにあり、車で1時間少しほどの距離です。 隔週でメンバーが変わりますが、奈良組で車を提供する私はすべての週に参加しています。 交通費の分担はありませんが、年末にガソリン代の代わりとして日本酒を届けてくれます。 行きのルートは国道24号線を京都方面に向かい右折して一条大路を通ります。 昔の幹線道路ですが道幅は狭く、転害門前の信号では対向車とすれ違うのがやっとです。 転害門は天平時代に建てられた東大寺の門の一つで、平氏の南都焼打ちの被害をまぬかれ当時のまま現存しています。 帰りは奈良公園に面した二条大路を通りますが、車道を横断する鹿や中央分離帯で草を食べている鹿と出くわすことがあります。
 先日のゴルフの帰り、奈良県庁の駐車場に車を止め、奈良国立博物館で展示されている聖林寺の国宝十一面観音菩薩立像を見に行ってきました。 この十一面観音は、かつて大神神社の最も古い神宮寺である大御輪寺の本堂のご本尊として祀られていました。 第一回指定の国宝であり、天平時代の彫刻を代表する美しい仏像です。 フェノロサや岡倉天心たちによってそのお姿の美しさを絶賛され、多くの人々を魅了してきました。 高い腰に、豊麗なお体、艶めかしいほどまろやかな指先。女性的な優美さと男性的な威厳を併せ持ち、すべてを超越した圧倒的な存在感があると紹介されている通りの美しい仏様です。 ミロのヴィーナスとも比較される仏像彫刻の優作だそうですが、特に均整のとれた後ろ姿に東洋的な女性の力強さが感じられ見入っていました。
 特別陳列の「お水取り」も見学してから地下通路を通って仏像館に移動します。 途中に工芸品を販売する売店があり、ゴルフのマークにするマグネットを探しましたが、1年ほど前に買った物と同じデザインの商品しか置いていません。 商売が下手なのかそれとも保守的な文化なのでしょうか、どうも奈良は新しい物や変化を嫌う傾向があるように思います。 話は飛躍するかも知れませんが、奈良県知事のコロナ対応も同じように見てとれます。 感染拡大を抑えるための緊急事態宣言を「効果が見えない」と批判し、政府への発令要請に一貫して消極的な考えを示して、医師会や県民の要望を無視し続けました。
 仏像館に着いたのは駐車場に車を止めてから45分ほど経った頃です。 駐車場は1時間無料でその後は1日1,000円の料金になるため、急いで仏像館の展示を見て回ります。 金峯山寺の国宝・仁王門が約70年ぶりに解体修理され、安置されている金剛力士像が展示されています。 像高5メートルに達する巨像で、東大寺南大門像に次いで2番目に大きい像だそうです。 仏像館を出て歩いて駐車場に向かうのでは間に合いそうもないので途中小走りで戻り、時間前に一旦駐車場を出て再び入場して同じ駐車位置に止めました。 ゆっくりと見学を済ませて戻って来た同級生2人とは近くのコンビニで落ち合い、ショートホールのニアピン競技で一人負けしたN君にアイスクリームをおごってもらいました。 しばらくして駐車場に戻ると入口に掲げられている看板が目に入りました。 そこには最初の1時間ではなく2時間無料と書かれています。 1時間と思い込んでいたためゆっくり観賞できなかったことを悔やむと共に、思い違いや物忘れがだんだん多くなってきたことやテレビに向かって怒り散らしていることに老いを感じ始めています。

 人流(令和3年7月5日)

 近世以降、外来語は漢字語に翻訳されて定着してきました。しかし、近年では情報量の増大と流通の加速から、そのままカタカナ表記するカタカナ語が盛んに使われるようになりました。 「コンピュータ」や「アプリ」などのIT用語に代表されるように、日本語への翻訳が難しく、一方で翻訳する手間を省くことができるカタカナ語はとても便利です。 国立国語研究所が、「アクセス=接続」など、漢字語に言い換える提案をしてはいますが、カタカナ語の勢いにはかなわないようです。
 新型コロナウイルス感染拡大に関連しても、巷では新しい「カタカナ語」があふれています。 「パンデミック」に「ステイホーム」、「ソーシャルディスタンス」など数え切れないほどです。 当時の河野防衛大臣がTwitterで「クラスター」「オーバーシュート」「ロックダウン」について「どうして『集団感染』『感染爆発』『都市封鎖』ではダメなのか」とつぶやいて話題になりました。 とはいえ、聞き慣れないこのカタカナ語をマスコミがこぞって取り上げたことで、結果的に話題を集め、国民に注目される効果をもたらしました。
 カタカナ語ではありませんが、同じくコロナに関連する言葉で気になる漢字語が、「酒類」と「人流」です。 音読みには呉音・漢音・宋音があり、それぞれが同じ漢字を違ったように発音します。 たとえば、「明」という漢字を呉音では(ミョウ)、漢音では(メイ)、宋音では(ミン)と読みます。 一般的に、漢字の熟語は音読みどうし、訓読みどうしを組み合わせて読みますが、例外として音読みと訓読みを組み合わせた重箱読み、湯桶読みというのがあります。 台所(ダイどころ)、高台(たかダイ)などがそうです。 「酒類」を(シュルイ)と聞いたのは、飲食店の営業規制に関しての菅首相のインタビューです。 酒を飲まない方にはどっちでもよいのかも知れませんが、(さけるい)の方が、違和感がありません。 枚方を(まいかた)と発音したこともあり、関心の薄い物には独自の読み方をする癖があるのかも知れません。
 今は耳にしない日はありませんが、最初に「人流」(ジンリュウ)と聞いたのは、小池都知事のインタビューです。 物の流れは「物流」、潮の流れは「潮流」、血の流れは「血流」ですが、風の流れは「風流」とは言いません。 「土石流」は別として、川の流れも「川流」とは言いません。 音読みと訓読みの境界がどこにあるのか分かりませんが、「人の流れ」の方が自然な気がします。
 新型コロナ関連では言葉だけでなく、戦略に違和感を覚えるものが数多くあります。 そもそも政府の「人類が新型コロナに打ち勝った証として五輪を開催する」と高らかにうたったならば、今年5月までに65歳以上の高齢者の接種を完了させるといった目標を設定することができたはずです。 1日100百万回の接種を目標としたのと同じような戦略です。この目標は地方自治体の努力により達成できましたが、今度はワクチンの供給不足が露呈しました。
 最初は竹槍で戦えと言わんばかりのマスクの配布に始まり、ここにきて兵站の問題であるワクチンの不足です。 太平洋戦争における日本軍の問題点を研究した著書「失敗の本質」では「不明確な目標」「戦力の逐次投入」「根拠なき楽観主義」を失敗の要因に挙げています。 新型コロナウイルス対応に全体的な戦略が見えないのは、この国のリーダーの資質の問題ではなく、制度疲労を起こしているシステムにあるように思います。

 へバーデン結節(令和3年6月2日)

 2年ほど前から握りこぶしを作ると指の第一関節がしっかり曲がらず、少し痛みを感じるようになってきました。 利き手の右手により強い痛みがあり、小指は「へ」の字の角度までしか曲がりません。 40年で1,000回以上プレーしてきたゴルフが原因だろうと勝手に診断していましたが、最近は親指の第一関節まで痛むようになってきました。 さすがに心配になってネットで調べたところ「へバーデン結節」という疾患を見つけました。
 「へバーデン結節」は、指の第1関節が変形して曲がってしまう原因不明の疾患です。 この疾患の報告者へバーデンの名にちなんで「ヘバーデン結節」と呼ばれています。 人差指から小指にかけて第1関節が赤く腫れたり、曲がったりして痛みを伴うことがあり、親指にもみられることもあるそうです。 左手親指の関節と比べると1.5倍ほどに腫れて痛みがある今の症状に当てはまります。 第1関節の背側の中央の伸筋腱付着部を挟んで2つのコブ(結節)ができる特徴も一致します。 40歳代以降の女性に多く発生し、手を良く使う人にはなりやすい傾向があるそうです。 局所の安静や投薬、テーピングなどの治療法があり、痛くても使わなくてはならないときは、テーピングがお勧めだそうです。 ワクチン接種が終わってから「使い痛み」か「加齢」としか診断しない、あまり頼りにならない整形外科へ行くつもりですが、当面シップとテーピングと漢方薬で抑えようと思っています。
 これまでゴルフ以外でもDIYや畑仕事で永い間指を酷使してきました。 最近特に親指を酷使したことが思い当たる作業は、畑の階段作りです。 道路から擁壁を介して3mほどの高さに畑があり、適当にコンクリ―ブロックが置いてあるだけの不安定な斜面を、畑を利用しているおばちゃん達が足元を確かめながら上り下りしていました。 そこで擁壁までは既存の階段を補修し、擁壁から畑までの階段を別の場所に新しく作ることにしました。 階段の材料は、キャビネットの棚板やベランダの床板、それに鉄パイプの類です。 以前この畑を借りていた大工のおじさんが、現場で不要になったものを大量に持ち込んで、畑の斜面の土留めに使っていたものです。 棚板は30×60cmくらいの大きさでちょうどよい蹴込み板になります。 両端近くに鉄製のパイプを打ち込んで土圧を受けても倒れないようにして作っていきます。 建築と土木のプロですので、踏面を広く、蹴上を小さくして登りやすくて丈夫な階段が出来上がりました。 その鉄パイプを20本ほど打ち込むのに右手の親指が痛くなるほど酷使しました。
 擁壁の上に別の方が使っている畑があり、もう何年も作物を作っていないため雑草だらけになっていましたが、階段の幅を確保するために畝を20×60cmほど削らせてもらいました。 後日、その草ぼうぼうの畑がきれいに耕され、削った畝も元通りになっていて、階段に続くアプローチの幅が狭くなっていました。 畑仲間のおばちゃん達にも思い当たる節があるらしく、その方の畑に隣接する場所を耕すと、境界をわきまえろと言わんばかりに荒れた自分の畑を整備するそうで、何度も嫌な思いをしたことがあるようです。 現役の頃なら相性の悪い方とも付き合わなければ仕事はできませんが、もう半分リタイアーした身です。 まして畑仕事は趣味の世界です。嫌な方と無理につき合う必要もありませんので、なるべく関わらないでおこうと思っています。
 ゴルフや畑仕事などまだまだ指を酷使する状態が続きます。加齢とともに肉体が劣化していきますが、致命的な欠陥だけは避けたいものです。

 法隆寺展(令和3年5月16日)

 新聞の折り込み広告に交じって聖徳太子像の写真が載ったチラシが入っていたのは、4月初めの頃です。 奈良国立博物館で開催される聖徳太子展に、奈良県内の読売新聞購読者をペアーで無料招待する内容です。 すぐにネットで申し込んだところ、後日、新聞販売店から当選の連絡がありました。 奈良検定では先輩格のI君もその日の夕方申し込んだのですが、すでに受付人数に達していて招待されなかったそうです。
 5月10日(月)の昼前に家を出て、国立博物館近くの県庁の駐車場に向かいました。 前の週に京都鷹峯で孫たちと一泊した翌日もこの駐車場に止めて県立美術館へ行くつもりでしたが、駐車場は閉鎖されていました。 ゴールデンウィーク期間中で近くのコインパーキングは満車で、すれ違いが出来ない細い道に面した駐車場に何とか止めることができました。 高い駐車料金1500円を支払って県立美術館に行くと入口にロープが張ってあり、大阪の緊急事態宣言期間中の11日まで臨時閉館の案内がありました。 新型コロナウイルスの感染が急拡大する中、奈良県は「GoToイート」のキャンペーン追加販売を始め、市民からの批判を受け停止しました。 それが影響したのか、国立博物館は開館しているのに県立美術館は閉鎖したようです。 どうも奈良県のコロナ対応は場当たり的です。 ほとんどの指標がステージ4の状態でも蔓延防止策も緊急事態宣言も要請せず、リーダーの危機管理能力の無さを見せつけられているようです。 駐車場に戻って県立美術館が臨時で閉館していることを係の方に話すと、知らなかったようで気の毒に思って500円返してくれました。
 今回は開いていた平日2時間無料の県庁の駐車場に車を止め、昼食は近くのコンビニで調達しました。 国立博物館に着くと13時からの入館を待つ50mほどの列ができています。 藤棚の下のベンチに腰掛けて食べ始めると、すぐに鹿が寄ってきました。 首を上げ下げする仕草は、観光客から餌をもらうために覚えたお辞儀のポーズのようです。 何回か場所を替えても寄ってくるので、鹿せんべいを売っているおばちゃんの傍のベンチに移動しました。 鹿せんべいを買って走っている子供を追いかけて、こちらには注意が向かないようです。
 昼食を終え、ほとんどなくなった列に並んで入館すると、観客は少なくはありませんが、ゆっくり展示品を見て解説を読むことができます。 「隠された十字架」などの法隆寺と関連する梅原猛全集を読み、奈良検定1級の実力もあるので、これまでに見た聖徳太子展とは違い予備知識は十分です。 数多くの国宝や重要文化財の中で特に印象に残ったのは、聖徳太子500年遠忌にあたり造立された聖霊院の秘仏本尊「聖徳太子および侍者像」です。 周囲に配された太子の子山背大兄王と2人の太子の異母弟、太子の仏教の師は、その後に起こった悲劇を感じさせないユーモラスな表情を見せています。 山背大兄王は蘇我入鹿の命により襲撃され、斑鳩寺で妃妾など一族もろともに自害し、聖徳太子の上宮王家は絶えました。 「隠された十字架」は、法隆寺は仏法鎮護のためだけでなく、聖徳太子の怨霊を鎮魂する目的で建てられたと主張します。 法隆寺に伝来した名品の最後を飾る展示品は、国宝「玉虫厨子」です。宮殿を飾る透彫金具の下に玉虫の翅が敷かれていることからこの名があるそうです。 四方から玉虫厨子の透かしの裏に貼ってある翅を探したところ、左面に一個所2cmほどの緑色に光る翅を見つけました。
 法隆寺からそう遠くないところに住み、聖徳太子とは地理的にご縁があります。 奈良に都のあった時代をもっと深く知り、奈良検定のソムリエを目指すのも、セカンドライフの一つの過ごし方かも知れません。

 アニマルウェルフェア(令和3年3月7日)

 「アニマルウェルフェアとは、動物の生活とその死に関わる環境と関連する動物の身体的・心的状態」と定義されています。 家畜を快適な環境下で飼養することにより、家畜のストレスや疾病を減らし、結果として、生産性の向上や安全な畜産物の生産につながります。 農水省は、アニマルウェルフェアの考え方を踏まえた家畜の飼養管理の普及に努めているそうです。
 そのアニマルウェルフェア推進役の農水省の元大臣が、大臣在任中に大手鶏卵生産会社(アキタフーズ)の元代表から現金500万円の賄賂を受け取ったとして、東京地検特捜部に収賄の罪で在宅起訴されました。 元代表は家畜にとってストレスの少ない飼育環境を目指す「アニマルウェルフェア」をめぐり、世界動物保健機関(OIE)が策定を進める国際基準案について反対の立場で「積極的なロビー活動」を行っていたようです。 OIEは2018年に具体的な国際基準の2次案を作成し、鶏の習性に配慮して止まり木や巣箱の設置が義務付けました。 日本で約9割を占めるとされるケージ飼育の見直しが迫られる内容となり、設備投資に大きな資金負担が生まれることもあり、日本の養鶏業界は猛反発しました。 賄賂を受け取った大臣の指示のもとに農水省もOIEに反論し、2019年の3次案では、止まり木と巣箱の義務化は見送られました。 結果として元代表側の思い通りとなり、見直しはアキタフーズのみならず業界全体の利益につながりました。
 「サピエンス全史」は30か国以上で刊行されて世界的なベストセラーとなり、海外の主要紙が称賛した書籍です。 かつてアフリカ大陸の片隅で捕食者を恐れて細々と暮らしていたホモ・サピエンスが、いったいどうやって食物連鎖の頂点に立ち、地球を支配するに至ったかを振り返ります。 その中のキーワードの一つとして示されているのが「農業革命」です。 過去200年間に、工業生産方式は農業の大黒柱になり、工業化された畜産法は現代の社会経済的な秩序全体の基礎を成しています。 家畜は痛みや苦しみを感じない生き物とみなされ、機械として扱われて来ました。 本来ニワトリは1日1万回以上地面を突き、とまり木で眠り、巣に隠れて卵を産み、砂浴びで寄生虫や汚れを落とし、日光浴をし、運動をして心身の健康を保ちます。 しかし、いま日本の採卵養鶏場のほとんどは、バタリーケージというほぼ身動きが取れないケージに閉じ込め鶏を飼育しています。 鶏の骨は放牧と比較すると3分の1の薄さになり、農薬を全身にかけて寄生虫を落とします。 孵化場でベルトコンベアーに乗せられたひよこたちはもっと悲惨です。 雄のひよこはベルトコンベアーから降ろされ、ガス室で窒息死させられたり、自動シュレッダーに放り込まれたり、そのままゴミの中に投げ込まれ、潰されて殺されます。
 神の形に作られたサピエンスは、それ以外の動物の支配者なので、殺して食べようと、労働の道具に使用しようと構わないというキリスト教の動物観が根底にあるように思われます。 一方でアニマルウェルフェアは「動物たちは生まれてから死ぬまで、その動物本来の行動をとることができ、幸福な状態でなければならない」という考えを背景として欧米で誕生しました。 仏教の動物観は、来世で人間以外の畜生に生まれ変わる可能性がある輪廻転生の概念が大きく影響しています。 今回の汚職事件の関係者は現世の欲望にとらわれ、来世で狭いケージにとじこめられ、羽ばたいたり、真っ直ぐに立ったりすることができない自分たちの姿を想像できなかったようです。

 献血(令和3年1月20日)

 『昔、あるところにうさぎときつねとさるがおりました。ある日、疲れ果てて食べ物を乞う老人に出会い、3匹は老人のために食べ物を集めます。 さるは木の実を、きつねは魚をとってきましたが、うさぎは一生懸命頑張っても、何も持ってくることができませんでした。 そこで悩んだうさぎは、「私を食べてください」といって火の中にとびこみ、自分の身を老人に捧げたのです。 実は、その老人とは、3匹の行いを試そうとした帝釈天という仏様。帝釈天は、そんなうさぎを哀れみ、月の中に甦らせて、皆の手本にしたそうです。』 これは、仏教説話にあるお話ですが、うさぎのやさしさより帝釈天の意地の悪さを感じてしまいます。
 うさぎの様に我が身を捧げるわけには行きませんが、長い間献血を行ってきました。 入院されていた母親の知り合いの方から頼まれたのが初めての献血で、50年近く前の大学生の頃です。 献血が終わってから卵や肉などの食材をたくさん頂いたことを覚えています。 社会人になってからは不定期に、献血バスを見つけた時に献血していましたが、10年ほど前からは、「まいどなんば献血ルーム」で年に3回ほど行っています。 地下鉄御堂筋線なんば駅出口に直結していてアクセスが良く、ゆったりとした室内とインテリアはお気に入りのカフェのような感じで、しかも飲み物はフリーです。 血液の検査結果は、定期的な健康診断にもなりますが、いつもコレステロールが高めの結果が送られて来ていました。 高脂血症は以前から人間ドックでも指摘されていて、検診後のアドバイスでは必ず食生活を改善するように言われるのですが、食事は野菜中心なのになぜか高い数値が出ます。 どうやら遺伝的な要素が強いようで、癌にはなりにくいと思いますが、循環器系の病気になる可能性は高そうです。 献血前に測定する血圧も高めでしたが、高血圧の薬は飲み始めたら飲み続けなければならないし、献血もできなくなると聞いていましたので、飲んでいませんでした。 しかし、ネットで調べたところ、献血には70歳の年齢制限はありますが、高血圧の薬を飲んでいてもできることが分かりました。 そこで、近所のかかりつけの先生に検診結果を見せて相談すると、高脂血症と高血圧の薬を処方してくれました。 その後の健康診断では、血圧もコレステロールも正常値に戻りましたが、時々飲み過ぎの指標を示すγ-GTPの数値が基準をオーバーします。
 これまで50回以上献血を行ってきましたが、1月の誕生日の前日が最後の献血になりました。 大阪での業務の打ち合わせが長引き、献血ルームに着いたのは受付終了の30分前です。 いつもの様に事前申告をして血圧を測ってもらうと、寒い中急いで来たためか160台の数値を示しています。 献血後は120台まで下がりましたが、変化の幅が大きいのですぐには立ち上がらないように言われ、看護婦さんに持って来て頂いたホットゆず蜂蜜を飲みながらしばらくその場にいました。 献血を終えてソファーで休んでいると、係りの方がマスクケースやタオルなどのお礼の品を持って来てくれましたが、最後の献血だったためかいつもより品数が多いようです。 これまでも既定の献血回数に達する毎にガラス杯などの記念品を頂きましたが、赤い耳のマスコット「献血ちゃん」マークの入った茶碗は実用的で、毎朝これでご飯を食べています。 最後に献血カードを渡されましたが、いつもなら次の献血可能日が記入されている欄が全て★印になっています。 今までできていたことが一つずつできなくなる。献血が終わったことが古希を迎えた実感です。

 CVV(令和2年12月2日)

 社会基盤を支える土木事業は、公共の利益を求める行政の計画と営利を目的とする企業活動によって実施されてきました。 土木技術者は、行政あるいは企業の一員として社会に役立つ気概をもってその役割を果たしてきましたが、定年退職後は一個人に戻ってしまい、高度の能力を発揮できる場がなくなります。 しかし、高い見識のもとに、「生活者の視点から社会基盤整備に貢献するシビルエンジニア・ベテランズとして活動できるのではないか」 という強い思いがありました。 そこで、自主的に結集した土木技術者OBによって広範なネットワークを構成し、中立的な立場から情報提供や助言を行い、"公共事業がより密接に社会に組み込まれるシステムを開発する"という構想を基に生まれたのが、 CVV(シビル・ベテランズ&ボランティアズ)です。
 発足して20年以上活動を続けられてきた会ですが、一昨年から組織の若返りのため、元神戸大のK先生が中心となって新CVVが組織され活動を継続されています。 今年の5月にこの会の代表をされている大阪市大のF先生から入会のお誘いがあり、9月に初めての会合に参加してきました。 事務長のKさんは大学の同級生、IWさんは元同じ会社の先輩、Nさんは一木会のメンバー、Iさんとは今同じ会社に籍を置いているなど、知った方がかなりおられます。 Kさんは大阪市大工学部同窓会の幹事もされていて、久々に再開したのがきっかけで「同窓会だより」に近況報告を書く依頼を受けました。 一木会の持ち回りのプレゼンで発表された「人生100年時代」と「3つのショク」をベースにして書いたのが以下の記事です。
 『長寿化が進み、「人生100年時代」と言われるようになりました。 従来は、学校に通って教育を受け、就職して定年まで働き、引退後はのんびり過ごすという3ステージの生き方が主流でした。 しかし、100年人生では、3ステージに代わりマルチステージが主流になるそうです。 一人ひとりが違った働き方を見出し、人生のイベントの順序もそれぞれ違い、自分にとって理想的な人生を追い求めていくことになります。 古希を迎える年齢になり、新たなステージは限られていますが、この時期を生きる知恵として教えてもらった3つの「ショク」を実践しています。
 一つ目の「食」は言うまでもなく食べることですが、二つ目の「職」は働くことです。 縁あって2年ほど前から、大津にある設計コンサルタントに籍を置いています。 大津駅から歩いて通う途中、氏神の天孫神社にお参りし、すぐ近くの実家に立ち寄ります。 橋梁の補修、補強や撤去など、経験したことのない業務に関われることもそうですが、週1回の出勤で年老いた両親の安否を気遣えるのもありがたいと思っています。
 三つ目の「触」はコミュニケーションです。 社内外でご縁のあった方や、気の合う大学の同級生たちと交流を続けています。 第1木曜日に難波の貸会議室で行う「一木会」は、持ち回りで提供される話題を肴に、飲みながら意見交換する「おじさん達の井戸端会議」です。 尾鷲市の南端に位置する梶賀町に中古住宅を購入して定期的に訪れる2地域居住という新しいステージでは、地元の方や移住者たちとの交流も始まりました。 デジタルな触れ合いとして、リタイアー後にブログ(http://softbridge.net)を始めました。 これからも新しいステージでの出来事を記録していきたいと思っています。』

 休館日ゆったり観覧ツアー(令和2年9月20日)

 西国三十三所は、養老2年(718)、大和国長谷寺の開基・徳道上人が、閻魔大王から「生前の悪行により地獄へ送られる者が多い。観音霊場へ参ることで功徳が得られるよう、人々に観音菩薩の慈悲の心を説くように」とお告げを受け、 起請文と33の宝印を授かったことにはじまるといいます。 徳道上人が極楽往生の通行証となる宝印を配った場所が、観音霊場を巡る信仰となり、33の札所を巡る日本最古の巡礼路となりました。
 先日、特別展「聖地をたずねて-西国三十三所の信仰と至宝-」を観覧するため、京都国立博物館へ行ってきました。 月曜休館日にゆったり観覧できる読売新聞読者限定のツアーで、ネットで応募したところ招待状が届きました。 観覧時間が午前中に限定されているため、8時頃家を出て、王寺から京橋まではJR、京橋からは京阪に乗り換え七条で下車しました。 家内が自宅から通学していた時と同じルートで、1時間半ほどかかります。 京都国立博物館までは歩いて10分ほどですが、K女子大は女坂を上り更に10分ほどかかります。あまりにも通学に時間がかかるため、3回生からは学校の近くに下宿したそうです。
 検温を済ませてゲートをくぐり、平成知新館の入り口で手の消毒をしてエレベーターで3階に向かいます。 有料の音声ガイドを借りようとしましたが、休館日のため貸し出しは行われていません。 最初展示室に入って驚いたのは観覧者の数です。ほとんど全ての展示品の説明をゆっくりと読んで回れるほどの少なさで、音声ガイドは必要ありませんでした。展示は次の7章で構成されています。
第1章「説かれる観音」
 『妙法蓮華経(法華経)』の普門品(ふもんぼん)には、観音は33通りに姿を変え、諸々の悩みや苦しみから人々を救うと説かれています。 それぞれの観音には、より所となる経典が存在し、儀軌(ぎき)とよばれる規則には像容が定められています。 いにしえの観音信仰を示す遺品をはじめ、観音について説く多様な経典などを紹介します。
第2章「地獄のすがた」
 地獄からの救済は、現世・来世を問わず、人々が観音へと期待した利益ですが、一体そこはどのような場所であったのでしょう。 六道思想に基づいて制作された「六道絵」、あるいは「餓鬼草紙」といった作品から、先人がイメージした地獄のすがたを示します。
第3章「聖地のはじまり」
 西国三十三所の成立に大きな役割を果たしたと伝承される人物として、徳道上人のほか、花山法皇や圓教寺の性空上人などがあげられます。 彼らの姿を描いた肖像の紹介とあわせて、それぞれの寺院の由緒や歴史を説いた縁起類を紐解き、聖地のはじまりをたずねます。
第4章「聖地へのいざない」
 修行僧や修験者たちを中心に行われてきた西国三十三所巡礼は、次第に階層的な広がりをみせ、彼らに伴われるかたちで武士や一般庶民も行うようになります。 新たなる巡礼者をいざなうにあたり、各寺院の歴史や功徳をわかりやすく説明した参詣曼荼羅や勧進状など、重要な役割を果たした作品を紹介します。
第5章「祈りと信仰のかたち」
 西国三十三所の札所寺院は、聖観音・十一面観音・千手観音・馬頭観音・如意輪観音・准胝(じゅんてい)観音・不空羂索(ふくうけんじゃく)観音のいずれかが本尊となっています。 古来より今にいたるまで、貴賤を限らず、真摯な祈りをささげた多様な観音のすがたを絵画、そして彫刻を中心に辿ることで、信仰のかたちを追体験していただきます。
第6章「巡礼の足あと」
 西国三十三所の巡礼が階層的、さらには地域的な広がりを持つようになると、そこには行楽としての旅の側面も加わるようになり、活況を呈しました。 それぞれの目的は違っても、本尊の観音に手を合わせて祈ることに変わりはありません。
第7章「受け継がれる至宝」
 歴史や宗派が一様でない各寺院には、「観音」あるいは「三十三所」といったキーワードだけでは語ることの出来ない、固有の寺宝が数多く伝えられてきました。 先人たちの努力により、受け継がれてきた至宝の数々をご覧いただきます。
 ギフトショップで鳥獣戯画がプリントされたプラスティックケースを買って外に出ると、まだ夏の暑さが残っています。 いつもは人の頭越しで消化不良の感がある観覧になりますが、今回は満足感をもって家路に着きました。

 マスク(令和2年5月5日)

 #小池頑張れ、#吉村寝ろ、#井戸起きろ、#大村寝ていろ、#荒井どこ行った。新型コロナウイルスに対応する首長に対して、SNS上にあがった応援や批判のツイートです。 私が住む奈良県の知事は、「緊急事態宣言が発出されれば知事に対応が迫られることもあるのでは?」の質問に「う?ん、あまりないですよ」。 具体的なことを何一つ発言せず、何も伝わってこない会見に「どこ行った」のハッシュタグが付けられたようです。
 今回の様な危機の時には政治家の力量が如実に現れ、東京や大阪の首長のスピード感のある判断力や実行力が支持されているようです。 それに対して首相のリーダーシップには疑問符が付けられ、全国民も巻き込んだ「アベノマスク狂騒曲」が1カ月も続いています。 そもそも全国民に2枚のマスクを配ることが、コロナ危機で最優先される政策でしょうか。 これを提案した官僚もそうですが、決断した首相の感覚もずれているように思われます。 国民が望んでいるのはマスクを手に入れ易くする環境を整えることです。 台湾はICチップがついた保険証で「予約」することでマスクが手に入るし、逆に買い占めが不可能な「Eマスク」システムを実施しました。 同じことはできないかも知れませんが見習うべきものがあります。 そもそもマスクは、感染者のウイルス遮断には効果がありますが、非感染者には十分な予防効果はないとされています。 ましてや顔とマスクの間に隙間のできる小さなマスクでは遮断効果は半分以下になってしまいます。 まだマスクは届いていませんが、自衛のためにマスクを自分で作ったり、大手の異業種が参入して製造を始めるなど、マスクを取り巻く環境は変わってきています。 また、以前は中国人がつける黒いマスクに違和感がありましたが、最近は随分カラフルになってファッションの一部となっているような気がします。 テレビに映る政治家のマスクも注目されていて、デニムのマスクやペーズリー柄のマスクも見られます。 それにしても首相はかたくなに小さな布マスクで通し、同じマスクをつけているのは側近たちだけで、頑固な人となりを表しているようです。 全戸へのマスク配布を言い出した首相は「効果はある。できる限り速やかに配る」と意地を張りますが、与党内から「やらなければよかった」との自嘲の声も出ています。 善政のつもりが結果的に大誤算となった今回の政策は、一連の忖度政策の延長線上にあり、決定的に国民との信頼関係を損なったように思われます。 首相は今回のコロナ危機を第3次世界大戦に例えたそうですが、ユリウス・カエサルは「戦争では、重要な出来事は些細な原因の結果である。」と言っています。 今回のマスク政策が、重要な出来事の些細な原因になるような気がしてなりません。 また、こうも言っています。「始めたときは、それがどれほど善意から発したことであったとしても、時が経てば、そうではなくなる。」

 新型コロナウイルス(令和2年4月3日)

「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候。」江戸時代の曹洞宗の僧侶である良寛の言葉です。 災難に逢うときは災難に遭い、死ぬときには死ぬしかない。私たちがどんなに手を尽くしてもそれは変えられません。 だとしたら、それらを受け入れて生きるしかないという意味の言葉です。
 毎月第一木曜日に開催しているおじさん達の井戸端会議「一木会」の案内メールにこの言葉を添えて、3月は開催しましたが、さすがに今月は中止にしました。 テレビでは、連日新型コロナウイルスのニュースが流れ、感染拡大が極端な右肩上がりのグラフで示されています。 ただ、日々の感染者数の増加にスポットを当て過ぎ、全体的に眺める視点が欠けているように感じていました。 そんな時ネットで見つけた記事が、ワシントン・ポストの新型コロナウイルス感染拡大のシミュレーションです。その一部を転載します。
 『感染拡大の指数曲線は、専門家の間で懸念の原因となっている。もし感染者が3日ごとに2倍に増加するとなると、5月にはアメリカ国内での感染者が1億人ほどにまでのぼるであろう。 これは計算から導き出した数字であって、予言ではない。公衆衛生の専門家たちによると、この感染速度を抑制することができると言う。 しかしこれは、もし人々が人混みを避け、全体的に行動を制限することで、「社会距離戦略」を実行したら、の話である。
1.全員が自由に移動
 まず町の住人全員を無作為に配置し、無作為な角度で動かし、その中の1人を感染者にする。 赤い曲線、これは感染者数を示しているが、感染の拡大とともに、この曲線の傾きが急激に上昇し、感染者が回復するとともに、次第に下降しているのがわかる。

2.隔離を計画  感染を鈍らせるために、中国政府が発生源である湖北省に課したたように、強制的に隔離措置を取ってみるとしよう。
3.適度な社会距離戦略  公衆衛生の専門家の言う「社会距離戦略」という戦略を、人口の4分の3は受け入れたが、残りの4分の1が継続的に移動を続けたときに、何が起こるのか見てみよう。
4.広範囲での社会距離戦略
 社会距離戦略についてさらにシミュレーションするため、人口の4分の1を動かすのではなく、8人につき1人の割合で動かしてみたときに、何が起こるのかを見て行く
 結果は変わるとしても、通常、適度な社会距離戦略は、隔離を計画したときよりも効果があり、そして広範囲での社会距離戦略はほぼ、最も効果が高いという結果となる。』
 やはり「不要不急の外出自粛」しか手がないようです。

 スポーツクラブ(令和2年1月20日)

 「福利厚生倶楽部」は、中小企業でも大企業並みの福利厚生制度が利用できるアウトソーシングサービスです。 契約企業の従業員と家族が、宿泊、グルメ、レジャー、スポーツ、自己啓発などの各種サービスを割安に利用できます。 昨年末、入会金免除のキャンペーンがあり、この制度を利用して近所にあるコナミスポーツクラブの法人会員になりました。
 月曜の午前中に入会手続きのためイオンに併設するコナミ西大和に行くと、ひっきりなしに大勢の利用者が出入りしていて大賑わいです。 最初に施設の中を案内して頂きましたが、ジムには様々なフィットネスマシンが並んでいて、10台ほどあるランニングマシーンはほぼ埋まっていました。 コナミでは料金プランが施設のカテゴリーによって分かれています。 カテゴリーとは施設の規模あるいは設備のレベルを表し、設備が充実している所は金額も高く設定されているようです。 私が入会した西大和はカテゴリーIで設備も古く、サウナはありますが、風呂はありません。
 初めて利用したのは、比較的空いていると聞いた木曜日の夕方です。 マシンの操作が分からないので、有料でインストラクターに就いてもらうことにしました。 いくつか質問された後、若い男性インストラクターから一つ一つのマシンの使い方を教わります。 どれも初めて体験する機械で、結構力がいります。 体は硬いのですが力はある方で、脚に負担をかけるマシンは、山歩きで鍛えた脚で比較的楽に操作できました。 一通り教えてもらったので終わりにしようと思ったのですが、熱心に次の個人レッスンも薦められたので、お願いすることにしました。 レッスンが終わった後レーンを独占してプールで泳ぎましたが、50mで息が上がりサウナに入ってシャワーを浴びて帰りました。 年が明けて2回目の個人レッスンのインストラクターは若い女性です。 前回使わなかったマシンの使い方を中心に教えてもらい、終わってから3回目のレッスンを勧められましたが、大体の様子は分かりましたで、断ってその日のレッスンを終えました。
 大学同級生のゴルフ仲間もみんな同じようにスポーツクラブに通っています。 中にはそこで憧れの女性を見つけ、畑で作った大根をプレゼントした者もいます。 そのような出会いは期待していませんが、ここでのトレーニングで筋力を付け、ドライバーの飛距離アップは望むところです。 6人いる仲間のうち私のドライバーの飛距離は4番目ですが、幾つになっても競う気持ちは変わらず、1番になってみたいものです。 月3回のペースで奈良県の北部にあるゴルフ場へ、近所に住む連中をピックアップして出かけます。 交通費の分担はありませんが、年末に高級な日本酒をガソリン代の代わりに届けてくれます。 以前は私とF君が頭一つ抜け出して、時々80台を出していたのですが、最近はだんだんへたになってきて団子レースの様相を呈してきました。 90~100台の競争になり、最後は最終ホールで逆転もあるトラック勝負になります。 仲間内のルールはいい加減なもので最初のホールではワイルドカードを使った打ち直しがみとめられていて、OBが帳消しになります。 また、途中のホールでOBを出しても少し出ている程度であればセーフにしてもかまいません。 もう5年以上こんな調子で続いている仲間内のゴルフですが、最近段々と忘れ物が多くなってきました。 クラブを忘れるのはしょっちゅうで、お互いがフォローしなければならない介護ゴルフの様相を呈してきました。 こんなゴルフですが、頭は少々ボケても体はスポーツクラブで鍛え、永く続けていきたいものです。

 デジタル・レーニン主義(令和2年1月5日)

 「~主義」と名の付く言葉は多くあります。民主主義は政治体制の一種で、国民が政治の主権を握るシステムのことです。 それに対し、資本主義や社会主義、共産主義は、主に経済の仕組みに関するシステムや思想と言えます。 このうち資本主義は、資産の個人所有に基づく自由主義経済を認め、市場原理を第一として考える経済的仕組みになります。 それを真向から否定するのが社会主義と共産主義で、どちらも富を社会で共有することで、平等な社会の実現を目指しています。 冷戦後、これまでの「~主義」は様々な形で変遷を遂げ、その国を特徴づける名前が付けられるようになってきています。
 韓国では、李承晩学堂校長の李栄薫氏が中心となり、慰安婦問題、徴用工問題、竹島問題などを実証的な歴史研究に基づいて論証し、数々の「韓国が主張してきた歴史の嘘」を指摘しました。 李氏は「嘘をつく文化」が政治や司法を支配している韓国を「反日種族主義」と名付けました。 種族主義とは聞きなれない言葉ですが、その根本にあるのは韓国に長い歴史を持つシャーマニズムだといいます。 その集団が民族というよりまるで種族のようになり、意見の合わない隣人を悪の種族とみなし、力ずくでも排除しようとする非寛容な心性を指します。
 今、絶好調に見えるロシアに関して、国際政治学者のジョセフ・ナイ氏は、「泥棒男爵」国家資本主義と名付けています。 「泥棒男爵」とは、力か富を得るために疑わしい商慣習を用いたと見られる実業家に関して使用される名称です。 ロシアはサイバー攻撃によって米国やその他の国の選挙妨害をしてきました。 しかしながら、ロシアがなれるのは国際的なかく乱要因でしかありません。 ロシアには、効果的な市場経済を支える政治制度が大きく欠けており、深刻な人口・健康問題を抱えています。 その冒険主義の背景にあるのは、衰退する国家の姿です。
 中国では、14億人という国民をコントロールするための新体制の構築が進められています。 インターネット社会で発達した国民のコミュニケーション能力は、党の安定支配にとって脅威でしたが、習近平はこれを強みに変えました。 政府に都合の悪い内容の検閲という次元から、オンラインで流れる情報を党が魅力的に映るように巧みに操作する体制へ。 さらに、ビッグデータを用いて国民一人一人、各企業の行動もあまねく監視下に置き、制御する制度を作り上げました。 独トリーア大教授のセバスチャン・ハイルマン氏は、このデジタル技術を基盤に習氏が再構築した権威主義的統治の考え方を「デジタル・レーニン主義」と呼んでいます。 レーニンは計画経済や国家管理の原型を考案しましたが、当時は、計画の策定や総括に必要な十分なデータを集められませんでした。 習氏はそこをデジタル技術で埋めることにより、歴史を動かす贈り物を手にしたのです。
 中国は一極集中を強め、国民の管理を可能にする先端技術の開発を進め、「サイバー超大国」へ邁進しています。 西側社会は、これを産業界の技術革新だと見ていますが、中国は今、これを「デジタル文明」と呼び、イデオロギーとして固めつつあります。 こうした「文明」は今後、ファーウェイによる次世代通信規格「5G」事業の世界各地での導入によって、地球規模で広がることが予想されます。 世界は今後、5G技術によって、米国陣営と中国陣営に分断され、それは政治、経済にも深く浸透していくと予想されています。
 今年最初の「一木会」の話題は、この「デジタル・レーニン主義」です。これを肴におじさん達の井戸端会議はおおいに盛り上がるものと思います。

 再就職(令和元年8月16日)

 建設コンサルタントは、道路、鉄道、橋梁、トンネル、河川、上下水道などの社会資本の計画・設計などを行う企業で、その業務は公共事業に関するものです。 公共事業の業務を受注できるのは建設コンサルタント登録を受けている会社で、技術士の資格を持った社員が在籍していることが業務の受注に直結します。 世間での認知度は低いのですが、技術士はモノづくりに携わる技術者にとって最高峰の資格です。 合格への道はかなり厳しく、技術系の資格の最終ゴールとも言われています。
 建設部門(鋼構造及びコンクリート)の技術士の資格を取得したのは、20年以上も前のことで、以前勤めていた会社でシステム開発の仕事をしていた頃です。 設立して間もないこの会社では、社長が情報部門の資格を持っておられ、社員の資格取得に熱心な方でした。 最初に受験した時はほとんど準備をしていなかったため試験会場へは行かず、けれど会社にも出勤できないため、映画館で時間を過ごしました。 生半可な受験勉強では受からないため、朝4時に起き出勤前に受験勉強をして、何回目かの挑戦で合格した時は大学の入試に合格した時以来の歓びでした。 会社で第1号の技術士であったため報酬の制度が新しく制定され、過分な一時金と毎月の資格給でずいぶん収入が増えました。
 自由な雰囲気で居心地の良い会社だったのですが、その後統合した会社にはなじめず早期退職を強いられたため、 この資格を活かし京都にある建設コンサルタントに籍を置きながら、新たに会社を設立しました。 その後、両方の会社を辞めてからは、1級建築士の有資格者を必要としていた大学時代の同級生が経営する建設会社に籍を置いていました。 出社しなくてもよいとの約束だったのですが、現場代理人として工事を担当してほしいと言われたため、6月に私の方から退職を申し出ました。 このまま年金だけで生活できなくもないのですが、一線を退いた大学の同級生たちは皆技術士の資格を活かして再就職しています。 友人のS君に相談すると、自身が就職を斡旋してもらった建設技術者の人材斡旋の会社に連絡を取ってくれました。 ひと月ほどして連絡があり、滋賀県に本社のある建設コンサルタントを紹介されました。 大津の実家近くにある会社で、何かのご縁があるのかも知れません。 面接を受けるため6月の初め、博多から来られた人材斡旋の会社の方と大津駅で待ち合わせその会社へ向かいました。 琵琶湖の近くにある会社の事務所玄関には大津祭の厄除けの粽が飾ってあり、故郷の雰囲気の漂う会社に親しみを感じます。 経営陣の方々から経歴などについての質問がありましたが、決め手はやはり技術士の資格のようです。 条件は週一日の出社で、給与面も十分満足できる金額を提示して頂きました。 毎週火曜日、最寄り駅の王寺から奈良周りの直通快速に乗り、京都で琵琶湖線に乗り換え大津で降ります。 帰りは行きとは違うルートで、新大阪から東大阪線の直通快速で王寺まで戻ります。 丁度、奈良、京都、大阪を一周するような通勤経路でちょっとした小旅行です。 大津駅で降りると実家の隣の天孫神社にお参りし、実家に顔を出して畑で採れた野菜などを届けてから会社に向かいます。 会社の近くにはDIYの店やスーパー、西武百貨店などがあり、食事や買い物に便利な所です。 今はフードコートで食べていますが、季節の良い頃はスーパーで買ったお弁当を近くの公園のベンチで琵琶湖を眺めながら食べていました。 この会社が最後の勤め先になると思いますが、毎週年老いた両親の様子を伺え、故郷で社会のお役に立つ機会を頂いたことをありがたく思っています。

 消えた電灯(令和元年5月7日)

 「ご安全に!」。現場にいると一般人には聞き慣れない言葉が聞こえてきます。 これは、K社の営業所やさまざまな現場で使われている挨拶です。 「ご安全に!」は、その昔、ドイツの炭鉱夫たちの間で使われていた「ご無事で!」という挨拶が由来とされています。
 この「ご安全に!」で終始した、高槻市にあるK社の倉庫耐震補強工事が、先月終わりました。 昨年末、提出した施工計画書の不備を指摘され、予定していた現場事務所設置の延期から始まる、先が思いやられるスタートでした。 工事が始まってからも、協力会社のM組の番頭さんが盲腸で入院して、代理の方が現場の指揮を取られるなどの混乱はありましたが、 復帰されてからは順調に進みました。 毎朝現場事務所のカギを開け、K社の高槻事務所の担当者と本社の工事担当者にその日の作業予定を報告し、終了時に作業内容を連絡するのが日課です。 作業の段取りは全てM組の番頭さんが行うので、私の役割は時々現場に出かけて作業の内容や安全を確認し、決められた書類を作成する負担のない仕事です。 作業におけるそれまでの大きなトラブルと言えば、ペンキ屋さんの段取りがつかず、 その日の午前中に仕上げなければならない垂直ブレーシングのペンキ塗りを私が行ったくらいです。 溶剤にシンナーを使っていたため、2時間程密閉された部屋でペンキを塗っていると気分が悪くなりました。
 この工事の最大のトラブルは、工事完了の1週間前にK社の担当者からかかってきた1本の電話から始まりました。 すでに工事を終えた工区の電灯を確認してほしいという内容です。 施工前の写真で確認すると、その電灯は取り換える前の水平ブレーシングに確かに取り付けられていますが、施工後は取り付けられていません。 実はその電灯のコンデンサにはPCBが使われており、適切に廃棄されなければならないとのことです。 最初は古い電灯が無くなったくらいでたいしたことにはならないと思っていましたが、 K社では大問題になっていて、担当者からはひっきりなしに電話がかかってきます。 ここから消えた電灯の捜索が始まりました。 その電灯を取り外した日から再取付けしようとして見つからなかった日までの作業内容と作業者を洗い出して、 勝手に廃棄していないかをヒアリングしますが、そんな古い電灯の記憶は誰にもありません。 そんな中で電気工事を担当した作業者から次のような内容の有力情報がありました。
『配電倉庫1階でボックスを取り付ける作業をしている時に青い作業服を着た2人が階段を降りて来て、1人の方は電灯を1台持っていた。 「何をするの」と聞いたところ「PCBが使われた電灯の調査をしている」との返事があった。 その後作業を続けたので後の行動は確認していない。 1階の作業完了後に2階の電灯を取付けに行ったところ、棚の上の電灯がなくなっていたので、壁に立て掛けておいた梁下の電灯だけを再取付けした。』
結局はこの証言が決め手になり、最初は否定していたK社の関連会社の職員が勝手に廃棄していたことが判明しましたが、 その間ずっと当方の作業者が勝手に廃棄したものと疑われ、不燃物のごみ箱の中に入って探す作業まで行いました。
 今回の事件の主な原因は、K社が当方にその電灯の情報を事前に知らせておかなかったこと、 関連会社の職員が関係者になんの連絡もせずに勝手に廃棄したこと、当方が電灯の取り外し、 再取付けに関してその管理をしっかり行っていなかったことの3つです。 その中でK社が最も非難したのは、その電灯の適切な管理を怠った当方でした。 責任を一方的に業者に押し付けようとするK社の組織と担当者の姿に辟易としましたが、 一方で、企業の体質と価値観に縛られる現役サラリーマンの悲哀が感じられる出来事でした。

 現場代理人(平成31年1月4日)

 高槻市は、大阪府北部の北摂三島地域に位置し、「水とみどりの生活文化都市」がキャッチフレーズの中核都市です。 一帯は高月と呼ばれていましたが、槻(欅の古称)の大木があり、戦国時代に槻の近くに本陣が立てられたことから、月を槻に変えたとされています。 高層住宅街の一画にあるハニワ工場公園は国指定の史跡公園で、ハニワを焼いていた大小あわせて18基の窯と工房、 工人集落からなる全国最大級の工場跡があります。 高槻市のゆるキャラ"はにたん"はそこから出土した武人埴輪を素材に制作されたものです。
 12月のおじさん達の井戸端会議(一木会)は、この高槻市の飲食店で開催しました。 プレゼンターは高槻市在住のUさんで、テーマは「ようこそ高槻市へ」です。 大阪市内から離れた高槻市に会場に選んだ理由の一つは、高槻市周辺に住んでいるメンバーが3人いることですが、 最大の理由は私が高槻市にあるK電力の倉庫耐震補強工事の現場代理人を務めることになったからです。
 12年間兼業で籍を置いていた京都にあるコンサルタント会社の廃業で、 昨年の6月から一級建築士の有資格者を求めていた大学の同級生M社長が経営する建設会社に籍を置くことになりました。 非常勤が条件でしたが、昨年の大阪北部地震の関係で受注工事が多くなり、社員だけでは現場代理人が務まらないため、 高槻の現場に常駐してほしいとの依頼がありました。 建築の現場経験はありませんが、倉庫にブレーシングを追加する耐震補強工事で、私が専門の鋼構造分野であるため引き受けることにしました。 施主がK電力なので、公共事業並みの工事管理を要求されます。 工事の段取りは全て協力会社の担当者が行い、私の主な役割は施主との連絡や必要書類の作成です。
 契約後速やかに提出する書類として施工計画書と安全衛生管理計画書があります。 協力会社の担当者が作成したそれらの書類にM社長が目を通し、修正したものがメールで送られてきました。 私が見ても不完全でしたが、現場事務所を設置する日も決まっており、後日再提出すると断ったうえで施主に送ったのは、工事が始まる3日ほど前です。 その直後に施主の担当者から「施工計画書も安全衛生管理計画書も承認していない段階で工事をスタートするのを認めるわけには行かない」 と工事ストップの連絡が入りました。 現場に入れば現場代理人を引き受けた私が責任を持ちますが、工事が始まるまでの段取りはM社長にお任せすることにして待機していました。 M社長から連絡があり2つの計画書を完成させて説明のため施主の所へ伺ったのはそれから1週間ほどたったころです。 「たかが耐震補強工事と思って軽く見てもらってはこまる。変電所の工事並みに安全に関しては細心の注意を払って取り組んでもらいたい」 との施主からの指示です。 どうやら同じような耐震補強工事の現場で立て続けに事故があったようで、絶対に事故を起こさせないとの強い思いが感じられました。 結局工事は20日ほど遅れてスタートすることになりましたが、公共事業と違って工期の延長は比較的自由になるようで、 工事期間は当初予定の3ヶ月のままです。 これから後約2ヶ月半拘束されますが、既に大学の同級生たちとのゴルフの予定が数か月先まで入っています。 その間、プライベートな楽しみは少し犠牲にして、建築現場の仕事を経験してみたいと思っています。

 人身事故(平成30年5月2日)

 現役を離れて何年も経つと会社関係の付き合いは少なくなりますが、同級生たちと会う機会は増えてきます。 私の場合、S45年入学組とS50年卒業組の2学年に渡る大学の同窓会が頻繁にあります。 S45年入学の学科の同窓会は年2回ほどですが、段取りの上手な幹事役のK君が、研究室の同窓会を3ヶ月に1度の割合でセットしてくれます。 時代の流れで卒業した大学に土木工学科も橋梁研究室の名も残っていませんが、 大半が橋梁関係の仕事に携わり、社会人になってからは仕事上の付き合いも続いてきました。
 その橋梁研究室の同窓会に出席すべく、家を出て近鉄生駒線に乗り王寺駅に着いたのは4月25日(水)の17時15分頃です。 王寺駅に着いた時快速電車がホームに入って来ましたが、乗り換えには間に合いそうにありません。 次の快速でも集合時間には間に合うので、ゆっくり階段を上り下りしてホームに着くと、先ほどの電車が待っていました。 時間調整をしている難波行きの快速電車で、ドアは手動モードになっています。 平日夕方の時間帯の乗客は、学校帰りの学生が数人ほどで空いています。 いつもの様に先頭車両の運転席側の席に座ると、時間調整を終えた電車は動き出しました。 順調にスピードを上げ始めた電車に異常を感じたのは、次の三郷駅を通過するあたりです。 警笛を何度も鳴らし、急ブレーキがかかりました。 何があるのだろうと運転席を見つめたまま身構えた次の瞬間、大きな音と共に運転席のフロントガラスに無数のひび割れが入りました。 その直後に割れたガラス越しに白っぽいもの消えたのが見えました。人身事故です。 私の席からは物としか認識できませんでしたが、運転席からは人の姿がはっきりと見えたはずで、表情まで見えていたのかも知れません。 あの衝撃では即死か、死を免れてもかなりの重症であることが想像されます。 電車はその場で停車して、運転席から事故を伝える電話の内容が聞こえてきます。 しばらくすると救急車やパトカーのサイレンが近づいて来て、運転席や線路上であわただしい動きが始まりました。 状況を確認しようと後ろの車両から何人かの乗客が運転席に近づいて来ましたが、私は席に着いたまま動きませんでした。 その後、連絡を受けた車輌整備の専門家や事故担当者が電車に乗り込んで来て、乗客に気分の悪い人がいないかを聞いて回っていました。 車内アナウンスで状況が知らされますが、私の席から運転席の会話や無線の内容が聞こえますので、それより先に正確な情報が得られます。 1時間ほど動かないのを覚悟して、同窓会に遅れる旨を連絡するとともに、女房や友人に事故現場からのレポータの様に実況をメールしました。 電車は1時間ほど止まったままでしたが、その場での点検の後、再確認のため50mほど動いて大和川に架かる鉄橋の前で停車しました。 機械系統の支障がないことは確認された様ですが、フロントガラス一面にひびが入っており、前がよく見えません。 このままこの電車を走らすかどうかの判断は運転手に任されたようですが、彼は傷ついた電車の運転を再開してくれました。 ただし、よほど神経質になっていたようで、徐行運転して駅を通過するたびに何度も警笛を鳴らしていました。 運転は天王寺で打ち切りになりましたが、帰宅時間と重なったホームは人であふれていました。 かなり遅れて店に到着した時、2時間飲み放題コースの料理は残っていましたが、飲み物のラストオーダーまで30分しかありません。 いつもより少し飲み足りないまま解散しました。
 養老孟司さんは著書『死の壁』で死体を一人称、二人称、三人称の3つに分類していますが、 その中の三人称の死体は他人の死体で、抽象的な存在であり、場合によっては単なる物体です。 人身事故のあった電車のしかも先頭車両に乗っていたのはもちろん初めての経験ですが、 どんな事情があれ、これほど大勢の人に迷惑をかける死に方はないと思います。 三人称の死体は他者に対して縁の薄い存在であってほしいものです。

 奈良検定1級(平成30年2月15日)

 奈良県内に現存する以下の近代建築の内、洋風建築に属さないものはどれか。
 ア)旧帝国奈良博物館本館
 イ)奈良少年刑務所本館
 ウ)日本聖公会奈良基督教会堂
 エ)奈良女子大学記念館
奈良検定1級の過去問で、正解は和風の教会建築のウ)です。
 奈良検定1級の講習を受けるため、会場の奈良女子大学へ行ったのは昨年の秋でした。 正門を入ると正面に、この問題にも登場する西洋風木造建築の奈良女子大学記念館があります。 明治41年に建てられた旧奈良女子高等師範学校本館で、国の重要文化財に指定されています。 女子大に入るのは初めての経験ですが、共学の大学によくある派手な立て看板もなく、清楚な修道院の様な雰囲気が感じられます。 丁度紅葉の時期で、記念館を囲む庭園のもみじが真っ赤に色づいています。 講習の始まる時間ギリギリに会場に着くと、100人程入れる会場はほぼ満席です。 3人掛けの真ん中の席も、先に2人で座っている人の荷物をどかしてもらって埋まって行きます。 もう少し余裕をもって広い会場を用意してくれたらいいのにと思いながら、窓際に1つ空いた席を見つけました。 講習の内容は、奈良の寺社・建築・彫刻・伝統工芸・祭と芸能・史跡・名所に関するもので、3人の講師が各2時間ずつ、過去問を中心に解説を行います。 毎年事前に公表されるテーマで10題の特別問題が出題されますが、今年のテーマは興福寺です。 その出題を担当する先生が想定問題を解説され、試験問題のほとんどはその中から出題されるとのことです。 午前の講習が終わり、昼食は近鉄奈良駅近くのコンビニでおにぎりと惣菜、それに菊水のカップ酒を買ってきました。 記念館の裏のベンチに座り紅葉狩りを楽しみながらの昼食でしたが、午後からの講習は半分居眠っていました。
 年末から年始にかけて毎日机に向かい、過去問に関してはほぼ正解できるようにして試験に臨みました。 試験は1月7日の日曜日に、自宅から電車で20分程の手塚山大学の生駒キャンパスでありました。 乗車してすぐに電車は徐行運転を始めます。昨年夏の豪雨で宅地の斜面が崩壊して、線路を塞いだ所を通過するためです。 仮の支柱で支えられコンクリートを吹き付けられた斜面は、応急処置のままです。 線路に重機を入れられないため、本格的な復旧は無理のようです。 奈良線の東生駒駅からは臨時のバスが出ていますが、生駒線の最寄り駅の菜畑から歩いて会場へ向かいました。 午前中は2級の試験、午後からは1級とソムリエの試験があります。 奈良県在住で大学の同級生I君はソムリエに3回目の挑戦で、M君は初めての2級受験です。 1級の試験では4択の問題が100問出題され、その内過去問は8割程でした。 興福寺に関する特別問題では、講習で習った問題がそのまま出題されたので全問正解です。 試験が終わってからM君とI君にメールで感触を聞いたところ、2級を受験したM君は90点程取れたとのことです。 2度苦杯をなめているI君も正月返上で試験に備えたので、何とか合格点には達しているだろうとの返信がありました。 ソムリエ検定では選択問題と記述式の問題があり、観光客の案内を想定して実際に現地へ行ってみないと書けないそうです。 ソムリエに合格すると、奈良のお寺や神社の入場料が免除されるのが魅力です。 次はソムリエにチャレンジするため、今年はガイドブック片手に奈良をめぐる旅が多くなりそうです。 今まで試験と言えば業務に関するものばかりでしたが、これからは好きなことを楽しみながらチャレンジしようと思っています。 漁師を目指すおじさんの次の目標は船舶免許です。

 大立山まつり(平成30年2月1日)

 京都で行われた新年会の2次会で忘れたマフラーは、信楽である高校の同窓会ゴルフの帰りに取りに行こうと考えていましたが、 雪のためゴルフは中止になってしまいました。 他に京都へ行く機会がないかと思っていたところ、東大寺学講座が開催されるのを新聞の地方欄に見つけ、 京都へ行ってから奈良に戻り受講することにしました。 丁度その日は大立山まつりが平城宮跡で開催されていて、若草山の山焼きと花火の打ち上げも行われます。 これまで奈良の観光行事にあまり関心はなかったのですが、奈良ソムリエを目指すようになってからは興味を持つようになりました。 近鉄線を生駒と西大寺で乗り換え、竹田で隣のホームに止まっていた地下鉄に乗り、四条烏丸へ向かいます。 店は駅を出てすぐの所にあり、低い間仕切りで区切られたテーブル席に見覚えがあります。 ダウンジャケットとマフラーを間仕切りに掛けた後、マフラーが落ちたのを気付かずに忘れて帰ったようです。 ネットでメニューを調べて、パスタを注文するつもりでしたが、11時頃店に入った時はまだモーニングのメニューです。 受付で会計を済ませると番号の付いたプレートを渡され、席に着いて待っていると注文したソーセージエッグマフィンセットが運ばれてきました。 店は比較的すいていたので、客が途絶えたころ合いを見計らって受付へ行き、 忘れたマフラーを取に来た旨を告げると、名前を確認してから手渡してくれました。 店を出る時に受付で再びお礼を言ってから駅に向かうと、丁度1時間に1本しか運転されていない奈良行きの直通電車に乗ることができました。 近鉄奈良駅から東大寺へは歩いて15分ほどの距離ですが、若草山の山焼きが開催されるため、歩道には屋台がいっぱい並んでいます。 観光客と鹿を避けながら南大門の前の通りを歩いていると、聞こえてくるのはほとんどが中国語か韓国語です。
 会場の東大寺総合文化センター金鐘ホールは床や壁、座席にふんだんに木材を使った和風の豪華な造りです。 講演は、「なぜ奈良の大仏が東大寺に鎮座することになったのか」を古文書や木簡の資料を基に組み立てていくストーリーで、 推理小説のなぞ解きを聞いているような面白さがあります。 紹介された経歴で、講師の東大寺史研究所所長の栄原永遠男さんは大学の2~3年先輩であることを知り、同じ時期に大学にいたことに親しみを感じます。 奈良時代の歴史が専門の様で、後日図書館で「日本の歴史④天平の時代」を手にした時、著者にその名前を見つけました。 永遠の時間を望んで親が名付けられたのか、変わった名前に相応しい歴史家になられたようです。
 講座が終わってから平城宮跡の大立山まつりの開場へは、法蓮格子や旧街道の面影が残る佐保路を歩いて行きました。 佐保路には雪柳で有名な海龍王子、総国分尼寺として建立された法華寺などの4つの寺院が連なりますが、 奈良検定の過去問で出題されたため、初めて来たのにその配置まで知っています。 それら寺院の前を通り、平城京跡に着いたのは生駒山に夕日が沈むころでした。 大立山にはまだ灯が入っていませんが、ライトアップされた会場には奈良県の各市町村のテントが立ち並び、名物料理が販売されています。 一通り見て歩いた後、豚まんとカレー焼そばを買い求め、少し離れた基壇の上に腰をかけ、持参したワンカップで晩酌です。 しばらくすると花火が上がり若草山に点火されたのが分かりましたが、かなり離れているため、冬の古都の夜空を赤々と染め上げる壮観さは伝わりません。 その後、会場の舞台で上演された勇壮な太鼓の演技を最前列で見てから、返ってきたマフラーでしっかりと防寒して家路に着きました。

 伎芸天(平成29年6月20日)

 今年の奈良まほろばソムリエ検定で「奈良通2級」に合格しましたが、1級を受験するためには、体験学習プログラムの履修が義務付けられています。 提供されたプログラムの中から奈良の伝統工芸を体験する「古楽面の彩色」講座を選び、先日体験してきました。 日本の古楽面は、7世紀はじめ推古天皇の頃に仏教と共に仏教美術のひとつとして伝わりました。 最初に伎楽と共に「伎楽面」が伝わり、のちに雅楽の「舞楽面」、大衆に功徳と法悦を与えるための行事に用いる「行道面」が伝来してきました。 その後、11世紀になると能楽や狂言が発生し日本独自の面も数多く生み出されました。 その古楽面の多くが、奈良の社寺や正倉院などに残されています。 これらを模造して鑑賞用として作られるようになったのは近代になってからですが、戦後、日本人が国有の古美術を考え直し、 その貴重さに気づいてからは室内装飾用の工芸品としての存在感を高めてきました。
 なら工藝館の受付で受講料を支払い教室に入ると、受講者は6名で男性は私だけです。 テーブルの上には彩色された古楽面の見本と、これから彩色する黒い面が置いてあります。 鼻筋の通った美しいお顔で、気品が感じられます。まだ実物にお目にかかったことはないのですが、秋篠寺の伎芸天との出会いです。
 秋篠寺は、光仁天皇の勅願で宝亀11年(780)に善珠僧正がひらいたと伝えられ、奈良時代最後の官寺です。 平城宮跡の西北、低く起伏する丘のふもとにひっそりと隠れています。 奈良時代の建築の伝統を生かした寄棟の純和様の本堂の内には、重文の本尊薬師三尊を中心に、 梵天、帝釈天、救脱菩薩、伎芸天の4立像が安置されています。 中でも伎芸天が最も有名で、そのしなやかな立ち姿は「東洋のミューズ」との称賛を受けるほど見事だそうです。 大自在天というインドのシバ神が天上で音楽を奏していたとき、その髪の生え際から生まれたのが伎芸天といわれていることから、 伎芸天に芸能や音楽の上達を祈ると、望がかなえられると言い伝えられています。
 古楽面の彩色では、先ず面全体に暗い緑色の絵の具をドライヤーで乾かしながら2度塗ります。 次に髪の部分と唇を朱で塗ります。繊細なタッチが要求される生え際は細い筆を使います。 唇全体に朱を付けると厚ぼったい感じになったので、ふき取って輪郭の部分を残すようにすると、色気さえ感じられます。 髪の部分は絵の具が乾かないうちにぬれタオルで軽く叩き、下地の緑を出します。 最後に全体に古色を出すために茶色がかったグレーを塗り、同じようにぬれタオルで色を落としていきます。 窪んだ部分に古色が残ると、年代を経た古楽面の様な仕上がりになります。 仕上げにワックスをかけるとなかなかの出来栄えです。 2時間ほどの体験を終え、東向商店街にある「文楽そば」での昼食の後、駅に向かうため三条通りを歩いていると、 古楽面を売っている土産物店がありました。中に入るといろいろな種類のお面が陳列されています。 その中に先ほど彩色した面と同じ型で造られた伎芸天を見つけました。 受講料より2千円ほど高い5,600円の値がついています。 女主人の話では、美術工芸「中の坊」さんから仕入れているそうで、中坊竜童さんから体験教室で講義をする話を聞いておられました。 私が彩色した古楽面を見せると、よくできていると感心され、店に出しても良いとの評価をいただきました。 以前から絵画や彫刻に興味はありましたが、絵心がなく筆を執ることは諦めていましたが、古楽面なら始められそうです。 伎芸天に上達を祈り、「中の坊」の教室に通おうと思っています。

 京都迎賓館(平成29年5月8日)

 京都迎賓館は海外からの賓客を迎え、日本への理解と友好を深めてもらうことを目的に平成17年に建設されました。 日本の伝統的な住居である入母屋屋根と数寄屋造りの外観を活かし、築地塀を巡らせた和風の佇まいを創出しています。 建設に当たっては、数寄屋大工、左官、作庭、截金など、京都を代表する伝統技能者の技が生かされています。
 贅と技術の粋を集めたこの建物に興味を持っていましたので、ネットで事前に申し込み、京都鷹峯に宿泊した翌日に親父と2人で参観してきました。 指定された受付時間に行き、メールで送られてきた事前予約券を見せましたが、当日受付で予約なしでも入れるそうです。 西門から入り、地下駐車場に臨時に設けられた入り口は、空港の保安検査場の様な雰囲気です。自動券売機でチケットを買って中に入ります。 お金を直接扱わない方針のようで、音声ガイドの貸し出しも自動券売機です。 スタートボタンを押せば使い方の説明が流れる設定にしておけばよいと思うのですが、係りのおばさんがいちいちその使い方を説明しています。 トイレも土産売り場も小さく、非効率的でいかにも臨時で造った感じで、日本を代表する建物と調度品を観賞するのにはふさわしくないエントランスです。
 一階でスリッパに履き替え正面玄関から入館すると、正面の扉には樹齢700年の欅の一枚板が使われています。 廊下を進むと特色のあるいくつかの部屋があります。
「夕映の間」は、東西にある壁面の綴織り題名に由来します。 西側が「愛宕夕照」、東側が「比叡月映」で、それぞれから一文字を取って部屋の名称としたものです。
「藤の間」は、京都迎賓館で最も大きな部屋で、晩餐会や昼食会、あるいは歓迎セレモニーの会場として使用するほか、 舞台があり、能や日本舞踊といった伝統芸能の鑑賞会場としても使用されます。木造では考えられない間口の広さで吊構造になっています。
「桐の間」は、日本の伝統的な畳敷きの大広間の「和の晩餐室」です。 最大24名までの会食が可能で、本格的な京料理を供するとともに、芸舞妓による日本舞踊や、筝曲の披露などで賓客をもてなしします。
 京都は、良き伝統を受け継ぐと同時に、先進的な文化を受け入れ、常に時代の最先端を歩みながら、 優れた技能を今日まで受け継いできました。 ここでは現代の感性で表現したその技能を見ることができます。畳は「中継ぎ表」という昔ながらの技法により製作されています。 この技法は畳表の材料であるイグサの良い部分のみを使って、中央で紡いでいるため畳の中央には筋目が入っています。 漆は木の樹液を加工した天然塗料で、年月が経るほど深みを増していきます。 「桐の間」のテーブルは12メートルもあり、最後の工程では職人が素手で磨きをかけたため、掌が摩擦で「やけど状態」になったと言われています。 截金は純金箔やプラチナ箔を数枚焼き合わせたものを両手で2本の筆を使いながら一本一本扉に貼っていき、種々の紋様を描き出す技能です。 「藤の間」の舞台扉、「桐の間」の欄間には人間国宝の故江里佐代子の截金が施されています。
 参観を終え、車を止めた梨木神社にお参りして駐車代金を合わせて少し多めのお賽銭をあげて駐車場に戻ると、 フロントガラスに「参拝以外の駐車はお断りしています」と張り紙がしてあります。 張り紙をとって社務所へ謝りに行くと、宮司にこっぴどく叱られました。 参拝したとはいえ1時間以上車を止めた非はもちろん私にありますが、京都人気質の「いけず」を感じた出来事でもありました。

 奈良検定(平成29年1月20日)

 奈良検定は、奈良ファンや奈良に精通している人達を認定するために奈良商工会議所が主催する検定制度です。 奈良をより多くの人に理解してもらう一方、奈良を訪れる観光客に、そのすばらしさを伝えることができる人材の育成を目的としています。
5年ほど前に地元の本屋で公式のテキストブックを見つけ、少し興味があったので買い求めましたが、勉強をすることも試験を受けることもありませんでした。 受験のきっかけを作ってくれたのは、大学の同級生のI君です。卒業後40年のブランクの後、遊びの付き合いが再開しました。 家が近いのでよく一緒にゴルフ場へ行くのですが、行き帰りの車の中での話題で、彼が2級、1級と合格し、 最上級のソムリエに挑戦していることを知りました。 リタイアー後に多くの趣味を持つことの必要性を感じていましたので、早速チャレンジしてみることにしました。 公式テキストブック以外にもいくつかの参考書がありますが、マイナーな本のため、近くの書店には置いていません。 ただ、毎日新聞奈良支局が編著した「チャレンジ奈良検定」は、毎日新聞社で入手できるため、ゴルフの帰りに奈良支局に寄りました。 新大宮にある支局は、古いビルの2階を間借りしていて、ドアを開けると雑然と机が並んでおり、想像していた活力のある報道機関という感じはしません。 入り口近くの席に座っていた女性に声をかけ、用件を話すとお目当ての参考書を持って来てくれました。 「毎日新聞を購読されていますか」と聞かれたので、「していません」と言ってから本代を支払いました。 なぜ新聞の購読を確認されたかを尋ねたところ、購読者なら無料で差し上げようと思っていたとのことでした。 まじめな性格が災いして、正直に答え過ぎたようです。
 一番簡単な2級クラスの検定とは言え、試験準備は必要です。 読んでいて眠くなるような300ページほどのテキストに目を通し、過去10年間の問題と解答を覚え、試験に臨みました。 会場は家から電車で30分ほどの所にある帝塚山大学東生駒キャンパスで、受験者が多いため、最寄り駅から会場までの臨時バスが出ています。 試験時間は90分で100問出題されます。ほとんどの問題は過去問で経験した問題でしたが、初めて見た問題も5問ほどありました。 その中の一つは次のような問題です。
 問23.江戸時代に、崇峻陵と考えられていた桜井市の大型方墳はどれか。
 ア.茶臼山古墳 イ.天王山古墳 ウ.ホケノ山古墳 エ.メスリ山古墳
ヤマ勘でイを選びましたが、合っていたようです。70点以上が合格ですから多分合格していると思います。 「奈良通2級」に合格すると、さまざまな体験を通じて奈良のよさを理解するために、体験学習プログラムに参加する必要があります。 これを履修しないと次の1級の受験資格がもらえません。 試験は年に一回しか行われず、しかもだんだん難しくなるため、最上級のソムリエに達するまでの道のりは遠いようです。
 先日、奈良に関するもう一つの資格取得のための講習会に参加してきました。 建築士を対象にしたこの講習を受講することにより、奈良県の被災建築物応急危険度判定士に登録されます。 地震でダメージを受けた建物の危険度を判定し、赤、黄、緑のステッカーで判定結果を表示するボランティア―です。 被災した建物を調査する判定士の姿を、テレビの放送で見たことがあります。 専門的な知識を活かせ、社会に貢献できる活動だと思いますが、当分の間依頼が来ないことを願っています。

 伊東若冲(平成28年8月15日)

 若冲の絵を始めて見たのは昨年の春、下の息子の結婚が決まり両家の顔合わせのため東京へ行った時です。 サントリー美術館で「若冲と蕪村」展が開かれていました。展示されていた若冲の絵には、激しくうねる曲線でデフォルメされた象や鯨が描かれていました。 それに対して蕪村の絵「夜色楼台図」には、雪に降りこめられる京都の家々の屋根の下にうずくまる人間のぬくもりが描きこまれていました。 若冲の「動」に対して蕪村の「静」が感じられたのが印象に残っています。 若冲は今年が生誕300年に当たり、特集が放送されたり、各地で特別展が開かれたりしています。 先日の東京都美術館での公開では、上野公園の美術館周辺に、あきれるほどの長蛇の列ができました。 炎天下、列の最後尾は4時間待ちで、ようやく入場できても列はさらに館内へ続き、 どうにかたどり着いた作品の前は大混雑で観賞どころの騒ぎではなかったとのことです。 京都錦小路にある青物問屋の長男として生まれ、40歳を機に家督を弟に譲り、生涯独身で画業に専念し独自の絵画世界を確立したのが若冲です。
 隔月に滋賀県で開催される高校の同窓会ゴルフに参加していますが、帰りに大津の実家に寄り、 米寿を迎える親父を誘って、よく京都鷹峯の温泉で一泊するようになりました。 先日は、親父を送って帰る途中で相国寺に寄り、承天閣美術館で開催されている若冲展を見てきました。 近くの駐車場の場所を門前の守衛の方に聞くと、門をくぐって石畳の道を進んだ奥に無料の駐車場があるとのことです。 靴を脱いで承天閣美術館に入ると館内は2つの展示室に分かれており、 第1展示室には東京上野の美術館で4時間並ばないと見られなかった動植綵絵30幅が一堂に展示されていました。 動植綵絵は、「釈迦三尊像」を荘厳するために描かれた花鳥図の大作です。様々な植物,鳥,昆虫,魚貝などの生き物の生命感を瑞々しく描写した作品で、 どの作品も観る者を魅了します。明治22年に『釈迦三尊図』だけは寺に残し、明治天皇に献納されました。 この時の下賜金1万円のおかげで、相国寺は廃仏毀釈の波で窮乏した時期でも1万8千坪の敷地を維持できました。 本物は宮内庁三の丸尚蔵館にあるため、釈迦三尊像以外はコロタイプ印刷による複製品ですが、色鮮やかさは本物と見まがうばかりです。 綿密な写生に基づきながら、その画面にはどこか近代のシュルレアリスムにも通じる幻想的な雰囲気が漂います。 当時の最高品質の画絹や絵具を惜しみなく使用したため、200年以上たった現在でも保存状態が良く、褪色も少ないそうです。 生きとし生けるものすべてに仏性が宿るとする「山川草木悉皆仏性」の思想を、観音経にある「三十三応身」になぞらえて描き出したと考えられています。
 先日、お盆で帰省している息子家族と京都鷹峯に泊まった翌日、再び相国寺承天閣美術館を訪れました。 孫を抱いて動植綵絵の解説をしていた時ぐずりだしたので第1展示室を離れたところ、腕の中で寝てしまいました。 第2展示室につながる廊下からは、大きな窓越しに「十牛の庭」見ることができます。 庭の名にもなっている「十牛」とは、禅宗において人が悟りを得るまでのプロセスを表した絵「十牛図」からきたものです。 この庭に置かれている岩は、その絵に登場する牛と人の姿を表しているそうです。 廊下のベンチに孫を寝かせ、庭に飾られた十牛の岩を見ていると、牛を探して悟りを求めなくても、 孫の寝顔にかけがえのない仏性を見つけたような気になりました。

 無私の日本人(平成28年6月12日)

 「無私の日本人」は江戸時代に生きた3人の清冽な日本人の人生を、歴史家の磯田道史さんが古文書をもとに描きあげた物語です。 そのうちの1篇が映画化され、「殿利息でござる」のタイトルで上映されていましたので、女房と二人で見てきました。 いつもの様に丸亀製麺に寄り、好物のぶっかけうどんと半熟卵の天ぷらを食べてから映画館に向かいました。物語のあらすじは次の通りです。
 『主人公・穀田屋十三郎は仙台藩領の吉岡という貧乏な宿場の酒屋です。伝馬役という藩の荷物運び役儀が重く、夜逃げが続出し宿場は衰退しつつあります。 家数が減れば一軒当たりの負担はさらに重くなり、また夜逃げが増える悪循環が繰り返されます。 そこで穀田屋たちは、奇抜な解決策を思いつきました。宿場の旦那衆9人が犠牲になり、1人平均で今の3千万円余を出しあい、総額3億円の基金をつくる。 それを仙台藩の殿様に年利10%で貸し付け、毎年3千万円の利息をとり、 100軒ある宿場の家々に30万円ずつ配る制度を作って町の衰退を止めるというものです。 殿様が百姓から年貢をとる江戸時代にあって、殿様から金をとる途方もない計画でした。 ところが、穀田屋たちは大変な苦労と智慧でお上と交渉し、この基金制度を藩に認めさせていきます。 一番多くお金を出したのは穀田屋の実兄・浅野屋甚内。実に1人で9千万円を出しました。当然、家業が傾きます。 その後浅野屋は仙台藩から「褒美をやるから仙台城下へ来るように。」といわれますが、 「自分は足が悪い。馬や担ぐ人を苦しめる駕籠には乗らないので行けない。」といって出て来ませんでした。 すると仙台藩主・伊達重村が、みずから宿場の浅野屋まで出向いてきました。 店にあがり浅野屋のお酒に命名して揮毫し、傾きかけた家業を支援してくれました。』
映画ではこの殿様役を仙台出身で東北を励まし続けているスケートの羽生選手が演じています。
 ヨーロッパで成立したキリスト教的な倫理体系に対して、 わが国には「名こそ惜しけれ」という鎌倉時代の武士が育んだ美意識に関する基本的な姿勢があります。 自分という存在そのものにかけて恥ずかしいことはできないという意味です。 本書に登場する3人の人物には、そのような倫理観に基づく共通点があります。 「世間的に偉くならずとも金を儲けずとも、ほんの少しでもいい、濁ったものを清らかな方にかえる浄化の力を宿らせた人」だということです。 著者はあとがきで次の様に語っています。
 『本来、日本人が育んできたはずのこの深い哲学が見失われることを恐れて、いまどうしても記しておきたい3人のことを書いた。 これからの日本は物の豊かさにおいて、まわりの国々に追い越されていくかもしれない。 この10年で、お隣の中国は国内総生産が4倍になった。韓国はあと10数年で日本の1人当たりGDPを追い抜くともいわれている。 その頃に、南海トラフでも動いて、太平洋ベルトに大きな津波被害をうければ、国の借金は国内で消化しきれなくなって、 高い利子で他国から資金を借りてこなければならなくなるだろう。そうなれば、大陸よりも貧しい日本が、室町時代以来、500年ぶりにふたたび現れる。 だからこそ、この話はつたえておきたいと思った。』
 この映画を見た後で政治資金の「公私混同」で批判を浴びている都知事の姿を見ると、違う日本人を見ているような思いになります。 本質的に問われているのは、「名こそ惜しけれ」の倫理観とはあまりにもかけ離れてしまっている彼の生き方の哲学ではないでしょうか。

 海馬(平成28年4月1日)

 記憶には大きく分けると『短期記憶』と『長期記憶』の2つの種類があるそうです。短期記憶は数分~30分程度の記憶です。 電話番号を聞いてメモをとるまでの瞬間的な記憶から、会話の最中に自分が言ったこと、相手が言ったことを覚えている能力が短期記憶です。 短期記憶はそのままでは一時的なメモのようなもので、どんどん捨てられていく運命ですが、脳の中の海馬という部位が必要な短期記憶を選別した上で、 脳の側頭葉という部位に再書き込みを行います。海馬によって書き込まれた記憶が長期記憶です。 飲みすぎて記憶をなくした人から時に、「昨日、私どんなだった?」と聞かれることがあります。 その人は昨日の記憶が飛んでしまったわけですが、『飲んでいる最中』は自分が言ったことや人の意見も、トイレの場所もはっきり認識しています。 このことは『短期記憶』はちゃんと出来ていることを示してします。 ところが、飲んでいる最中は平気に見えても、次の日にまったく覚えていないわけです。 それは短期記憶を長期記憶に書き込む機能がうまく働いていないからです。
 同じようなことが自分の身に起ころうとは思ってもいませんでした。 ひと月ほど前に卒業50年の中学の同窓会が故郷の大津で開催されました。還暦の時に開催して以来5年振りです。 卒業後の進路は様々で商売人ありサラリーマンありで、大学の同窓生のほとんどが土木関連の仕事についていたのとは違いバラエティーに富んでいます。 昔恋心を抱いていた女性が、歳を重ねてもどこかマドンナの雰囲気を持ち続けているのがうれしく感じられます。 一次会は円卓を囲んでの中華料理でしたが、気分がハイになっていたためか紹興酒をしこたま飲んで、終わるころにはかなり酔っていました。 そこから移動して2次会の会場のある浜大津方面へ向かいました。 2次会には20名ほど参加していたと思いますが、会費を払ってからの記憶がまったくありません。 歩いて15分ほどの距離にある実家にどうやって帰ったかも覚えておらず、翌朝親父に聞くと友達に送ってもらったとのことです。 風呂では寝てしまっていたようで親父が何度も起こしに来てくれたそうです。 階段もまともに上がれず、後ろから押してもらってやっと寝室にたどり着いたとのことです。 翌朝洗面所で鏡を見ると電信柱か何かとけんかしたようで右目の上に傷があり、左肩にもあざがあり少し痛みます。 携帯を見るとゴルフの案内メールが届いています。そんな話をしたことも覚えていないのですが、ゴルフの約束をしたようです。 メールを送ってくれた友人に迷惑をかけたのではないかと詫びを入れると、かなり酔っていたが話はしっかりしていたとのことでした。
 飲み過ぎて電車の中で寝てしまい、終点の駅まで行ったことは多々ありますが、こんな状態になったのは初めての経験です。 飲みなれない中国の酒にその日の海馬は機能不全に陥ったようです。 そういえば最近ついうっかりや、人の名前がすぐに出てこないことがあります。 何十年も毎晩アルコールに浸され続けてきた脳が劣化してきたようです。使い続けて65年、いろいろな部品は徐々に衰えてきています。 エントロピー増大の法則には逆らえませんが後20年、何とか動き続けてくれることを願っています。

 不便益(平成27年11月1日)

 10月の『一木会』の話題提供者は、ブログの内容を度々転載させて頂いているIさんです。 私も読んだことのある新聞のコラムを基に、『荘子』へと展開されます。 Iさんのブログを基に、同じように「荘子のハネツルベ」を連想した私なりに少しアレンジして転載します。
 読売新聞の夕刊のコラムに京都大学にある『不便益システム研究所』という、「不便なことから得られる益」を研究目的とする機関が紹介されていました。 この研究所の所長を務める川上先生は、元は人工知能の研究者として、機械が何でも人の代行をしてくれる「便利」を追及するはずでした。 ところが恩師のある言葉で人生が一変します。学生の歓迎会で言われた「これからは不便益の時代やで」の一言が川上先生の心にストンと落ちました。 「機械にすべてをやらせる便利って楽しいだろうか」。これまでの研究に疑問が生じます。 「不便益」とは恩師が造った新しい概念で、その研究は白紙の状態から始め、様々な場面で不便から得られる益を調べあげます。「徒歩は時間がかかるが、途中色々な店や人に出会える」、「ナイフでの鉛筆削りは危険だが、手先が器用になる」など、裏返せば「便利の害」が見えてきます。学会などで不便益を説いていくうちに、興味を持った全国の研究者がネット上で集い、2006年に「不便益システム研究所」を作ります。以来、工学だけでなく、教育や心理学など多くの分野の人が集まり、「便利の害を解決する派」、「とにかく不便にしてみる派」、「便利を認めない派」など、様々な立場で研究が進められています。
 この記事を読んで、玄侑宗久さんがNHKの「100分で名著」で解説されていた「ハネツルベの逸話」を思い出しました。
 孔子の弟子の子貢があるとき南方の楚に旅した帰り、変わった老人が畑仕事をしているのに出くわします。 なんと老人は、トンネルを掘ってその底の井戸まで降り、水瓶に水を入れ、それを抱えて穴から出てきては畑に注いでいたのです。 あまりの非効率なことを憐れんだ子貢は、老人に、「ハネツルベ」という水揚げのための便利な機械があることを告げ、それを使ったらどうかと勧めます。 すると、老人はむっとして、それから笑い、次のように答えます。「仕掛けからくり(機械)を用いる者は、必ずからくり事(機事)をするようになる。 からくり事をする者は、必ずからくり心(機心)をめぐらすものだ。 からくり心が芽生えると心の純白さがなくなり、そうなると精神も性(もちまえ)の働きも安定しなくなる。 それが安定しなかったら、道を踏みはずすだろう。ワシも、『ハネツルベ』を知らないわけじゃない。ただ、恥ずかしいから使わんのじゃよ」と答えました。 これを聞いた子貢は、すっかり恥じ入ったという話です。
 玄侑さんは、「効率を追い求めることを『恥ずかしい』とする感覚-これはぜひ大切にしたいとところです。 効率を目指す。するとそこには、少しでもうまくやろうというからくり心が生じる。それが生じると、精神ももちまえも安定しなくなる。 現代の人々は、今まさにこの連鎖の中にあって、不安定なのではないでしょうか。 便利な道具を持つことで、確かにさまざまなことにかかる時間は短縮できました。 でも、そうやって生まれた時間で私たちは何をやっているのでしょうか」と仰っています。
 私にとって便利なハネツルベとして思い浮かぶのはゴルフ場のカートです。アクセスの長いホール間以外はカートに乗りません。 ゴルフができるには大切な4つの条件があります。健康な体、経済的な余裕、気の置けない仲間、それに女房の理解です。 これらすべては確かなものはありませんが、カートに乗らない「不便益」でもって、健康な体だけは維持できればと思っています。

 ローリング療法(平成27年10月1日)

 ゴルフのスイングでテークバックする時左肩に痛みが走り、最近思うようにクラブが振れません。 元々肩甲骨周りの筋肉が固い方で、両腕を耳の後方にまっすぐ伸ばすことができません。 中年になってスイミングスクールでバックを習い始めた時も、腕を伸ばしてバタ足をするとお尻の方から沈んでしまい、 若い女性のインストラクターから可笑しがられました。それほど固い肩が加齢とともにますます固くなってきたようです。 このままの状態が続けばゴルフに支障を来すため、先日友人に誘われローリング療法なるものを受けてきました。 台湾での足裏マッサージで痛さに悶絶したことがありますが、全身マッサージを受けるのは初めての経験です。
 ローリング療法では大小、硬軟のゴムのついたローラーを身体の各部位に転がしながら全身の筋肉をゆるめて、しこりを取り除いて行きます。 そうすることによって血液循環、末梢のリンパの流れを改善し、血管を丈夫にして身体の中から健康に、きれいになって行くという療法です。 ローリングをされる部位によっては「いたみ」や「くすぐったさ」を感じますが、これは身体の機能や細胞のバランスが崩れ、 血液循環が滞っているためとのことです。 各種の痛みやしびれは、その部分の血行不良で現れているわけではないので、患部ばかりを治療しても「原因」を除去しなければ緩和、改善されません。 そのため、ローリング療法では全身をローリングしていきます。
治療後すぐにテークバックの時の痛みが取れたわけではありませんが、少し良くなったように感じます。 さらに、痛みを感じる直前のポイントから腕を回さずに肩を回すようにすると痛みを感じません。 そこで少しフォームを変えて肩を深く回すようにしてスイングすると飛距離が伸びるようになってきました。 ローリング療法は、肩の治療だけでなくフォームの治療にもなったようです。
 肩以外で関節の痛みを感じるようになったのは左足の親指が最初です。付け根の関節が変形して右足のそれと比べると明らかに腫れています。 歩いたり走ったりして、親指を曲げて蹴りだす時に少し痛みがあります。 最初は通風を疑ったのですが、軟骨がすり減って骨と骨とが直接接しているとの診断でした。原因はゴルフです。 若い頃は我流のフォームで球を打っていたため、フィニッシュで左足の親指の関節が回り、すり減ってしまったようです。 他に首の関節にも痛みがあります。首を思い切りひねると痛みがありますので、診てもらったところ、加齢で軟骨が減っているとのことでした。 通院して首を引っ張る治療を受けることを勧められましたが、ネットで首けん引器具を見つけて自分で治療することにしました。 タオルの端を噛んで首に回し、その上から皮のベルトを首にかけます。 両端をハンガー状のフックに掛け、滑車を通したロープで錘代わりのマガジンラックを持ち上げます。 新聞を読みながら引っ張っていると気持ちの良いものですが、その姿は映画『羊たちの沈黙』で猿ぐつわをつけられたレクター博士のようです。
 来年には年金をフルに受給できる年齢になり、高齢者の仲間入りをします。 白髪にはなってもハゲないだろうと思っていた髪もてっぺんの方が薄くなり、毎年の人間ドックで前立腺の肥大も指摘されます。 後20年、なんとかゴルフのできる体を維持し、ゴルフ敵の同級生たちと愉快な戦いを続けて行きたいと願っています。

 白鳳展(平成27年9月17日)

 生命力あふれる肉体に自然なくびれを表した美しいプロポーション。台座に腰かけて足を組み、物思いにふける姿。 鼻筋の通った明るく朗らかな表情。金銅仏には千年以上前に作られたとは思えない工芸技術と信仰の強さが感じられます。 こうした仏像に共通する点は、それらが白鳳時代に作られた仏だということです。 白鳳時代の金銅仏には中国の隋や唐、朝鮮半島から取り入れた最先端の技術が組み込まれていました。
 先日、奈良国立博物館で開かれている「特別展白鳳花開く仏教美術」へ行って来ました。 全国から集められた貴重な仏像や工芸品などおよそ150点を見ることができます。 白鳳時代の仏像の大きな特徴は高さ30cmから40cm程の小さな金銅仏。 当時の貴族や豪族が家で先祖を祀るため、個人的に仏像を作らせたとも考えられています。 仏像が全国に広まったのも白鳳時代のことです。白鳳時代とは仏教が伝来した飛鳥時代と奈良時代に挟まれた時代です。 645年の大化の改新から710年平城京遷都までおよそ65年間続いたとされます。 この時代主に国を治めたのは天智天皇と弟である天武天皇。そして天智天皇の娘にして天武天皇の妃、持統天皇です。 壬申の乱に勝利した天武天皇は672年奈良の飛鳥に新しい都をつくります。天武天皇はここで新しい国づくりに乗り出します。 詔を出して仏教を厚く敬い、寺の建立や仏像作りを全国に広めたのも天武天皇と持統天皇でした。
 東京深大寺釈迦如来倚像。まっすぐ伸びた鼻筋とつながった眉。朗らかな顔立ちです。白鳳時代特有の仏像が関東へも伝わっていたことが分かります。
河原寺三尊せん仏。玄奘三蔵がインドから中国に戻りインド風のスタイルを伝え、それが遣唐使によって比較的早く日本に伝えられました。 日本が飛鳥時代から受け入れて来た中国的仏像は寒い地域のため衣が厚いのですが、白鳳仏は薄い衣の下に豊かな肉体が感じられます。
先祖を供養するための代表的な仏、法隆寺阿弥陀三尊像。藤原不比等の妻で光明皇后の母でもあった橘三千代が自宅で祀っていたと伝わります。 仏像の後ろに隠れている屏風の様な後屏。その細部にまで洗練された細工が施されています。 蓮池に刻まれた波の文様は、究極の工芸技術と一切手を抜かない信仰心の強さを感じさせます。信仰心と財力が一体化するとこういうものが出来上がるようです。今回の白鳳展では厨子や後屏を外して見やすく展示されています。
後の天平時代に先駆ける高い芸術性を備えた仏像も登場します。 光背を外した高さ3m以上もある国宝月光菩薩立像が触れるくらいの近さでじかに見られます。 目や眉が自然に表現された顔立ち、写実的に表現された美しい姿には命が宿っているかのような生命力があふれています。 背中にもハリのある弾力的な質感表現がなされ、人の肌を表現するため金属の性質を知り尽くした工人でなければ表現できない技術の高さがうかがえます。 写実性と仏の気高さを兼ね備えた日本屈指の仏像です。
薬師三尊像を初めて見たのは小学校の遠足の時でした。腰をひねった脇侍の美しい姿に感動したことをはっきりと記憶しています。 今思うと私にとっての仏教の原点は、半世紀以上も前に見たこの仏さんの美の力であったようです。

 かかりつけ歯科医(平成27年9月1日)

 読売新聞の健康欄に「かかりつけ歯科医を持とう」という記事が掲載されていました。 かかりつけの歯科医がいる人は、いない人と比べて長生きで、ほとんど寝たきりになっていない。 かかりつけの歯科医がいると、口腔機能が良くなって、それが食生活などの好ましい生活習慣に結びつき、健康で長生きできるというのがその内容です。
 最初に歯医者さんのお世話になったのは小学生の頃です。 年配の女医さんに虫歯の治療を受けたことが、歯を削るドリルの音と、うがいをする金属製のコップと共にかすかに記憶に残っています。 社会人になってから、職場近くの歯科医院に虫歯の治療に通ったことがありますが、随分言葉使いが丁寧な先生で、 「口を開いてください」というところを「口を開いて頂きます」という少し変わった表現をされたことが印象に残っています。 30年ほど前に三郷町に移り住んでからは、王寺町のI先生が我が家のかかりつけの歯医者さんになりました。 義父母が大阪に住んでいた時の近所の歯医者さんで、王寺町に移ってこられた時にたまたま再会したそうです。 I先生は私より少し年上のダンディーな方で、ゴルフをご一緒したこともありますが、常に笑顔を絶やさず話の面白い先生です。 I歯科からは年に2回、定期検診のお知らせのはがきが届きます。定期検診のメインは歯茎の検査と歯の掃除です。 チップの先端が超音波振動する機械を歯石に当てて歯石を取り除く時かなり痛みを感じますが、 最後に回転するゴム状のもので磨いてもらうと歯の表面がつるつるになります。
 I先生にこれまでに治療して頂いた歯が何本かありますが、最初は親知らずの抜歯でした。 痛くもなく、虫歯でもない歯を3本も抜くのはためらいましたが、隣の歯を圧迫している親知らずは、全て抜いた方が良いとの診断でした。 今も舌で触れると歯茎にくぼみを感じますが、大人になってから歯を抜くのは大変で、最後はペンチのような器具を持ち出し、 助手の方が頭を押さえつけての治療になりました。
2番目の大掛かりな治療は、小さい時に治療した神経のない歯がぐらついてきて抜くことを勧められた時です。 説明では両側の歯を削り土台とし、土台の歯を連結して被せ物を装着する治療法を行うとのことです。 オベイトポンティックと呼ばれる技法で、真ん中の歯がない部分を歯が生えているようにくぼませ、ブリッジを架けます。 「オベイト」は卵形、「ポンティック」は真ん中の歯が無い部分を指す用語のようです。 橋のことをフランス語で「ポン」といいますので、この治療方法はフランスではじめられたのかも知れません。
3番目に受けた治療はナッツを食べていて前歯が折れた時です。持って行った折れた歯を加工して元の歯に継いでもらいました。 しかし1年ほどすると同じように折れたため、人口の歯を作ってもらって継ぎました。 この歯は丈夫で見た目も不満はないのですが、難を言えば裏の部分が厚くなっていることです。 現代の日本人の顔は、縄文系と弥生系の二つの起源があるわけですが、そのどちらの度合いが強いかで縄文タイプまたは弥生タイプの顔立ちになります。 私の顔は弥生タイプで歯は大きくて裏側がシャベル状です。 作ってもらった歯の裏側は分厚く膨らんでいてシャベル状の弥生系でもなく、平らな縄文系でもありません。 舌で歯の裏側に触れると他の歯が窪んでいる中で、一つだけ出っ張っていて違和感があります。
これまでI先生に治療して頂いたほとんどが保険外治療でかなりの費用がかかっています。 健康長寿のためにはかかりつけの歯科医の他に経済的なゆとりも必要なようです。

 新国立競技場(平成27年8月16日)

 おじさんたちの井戸端会議「一木会」、8月のプレゼンターはNさんです。 日経ビジネスに掲載されていた新国立競技場建設の記事を基に、スポーツビジネスの視点からこの問題の本質を紹介して頂きました。 ちなみに、「新国立競技場のキールアーチの建設費は、建築家にまかせるから高くなるので、橋屋に作らせたらもっと安くできる」 と言うのが橋屋のプロとしてのNさんのご意見です。
 「半世紀前に建てられたスタジアムでも、10年前に建てられたような新鮮な印象を与え続けるものもあれば、 75年前に建てられたように古びて感じるものもある。その違いを生むものは何だか分かりますか?」 この質問は米メジャーリーグのサンフランシスコ・ジャイアンツの球団社長兼CEOのラリー・ベアー氏への単独インタビューで 同氏が「スポーツ施設&フランチャイズ2015」で会場の参加者へ投げかけたものです。 サンフランシスコ・ジャイアンツと言えば、その根拠地AT&Tパークは、いつ訪れても新鮮な雰囲気に満ちており、 平均観客収容率はMLBナンバーワンの99.4%という驚異的な数字を誇ります。 同氏はこの質問に続けて49ersが使用していたキャンドルスティック・パークと ドジャースの本拠地、ドジャースタジアムを比べてみるように参加者に促しました。 前者は長期的な視野での改修計画を持たず、文字通り時と共に朽ち果てていき、最後はテナントにも逃げられてしまいました。 一方、ドジャースタジアムは米国スタジアムビジネスに革命を起こしたカムデン・ヤーズの設計者をヘッドハンティングし、 総額2億ドルにも及ぶスタジアム改築計画を練り上げました。 その結果ドジャースタジアムは往年の雰囲気を残しながらも、事業的に最新の施設に生まれ変わりました。 両者の成否を分けるのは「継続的な投資」という発想・計画の有無です。俗に「ディズニーランド・アプローチ」とも言われるものです。
 ディズニーランドでは、毎年必ず新しいアトラクションが追加されていきます。それがフックとなって集客力が維持されます。 ファンは「今年は何ができるのだろう?」と常に新鮮な好奇心を抱き続けることができるのです。スポーツ施設設計もこれに似ています。 どんなに素晴らしい哲学を持って設計され、どんなに巨額の資金を投じて建設された施設でも、残念ながら観客は数年でその環境に慣れてしまいます。 米国では「いったん良いものを作ればいつまでもお客が来る」という発想はもう通用しないというのが常識です。 そのため、米国の施設運営の現場では「維持管理」と「設備投資」を厳密に分けて予算化しています。 「維持管理」は必要最低限の安全性や機能性を維持するのに必要なメンテナンスに掛かる費用で、清掃や警備なども含めたコストです。 一方「設備投資」は新たなアトラクションを定期的に追加してファンからの新鮮な興味・関心を維持したり、 日進月歩のテクノロジーの進歩の中で技術的な陳腐化を防ぐなど、施設の総合的な価値を高めるための投資です。 維持管理を「守り」とするなら、こちらは「攻め」に当たる部分です。 そしてこの「攻め」の投資計画の有無が、将来単なる老朽化した『古墳』になるのか、 地元住民やファンから愛され続ける『レガシー』になるかの分かれ目なのです。 歴史を守りさえすればレガシーになるという単純なものではないのです。
 新国立競技場の建設では、施設の外観デザインとそのコストの議論に終始しているような印象を受けます。 しかし、ビジネス的に重要なのはむしろ中身の事業計画です。 従来のようにスタジアムを建てた後から協賛企業を募集し、所有者は管理のみに徹するようでは、 巨額の投資回収はおぼつかないといわざるを得ないでしょう。新国立競技場では、建設後に「攻め」の設備投資計画が予算化されているかは不明です。 もし、旧国立競技場のように「いったん建設して、後の50年は適切に維持管理さえしていれば自動的にレガシーになる」などと考えているようなら、 その計画は改めた方がいいでしょう。世界のスポーツ施設の建設トレンドを踏まえた適切な追加投資も見越した上での収支計画を立ててほしいと思います。 新国立競技場が日本の政治混乱の『墓標』にならないことを切に願います。

 物干し竿(平成27年8月3日)

 三郷町に移り住んで30年近くになりますが、これまで警察沙汰になった事件が2件あります。 1件は空き巣に入られたことで、そのことは以前このブログにも書きました。もう1件は車の物損事故です。 ある日の夜、大きな音がしたので外に出てみると家の前の道路に停めておいた車に、 前の集会所の駐車場から出て来た車がぶつかってドアが大きくへこんでいます。 集会所でのゴルフの打ち上げが終わり、運転して帰るため車を出したとたんにぶつけたようです。 車から降りてきた運転手は酔っぱらってフラフラで、呂律も回っていません。 町内の方も大勢参加しておられ、警察沙汰にはしてあげないでおこうと思ったのですが、 運転手は話もまともにできない状態で態度も横柄なため警察を呼びました。 警察が来るまでは家の中に入っていましたが、その間盛んにインターホンが押されます。 画面に近所の顔見知りの方も映っていましたが、しばらくほっておきました。 パトカーが来たので外へ出てみると、相手の車がありません。 警察が探したところ、近くの道路の溝に落ちて動けなくなっていたそうです。 道路交通法が代わる前でしたので、免停と少々の罰金で済んだと思いますが、今であればかなりの罰金を支払わされることになったと思います。 後日、奥さんと共に謝りに来た彼は、いたずらをして母親にしかられた子供のように神妙な態度でした。
 3件目の事件がこの7月にありました。 ある朝、いつものように新聞を取りに行くため勝手口から外へ出ると、車庫の前にパトカーが止まっています。 いつもなら迷惑駐車の張り紙をフロントのワイパーに挟むのですが、相手がパトカーなのでそれはしませんでした。 それから2週間ほど経った先日、西和警察署の警察官から電話があり、家の近くで障害事件があり、 我が家の物干し竿が凶器として使われたので確認してほしいとのことです。 玉ねぎを吊るすために物干し竿を使っていますが、豊作の年は3本の物干し竿全てに吊るします。 今年は2本に吊るして、上の1本はフリーです。その1本がなくなっています。 その旨を報告すると、調査のため後日家に来るとのことです。 数日後約束した時間に若い警察官が曲がった物干し竿を持って現れました。 それを受け取り、元あった場所に架けると、私がそれを指し示しているところを写真に撮りたいとのことです。 カメラの前で物干し竿を指さすポーズをとりましたが、笑顔でいるわけには行かないので、随分ぎこちない表情で写っていたと思います。 その後、家の中に入ってすでに書いて来られた調書の説明を受けました。 そこには事件の顛末が書かれていました。 あのパトカーが止まっていた前日の深夜、近所のMさんのお孫さんが酔っぱらった若者に絡まれ、家に逃げ帰った後、 その若者が我が家の物干し竿を盗み、それを凶器にMさんのお宅へ戻って門燈を壊し、家人にもけがをさせたとのことでした。 その後犯人は捕まり、その供述から凶器の物干し竿が、我が家のものであることが分かったそうです。 調書と物干し竿の受取に署名捺印しましたが、折れ曲がった物干し竿は短く切って処分しました。 それにしてもよほど訓練されているのか、調書を作成した若い警察官の文章力に感心させられました。 当然のことながら5W1Hを明確にし、客観的で表現に無駄がありません。 月に3回、知恵を絞りながらこのブログを書いている身としては、その能力がうらやましく思われます。 ただ、たとえ拙くて「落ち」は下手でも、気持ちのこもっている点だけ負けていないと信じたいものです。

 和風のキリスト教会(平成27年7月11日)

 日本聖公会は、16世紀にカトリック教会から分離・独立した英国国教会の流れを汲み、 立教大学、プール学院や聖路加国際病院など教育、医療の分野で活動を続けています。 奈良基督教会は、この日本聖公会に属し明治20年に開かれました。 昭和5年に信徒で宮大工の大木吉太郎氏の設計により、キリスト教会建築の形式と伝統的な日本建築を融合させた木造平屋建の礼拝堂が建築されました。 建物の外観は、入母屋破風と千鳥破風を組み合わせた和風瓦葺の屋根、真壁造りの壁面構成という寺院風です。 内観は、吉野杉の柱が清々しい神社風に、聚楽壁という数寄屋の要素がまじわっています。 桐材を用いた繊細な欄間の透かし模様は軽やかですが、縦長の堂内空間は本質的には神社仏閣とは異なります。 平面構成は三廊式の長堂、身廊立面は欄間、高窓を備えた三層構成と西欧のキリスト教会建築様式を踏襲しています。 堂内には奈良県で唯一のパイプオルガンが建物に合わせて設置されています。 建物以外にも正倉院宝物の七宝技法を駆使した十字架や聖杯などの聖具、マルタ十字と鳩というキリスト教の象徴を刻んだ意匠など、 古都にふさわしく対応した異文化の形式が見られます。
 この建物が重要文化財に指定されたことを最近のニュースで見て興味を持っていましたが、 「ムジークフェスタなら2015」の催しがこの教会であると女房に誘われ、二人で出かけました。 教会は東向商店街の東側に位置し、階段を上った高台にあります。 東向商店街は、平城京の頃の外京六坊大路で、東側はすぐ興福寺の境内となっていました。 このため、通りの西側にのみ建物が建てられ、全ての建物が東を向いていたため「東向」と呼ばれるようになったといわれています。 先日放送された「NHKブラタモリ」でもこの商店街と教会が紹介されていました。 この教会には併設された幼稚園があり、この日のバイオリンとピアノの演奏者は、子供同士がこの園に通うお母さんです。 「G線上のアリア」から始まり10曲ほど演奏されましたが、皆さんが知っている曲を選ばれたようです。 印象に残ったのはピアノによるソロ演奏の「Iam」。聞いたことのある曲だと思っていたら、報道ステーションのテーマ曲でした。 演奏が終わって観客の大きな拍手の中で、園児からの花束を受け取ったお二人の姿が印象的でした。
 催しが終わってから、読売新聞の雑誌に掲載されていた近鉄奈良駅近くの居酒屋へ行きました。 注文の時にその雑誌を見て来たことを伝えると、ワインかビールのサービスがあります。 最近オープンしたばかりの店で、店内も明るく開店祝いの胡蝶蘭が飾られています。日本酒の品ぞろえも豊富で料理も美味しく頂きました。 この店のあるビルは大きな通りに面しており、街路樹は夜でも明るく照らされています。 そこをねぐらにしているのか、小さな鳥がいっぱい集まって騒いでいます。はじめムクドリかと思ったのですが、よく見るとスズメです。 我が家にもカポックをねぐらにしているスズメが2羽いますが、夜が明ける頃に目覚めの囀りを始め飛び立っていきます。 都会のスズメは人通りの多い明るい所が好きなようですが、我が家のスズメは家主に似るのでしょうか、静かで落ち着いた環境が好みのようです。

 黄色いシャツ(平成27年6月21日)

 春日台C.CメンバーのHさんと初めてお会いしたのは、今から30年以上も前の私の結婚式です。岳父の友人として式に出席されていました。 ゴルフをご一緒するようになってからは私にとって師匠の様な存在で、マナーから教わりました。 寄せがうまい方で、左足に重心を乗せたままフィニッシュの形を崩さない打ち方でスコアーをまとめられ、HD10まで行かれました。 岳父が亡くなってからもほぼ毎週のように、もう一人の友人のUさんと3人でゴルフをご一緒してきました。 お二人とも80歳を超えられていますがお元気です。 自分で会社を興された方は人間的にも魅力的で話題も多く、歳の差を感じないお付き合いをさせて頂いています。 何回かゴルフ遠征もしましたが、Hさんの故郷鹿児島のゴルフは、昼の休憩に特徴があります。 休憩時間が2時間近くもあり、短いと文句が出るそうです。昼食は黒茶家(ジョカ)で焼酎を温めての酒盛りから始まります。
今年になってからご一緒するゴルフの回数は減りましたが、飲み会の回数は以前と変わりません。 馴染みの店では歌い慣れた歌が次々にリクエストされ、終電近くになることもしばしばです。 最近はあまり歌わなくなりましたが、私が若い頃から好きだった韓国の歌があります。 タイトルは「オッチョンジー」、日本語で「なんとなく」という意味ですが、「日本人が歌っているとは思えない」と韓国の人からほめられたこともあります。 先日司馬遼太郎さんの短編『故郷忘じがたく候』を読んでいてこの歌のことが書かれているのを偶然発見しました。 豊臣秀吉の朝鮮出兵のときに、捕虜となって日本にやってきた李氏朝鮮の陶工たちは、薩摩藩に連れてこられた後、 代々鹿児島に住み続け名陶を生み出してきました。 沈寿官氏はその子孫で、美術史関係の研究者に招かれ渡韓した時、ソウル大学の大講堂での講演の様子が書かれていました。
 『沈氏の姓名は紹介者から韓音を持って紹介されたが、しかし370余年以前に韓人であることを終わっている沈寿官氏は、 薩摩の士族家庭で話される品のいい薩摩弁以外は話すことができなかった。講演は当然ながら通訳を通して行われた。 沈氏は講演の末尾に、「これは申し上げていいかどうか」と、前置きして、「私には韓国の学生諸君への希望がある。 韓国に来てさまざまの若い人に会ったが、若い人のたれもが口をそろえて36年間の日本の圧制について語った。 最もであり、その通りではあるが、それを言いすぎることは若い韓国にとってどうであろう。 言うことはよくても言い過ぎるとなると、その時の心情はすでに後ろ向きである。 あたらしい国家は前へ前へと進まなければならないのにこの心情はどうであろう。」そのように言った。 この同じ言葉が、他の日本人によって語られるとすれば、聴衆は黙っていないかも知れなかった。 しかし、大講堂いっぱいの学生たちは、演壇のシム・スーガン氏が何者であるかをすでに知っていた。 「あなた方が36年を言うなら、私は370年を言わねばならない。」そう結んだ時、聴衆は拍手をしなかった。 しかしながら沈氏のいう言葉は、自分たちの本意に一致しているという合図を演壇上の沈氏におくるために歌声を湧きあがらせた。 歌は韓国全土で愛唱されている青年歌で、その曲は沈氏もソウルに来てから何度か耳にして知っていた。 歌詞は「見知らない男だが黄色いシャツを着た男」といったふうのもので、学生たちは沈氏へ送る友情の気持ちをこの歌詞に託したのであろう。 歌は満堂をゆるがせた。沈氏は壇上でぼう然となった。涙が、眼鏡を濡らした。沈氏は大合唱が終わるまで壇上で身をふるわせて立ちつくしていた。』
 この講演から何十年か経って今でも、かの国の言い過ぎる文化は変わらず後ろ向きです。 「地味な服を着た言い過ぎるおばさん」に変わって「黄色いシャツを着た無口な男」が現れ、前を向くきっかけを作ってくれることを願っています。

 ハレの日(平成27年5月22日)

 冠婚葬祭は一族を挙げての行事です。横浜で行われる息子の結婚式に出席する親戚一同が、前日東急ハーベスト箱根甲子園に集まりました。 結婚式の前夜祭ですので、夕食はいつもの持ち込みではなく、レストランで何種類かのメインディッシュから一品を選ぶビュッフェプランにしました。 夕食後、話題になっている大涌谷からは湯を引いていない温泉に入った後、一部屋余分に予約しておいた部屋に集まり2次会のスタートです。 和室8畳の奥の部屋は、一段低くなったフロアーに大きなテーブルがあり、10人程がゆったりと座れます。 美容院の予約のため翌朝の出発時間を気にかけつつも、女性陣の話は夜遅くまで続いていました。
 結婚式場は横浜ベイブリッジの見える海岸沿いにあります。礼拝堂を模した部屋には、バージンロードはありますが祭壇はありません。 参加者の前で二人が結婚を誓う人前結婚式で、神父の代わりに司会者が進行する宗教色のない形式です。 披露宴会場につながるプールのあるデッキでの写真撮影の後、出席者が一斉に放った色とりどりの風船が、五月晴れの空高く飛んで行きます。 このデッキはこの他にも、お色直しの再登場や、デザートビュッフェなど、なかなかおしゃれな演出の舞台になっていました。
血液型も両親と違い顔も性格もあまり似ていない息子ですが、酒の上の失敗は父親譲りのようです。 式が終わった後、当日頂いたお祝い金を安心して手渡せないほどに酔ってしまったようで、私が持ち帰ることになりました。 その日宿泊する東急ハーベスト熱海の部屋で祝儀袋からお金を取り出し、名前と金額を慣れないスマホに打ち込んでメールして、 翌日息子の口座に振り込みました。
 翌日、女房と二人の熱海観光で最初に向かったのはMOA美術館です。 バスを降りたエントランスからエスカレータを4、5台乗り継いでやっと入口に着きます。 メインロビーからは相模灘に浮かぶ初島や伊豆半島が一望できます。 NHKの「趣味どきっ! 国宝に会いに行く」で超モダンデザインとして紹介された尾形光琳の「紅白梅図屏風」、 展示されていたのはレプリカですが、呉服の意匠を手がけていた作者のデザインは大胆で迫力があります。 特別展示されていた山中常盤物語絵巻は、義経の母・山中常磐の敵討ちを題材とする全12巻あわせると150mを超える長大な絵巻です。 作者の岩佐又兵衛は伊丹有岡城主荒木村重の子で、村重が信長に反逆を企て失敗した際、荒木一族はそのほとんどが斬殺されましたが、 幼い又兵衛は乳母に救い出されます。 昨年の大河ドラマで生き延びて秀吉の御伽衆となった村重が、再会した又兵衛に「得意な絵で生きよと」と伝えるシーンが印象的でしたが、 その作品に対面するとは思いませんでした。
 熱海駅に戻ってのすこし早めの昼食は、ガイドブックに載っていた和食の店で、一日30食限定、新鮮な魚介類がたっぷりの『夢ちらし寿司』です。 注文した銚子一本が空くほど待たされましたが、追加した銚子で美味しく頂きました。
再び熱海駅からバスで向かったのは、天然記念物に指定されている推定樹齢2千年の大楠がある来宮神社です。 大楠を一周すると「寿命が一年延びる」と信じられ、禁酒禁煙などの断ち物にもご利益があるとされている神社です。 今年の春、河津桜を見に行った河津町にも同じ名前の神社があり、図らずも休肝日を設けるようになったのはこの神社をお参りしてからです。 これ以上のご利益は辞退申し上げたく、早々に次の目的地のアカオローズガーデンに向かいました。

 高野山の名宝展(平成27年2月27日)

 毎月の『一木会』で使用する会場は、四ツ橋にある英会話スクールの教室です。 長年利用していた会社の会議室が使えなくなったため、ネットで見つけたのがここです。 以前、ネットを利用した時間貸駐車場のシステムをテレビで紹介していましたが、それの貸会議室版です。 空いた教室を遊ばせておくのはもったいないため、時間貸されているこの教室を3時間5千円程で借りています。 毎回持ち回りで参加者の一人がプレゼンターとなり、話題提供を行いますが、最初から宴会モードで始まります。 長屋の連中がそれぞれ酒と肴を持ち寄って花見をする『寄合酒』と言う落語がありますが、 この会も花見の代わりに毎月の話題を肴に盛り上がる『寄合酒』の様なものです。 会が始まる前に天王寺の近鉄デパートに寄り、日本酒と寿司を仕入れます。 地下の日本酒売り場では、毎回どこかの蔵元が宣伝販売を行っていますので、試飲して一本求めます。 その蔵元と酒の銘柄は、後日このホームページの「酒蔵」のデータに追加します。 次に向かうのは食品売場のコーナーにある寿司専門店です。ちょっと豪華な寿司をタイムサービスの手頃な価格で買い求めます。
 2月の会の日はいつもより早く家を出て、『高野山の名宝展』が開催されている『あべのハルカス美術館』へ行って来ました。 16階にある美術館へは、地下から直通のエレベーターで上がります。 普通のエレベーターの5倍程の広さがあり、上がりながら大阪の街が一望できます。 エレベーターを降りると、床には動線が交わらないように、案内の通路が色分けされています。 チケットショップであらかじめ割引券を購入しておいたため、そのまま入口に向かうと右手にコインロッカーがあり、 手荷物を預けて身軽に観賞することができます。 この名宝展は、平成27年に執り行われる『高野山開創1200年記念大法会』に先立ち、高野山の至宝約60件を展示しているものです。 高野山の石道を3回に分けて歩いた時、『高野山霊宝館』に展示されていた文化財を見たことはありますが、 これだけの国宝、重文クラスの文化財を間近に見るのは初めてです。 「運慶作の国宝・八大童子ハルカスに降臨!!」とパンフレットに謳われ、チケットのデザインにもなっている国宝『八大童子立像』は 八躯のうち六躯は運慶の作です。平日の昼間で空いているため、一体ずつじっくりと観賞できます。 説明に書いてある通り、充実した体躯と各部位が連動したプロポーションに加え、玉眼を効果的に使用した表情など実際の童子を見るようです。 重要文化財『四天王立像』は、広目天に快慶の銘のあることから、快慶とその工房の作と考えられているそうです。 特に快慶の直接の手になる広目天は険しい憤怒の表情を見事にあらわし、腰をひねって立つ体勢のバランスの良さや、 衣文表現の巧みさは四躯体中でも際立っているとされています。 そういう説明を見ながら、人と話をするような近い距離で四天王と対面し、行ったり来たりして四躯の像を比べてみると、 素人目にも広目天の違いが分かるように思えます。 正倉院展などでは入場するまでに長い列に並び、展示物を見るのにもほとんど人の頭しか見えないような経験をしているだけに、 混雑に煩わされることなく名宝を観賞できたことに感動しました。

 新郎の父(平成26年12月26日)

 赤坂ル・アンジェ教会は福岡の天神近くにある独立型教会です。先日、ここで初めて新郎の父を演じてきました。 まずは係りの女性に手伝ってもらってのモーニングの着用です。 襟の立ったワイシャツは、首周りはぴったりですが、袖丈が10cm程長く、上腕部をバンドで絞めて長さを調整します。 ネクタイは普通に結びますが、タイピンで留めずにシャツと一緒にズボンの中に入れます。 少し長めのズボンをサスペンダーで吊り上げ、上着を着用して完了です。
 式場では最前列に女房と座り、バージンロードを歩く純白のウェディングドレス姿の新婦を拍手で迎えます。小顔で背が高い花嫁姿が輝いて見えます。 教会併設レストランの披露宴会場では、一転して鮮やかな金色のドレスを身に付け、明るい笑顔を振りまいての入場です。 最近の結婚式では仲人は不在で、プロの司会者による進行で披露宴は進んでいきます。 息子から出席者の方々にお酒を注いで回るように頼まれていましたので、乾杯が終わると女房と二人でお礼の言葉をかけてビールを注いで回り、 なかなか落ち着いて食事ができません。 ケーキカットが終わってやっと席に着きましたが、メインディッシュが運ばれている時、我々二人はまだ大きなフォアグラの載った前菜に手を付けていません。 その後の食事とお酒もゆっくりと味わえるものではありませんでしたが、酒飲みの性分で美味しいワインを早いペースで何杯もおかわりして、 お腹の調子がおかしくなってしまいました。両家を代表して挨拶を行うタイミングが迫っていましたが、係りの人に断ってトイレに向かいました。 暫くするとその人がトイレまで呼びに来られました。慌てていたため、ズボンのサスペンダーは固定せずに指定の場所に立ちましたが、裾が気になります。 お酒も回り緊張している中で両家代表の挨拶が始まりました。
 『新郎の父、Sでございます。S、N両家を代表いたしまして、お礼のご挨拶を申し上げます。 本日は新郎新婦のためにご出席頂き、誠にありがとうございます。 また、遠方の方にはエグザイルのコンサートと重なり、ホテルが予約しにくい中お越し頂き、重ねてお礼申し上げます。 さて、今年の漢字は「税」に決まりましたが、東日本大震災の年の漢字は「絆」でした。 アメリカの社会学者の説によりますと「絆」には「強い絆」と「弱い絆」があります。 AとMは、夫婦と言う「強い絆」で結ばれ、新しい人生のスタートラインに立ちましたが、これからの永い人生、様々な困難に直面することがあると思います。 そのような時に重要な役割を果たすのは、実は「弱い絆」で結ばれた方々からの情報です。 この「絆」はいいかえれば人的なネットワークです。今日のこの場には二人と様々な強さの「絆」をお持ちの方々がお集まりです。 どうかその「絆」で二人に温かいお力添えを賜り、見守って頂ければと思います。 まずは両家を代表してお礼の言葉とさせて頂きます。本日はまことにありがとうございました。』
 タイムリーな話題も盛り込んだなかなか良い文章だと思うのですが、酔いと緊張で途中詰まってしまい、少し間の抜けた挨拶になってしまいました。 最後は新郎の挨拶ですが、親の知らぬ間に社会人としてずいぶん成長したものです。 親父の噛み噛みの挨拶を詫びながら立派に締めくくってくれました。

 献血(平成26年10月11日)

 年に2回、『まいどなんば献血ルーム』で献血を行っています。 移動献血車と違って設備が充実しており、自販機の飲み物も無料でゆったりとした気分で献血できます。 400ccの献血を終えるとコインを2個もらえ、自販機のパンや菓子、アイスクリームなどを購入することができます。 先日、半年ぶりに訪れた時、献血とは関係ないようなサービスがありました。占いです。 希望すれば献血を終えた後で、ボランティアの占い師が占ってくれます。人生はじめての経験で占ってもらうことにしました。
 私を担当したのはカードを使った占いをする私と同世代の男性です。 普通占いを依頼する方は、何か具体的なテーマを持った方ですが、私の場合特に相談したいこともありませんので、現状と将来を見てもらうことにしました。 裏向けに広げられたトランプによく似たカードの中から10枚を選びます。 それを表向きにし、様々な絵が描かれたカードをテーブル上に並べて占いが始まります。 最初の占いは「今のあなたは物質的なものよりも何か精神的なものを求めておられるのではないでしょうか。」と言うことでした。 1年程前から信貴山千日回峰と称して往復10kmの山路を歩き、朝護孫子寺にお参りしていますので、 そのことを言われたのであれば当たっていると思います。 同じようにして将来を占ってもらった結果は、「あなたはこれから何かを始めようと考えておられるようですが、多くの人との関わり合いができ、 よい結果になるでしょう。」とのことでした。
しかし冷静に考えてみると、私のように平日に献血に来る中高年の男性の性格や物の考え方は、顔を見て話をすればある程度予想できることだと思われます。 その抽象的な占いの言葉を自分に当てはめ、具体化して当たっていると思ったのかもしれません。
 その方は40代まで土木関係の仕事をされていて、子供が大学を卒業してから会社を辞めこの道に入られたそうです。 禅や道教の知識が深く、机の上にはいつも持ち歩いるという「十牛図」の本を置いておられました。 「十牛図」は、禅の悟りにいたる道筋を、牛を主題とした十枚の絵で表したものです。 牛は、心理、本来の自己、仏教における悟りを象徴しています。牛を得ようとする十牛図は、すなわち本来の自己を探し求める旅、悟りへの道程です。 リタイアー後に残された時間は10万時、この占い結果が実現するよう、牛を探す旅に出かけようと思っています。

 迷惑駐車(平成26年8月13日)

 6m幅の道路を挟んで我が家の北側に地区の公園と集会所があります。 夏休みの朝は子供たちのラジオ体操から始まり、昼間はゲートボールやソフトボールに興じる元気な声が聞こえてきます。 集会所は趣味のサークル活動に利用され、詩吟やカラオケの演歌が聞こえてきます。 数台駐車できるスペースがありますが、何かの催しがある時にはすぐに満杯になり、道路に車が停まります。 一番頻繁になるのは、集会所が投票所になる時で、我が家の前の道路にはひっきりなしに車が停まります。 車を道路のどの位置に停めるかは、周りの状況を見る必要がありますが、選りによって我が家の駐車場のすぐ前に停める方がいます。 そんな時は『車の出し入れができません。駐車場の前に車を停めるのはご遠慮願えませんか!』とプリントアウトした紙をワイパーに挟んでおきます。 反応は色々です。いつの間にか車を移動する方もいれば、「すみません」と一言詫びて移動する方もおられます。 中には迷惑をかけていることすら分からない若いお母さんたちもいます。
 先日、これまでの迷惑駐車とは少し価値観の異なる反応がありました。 燃えないゴミの日は朝から廃品回収の軽トラックが走り回ります。正規の回収車が来る前に金目の物を持って行ってしまう車です。 そんな車の一台が我が家の駐車場のすぐ前に停まったため、車が入れないので少し移動するよう注意したところ思いがけない反応が返ってきました。 大柄の男性が、中国語アクセントの日本語で「入るよ!入るよ!」と叫びながら詰め寄ってきて、最後は捨て台詞を残して去って行きました。
 宗教は、人間の道徳倫理や行為の正し手になりますが、宗教を持たない場合には別の自浄システムが必要です。 塩野七生さんの言葉を少しアレンジして、民族別に人間の行動原則の正し手を見ると次のようになります。
「宗教」に求めたユダヤ人。「哲学」に求めたギリシャ人。「法律」に求めたローマ人。「儒教」に求めた中国人。「世間」に求めた日本人。 日本には劣化したとはいえ『人に迷惑を掛けない』という世間がまだ残っています。 儒教を忘れた、かの国の人には迷惑という感覚は失せてしまったのでしょうか。 尖閣の海で起こっていることの縮図を垣間見たような気になりました。

 博多祇園山笠(平成26年7月11日)

 息子の結婚相手のご家族とお会いするため福岡へ行ってきました。縁結びの神様ではありませんが、前日、女房と二人で訪れたのが大宰府天満宮です。
忠臣であった味酒安行は、菅原道真公の葬地を求め牛車で棺を運んでいると、安楽寺の境内で牛が伏して動かなくなりました。 これは天の啓示であると信じた安行は、この地を道真公の墓所として棺を埋葬し、祠を建てたのが太宰府天満宮の起源であるといわれています。 表参道の突き当たりには、その故事にちなんで『御神牛』の胴像が置かれていますが、触れるとご利益があるといわれているため、顔が光っています。
境内には多くの樟が見られますが、誠心館前の国指定天然記念物の大樟は、圧倒される大きさを誇っています。 熊野古道巡りで高原熊野神社や浜の宮の樹齢850年以上の大樟をいくつか見てきましたが、この大樟はスケールが違います。 樹齢1,500年以上といわれる大樟で、幹の形が真円に近く、美しくて安定感があり神々しさが感じられます。
 大宰府天満宮の境内を出て長いエスカレーターと動く歩道を乗り継いで行くと、九州国立博物館があります。 蒲鉾型の高い屋根を持ち、国際競技の可能なサッカー場が一面すっぽり入るほどの迫力のある建物です。 最上階の常設展示場には、旧石器時代から近世まで5つのテーマごとにアジアとの交流の歴史が紹介されています。 クリーブランド美術館の日本美術コレクションが里帰りする特別展が、準備中で見られなかったのが残念でした。
 夕方、ホテルで東京から来た下の息子とも合流し、結婚相手の妹さんが和服でアルバイトされていた、落ち着いた雰囲気の店での夕食です。 新鮮な魚と大吟醸「獺祭」が食卓を演出し、息子の嫁になる女性を交えての明るい雰囲気に場が和み、新しい家族の誕生が感じられました。
翌日の朝、博多祇園山笠の祭礼期間中でしたので櫛田神社へお参りし、川端通りの飾り山笠を見て回りました。 同じ祇園祭でも旦那衆が中心の優雅な京都と違って、町衆が中心のここの祭は勇壮です。
 昼過ぎに予約していたホテルで両家の顔合わせです。 以前このブログで映画『テルマエ・ロマエ』の「平たい顔族」について書いたことがあります。 同じような表現を借りると、お相手のご家族は「背の高い族」です。両親はもちろん娘さん二人も170cm程あり、息子さんは185cmの長身です。 最初にスタジオで記念写真を撮ってもらいましたが、両家並んで立ったポーズが決まらず、バランスのよい腰かけたポーズでレンズに収まりました。
その日はあいにくの雨でしたが、おめでたいことが重なる良い日になりました。 朝早く、息子とは兄妹のように育ってきた従妹に男の子が生まれたとの連絡が入りました。良い縁に恵まれ、新婚生活をスタートさせる二人と新たな絆を築く両家を祝して乾杯!

 カリモク(平成26年7月3日)

 我が家のダイニングには、結婚祝いで頂いた大阪ガスのクッキングテーブルが、30年以上の永きに渡り鎮座してきました。 4人掛けの小さなテーブルで、日々の食事や備え付けのコンロを使った鍋料理などで我が家の食生活を支え続けてくれました。 5月の初め、そのダイニングテーブルが突然引退することになりました。 福岡にいる息子から意中の彼女を連れて帰るとの連絡があり、ゆったりと食事のできる6人掛けの広いテーブルと取り換えることになったからです。 早速、チラシやネットで情報収集するとともに、大阪にあるIKEAと大塚家具へ見に行くことにしました。
 IKEA鶴浜店は、スウェーデンを発祥とする北欧インテリアと雑貨の店です。 種類ごとに商品を並べるのではなく、それを使った生活をわかりやすく提案しています。 リビングのコーナーを中心に見て回りましたが、北欧の洗練されたシンプルなデザインが特徴のようです。 IKEAは安くておいしい店内のレストランも人気で、昼食は少し苦みの強いスウェーデンビールと共にここでとりました。
次に訪れた南港の大塚家具は、スウェーデンとは全く文化の異なる日本的な接客方法で、係りの人が付きっきりで広い店内を案内してくれます。 おかげで、テーブルの素材、作り方、塗装や値段の違いがよくわかりました。 同じビルに湯川家具が入っていたので立ち寄りましたが、大塚家具と違いほとんど店員の姿がなく、店内を自由に見て回れます。 これまでの学習の結果、無垢の材料を使ったシンプルなデザインの「カリモク」のテーブルに的を絞って探すことにしました。
 我が家には「カリモク」(刈谷木材工業の略称)の製品が一つだけあります。ダイニングテーブルと同じく結婚祝いで頂いたマガジンラックです。 本来の役割の他に、今は首をけん引する器具の先端につけるおもり代わりに使っています。 茨木にある「カリモク」のアウトレット会場を訪れたのはそれから数日後です。 工場の展示場に所せましと色々な家具が並んでおり、売約済みの家具にはテープがかけられています。 その中からダークブラウンの落ち着いた色合いと重量感のある木目が特徴の無垢のウォルナットのテーブルを選びました。
 5月初めにテーブルが届き、我が家のリビングに据え付けられました。 最初はカバーをせずに使っていましたが、傷をつけるのが心配で透明で厚みのあるビニールを買ってきて、テーブルを包むようにカバーしました。
息子が連れてきた彼女は、話が上手で機知に富み、かわいくてなおかつ長身です。 その後2人の間で話が進み、福岡で両家の家族が顔合わせすることになりました。 テーブルを買い替えてまであの場を準備した甲斐があったようです。

 平たい顔族(平成26年1月23日)

 古代ローマ人を阿部寛さんが演じる映画『テルマエ・ロマエ』で、タイムスリップして下町の銭湯に迷い込んだ男は人々を眺めて思う。 ここは「平たい顔族」の国かと。 西洋の「彫りの深い顔族」と比べると平たい顔がアジア人の特徴ですが、では一体我々日本人はどのようにして平たい顔をもつようになったのでしょうか。
 「一木会」については、以前このブログでご紹介しましたが、毎月第一木曜日に開催する例会は7年程続いています。 会場を四ツ橋に移してからも、デパ地下で仕入れる美味しい寿司、餃子、焼き鳥とお酒を持ち込んで会費3,000円で運営しています。 土木・システム系の技術者・学者のOB8名が、毎回持ち回りで話題提供を行い、それを肴に侃々諤々、同窓会のような雰囲気を楽しんでいます。 1月の話題提供者に指名され、「平たい顔族」に関連して「私たちはどこから来たのか?」をテーマにプレゼンを行いました。
 図書館から「弥生人と縄文人」、「シャレコウベが語る」、「日本人の生いたち」、「日本人を科学する」、「日本人の誕生」等 数冊の本を借りて来て調べてみると、日本人の起源に関しては、二つの学説があることが分かりました。
一つは、縄文人が稲作を開始して生活環境が変化したのに伴い、次第に顔の形を変えて弥生人になったという「移行説」。 もう一つは、弥生時代以降に渡来した人々との混血を繰り返して、日本人が形作られたという「混血説」です。 それらの学説に対して東大名誉教授の埴原和郎さんが「混血説」を骨格として、自然人類学における他分野の業績を統合して組み立てられたのが 次に示す「二重構造モデル」です。
 『原日本人は東南アジア系の人々が原型となり、縄文人になった。 その後、弥生時代になって北東アジア系の人々が渡来し縄文系の人々と混血して現代の本土に住む日本人を形成した。 混血は現在も進行しており、日本人は、渡来した北東アジア系と在来の東南アジア系の二つの集団の二重構造が考えられる。 在来系の形質を比較的残しているのが、アイヌと沖縄の人たちである。』
少し解説が必要ですが、太古の時代、インドネシアからジャワ島に至る広大な区域にスンダランドと呼ばれる陸地が存在していました。 日本も陸続きでしたが、二万年程前から徐々に海岸線が後退して現在のような東南アジアが形作られました。 五万年以上前から人口の増加などによりスンダランドからの人類の拡散が始まり、一部は北上して行き、二万年前にはシベリアに到達しました。 そして寒さをしのぐため顔が平坦化になるなど寒冷地適応していきました。私たち「平たい顔族」の祖先の誕生です。 五千年前、地球がやや寒くなると、今度は寒冷地適応していった集団の一部が南下し、さらにその一部が渡来系弥生人として日本にやってきたのです。 現代の日本人の顔は、縄文系と弥生系の二つの起源があるわけですが、そのどちらの度合いが強いかで縄文タイプまたは弥生タイプの顔立ちになります。 それらの要素をまとめたのが次の表です。
項 目 縄文系 弥生系
二重瞼 一重瞼 蒙古襞
小さくて裏側が平ら 大きくて裏側がシャベル状
分離型(福耳) 密着型
耳垢 湿型 乾型
立体的 平面的
眉毛 濃い 薄い
ALT
(白血病ウィルス)
キャリアー ノンキャリアー
お酒 強い 弱い
頭示数 中頭型(0.76~0.81) 短頭型(0.81以上)
典型的な著名人 渥美 清 吉永小百合
片岡鶴太郎 夏目漱石
藤田まこと 岩下志麻
笑福亭鶴瓶 樋口一葉
 表の中の頭示数というのは、額から後頭部までの縦の長さと、こめかみ間の横の長さの比で、弥生人型は0.81以上、縄文人型は0.81以下です。 工夫して私自身の頭の長さを測ってみました。 おとぎ話に出てくる鉢かぶり姫のように丸いゴミ箱をかぶり、前と横の隙間に定規を当てて長さを測り、ゴミ箱の直径から引きました。 結果は0.9、頭の形だけ見ると純粋に近い弥生タイプです。
 さて、「二重構造モデル」によると混血は現在も進行していますが、私たち「平たい顔族」がこれからどこへ行くのか、 いくつかの気になる要素を前出の本から拾い出してみました。
(1)現代の若者は足が細く、顎がとがってえらの部分がなくなってきていて、歩く、咀嚼をする力が衰えている。 骨の形質からいくと寿命が短くなる可能性がある。
(2)2013年の出生数は103万、死亡数は127万5,000人、結果、24万5,000人の日本人が消えたこととなる。 しかもこの人数は毎年続く数字だから怖い意味を持つ。
(3)近代文明は、かつて経験したことのない汚染にさらされた環境を短期間のうちに作り上げてしまった。 そのため、文明と生物との不調和という状況を作り出してしまった。
 人類進化の歴史をたどると、すべての集団は、それが人種であれ民族であれ、独立に起こり、成長してきたものではないことが分かります。 日本人という集団も、境界は明確ではなく、相互依存的であり、かつ流動的です。 いまは「平たい顔族」の国ですが、アジア系以外の人たちとの混血がさらに進む何百年後かにタイムスリップすると、 はたしてどんな顔族の国になっているのでしょうか。

 姫路城(平成26年1月16日)

 テレビのニュース番組で姫路城大天守修理見学施設「天空の白鷺」が、1月15日で閉館されることを知り、一日前に女房を誘って見学に出かけました。 事前に鹿島建設のHPで工事の様子を動画で見て、ほとんど手作業に近い人海戦術の修理工事と城を覆う素屋根工事のスケールの大きさに驚かされましたが、 そのプロセスを見世物にするというビジネスモデルにも感心させられました。 姫路で昼食をとってから城へ向かう予定をたて、評判の良い穴子料理の専門店をネットで見つけ、 美味しい料理と装い新たな大天守を間近に見るのを楽しみに出発しました。
 ナビで案内された道を走っていて穴子料理専門店「H」と書かれた看板を見つけ、近くの駐車場に車を停め店に向かいました。 1時を少し過ぎていましたが店は込んでいて、カウンター席に案内されました。入口近くのため、ドアが開く度に冷たい風が入ってきます。 メニューに表示されている値段は、お酒も料理も大阪の同じレベルの店よりも少し高めです。 穴子中心のメニューの中から1,700円の「穴子御前」を注文しました。 カウンターの上には「村尾」や「十四代」等の銘酒が置かれていますが、すべて空瓶で少し埃をかぶっています。 ミシュランの調査員になったつもりで観察を続けます。平日なのにサラリーマンの姿はなく、客筋のほとんどが中年の女性で、観光客のようです。 かなり待たされた後に料理が運ばれてきました。品数は豊富で味付けもよく上品な感じですが、穴子ご飯があまりにも粗末なのに驚きました。 大きな器の中にほんの少しのご飯と、薄い切り身の穴子が数枚乗っているだけです。 フグなどの身の硬い魚は薄造りにしますが、柔らかい穴子をこれ程薄く切ったのに出会ったのは初めてです。 ボリュームのある穴子料理を期待していただけにがっかりして店を後にしました。
それにしても、穴子のうまい店とは縁が無いようです。 昨年、テレビで紹介された泉佐野漁港へわざわざ穴子を食べに行った時も、1階と2階の店を間違えてしまい、 テレビで見た穴子の天ぷらがはみ出していたどんぶりとは違い、痩せた穴子が乗った発泡スチロールの容器が出てきました。
 気を取り直して姫路護国神社の駐車場に車を停め、天守閣に向かって歩き始めた時に、 昼食の穴子ごはん以上にがっかりさせられる案内放送が聞こえてきました。 見学施設へ上るエレベータの待ち時間が2時間もあるとのことです。結局、入口まで行っただけで引き返してきました。 護国神社の巫女さんが気の毒に思われて、駐車料金を受け取られなかったのがせめてもの慰めでした。

 ライオンキング(平成25年9月7日)

 高い評価を新聞で読んで、劇団四季「ライオンキング」のチケットを手に入れたのは、4ヶ月も前のことでした。 先日、車をヒルトンホテルの駐車場に止め、予約しておいたイタリアンレストランでの昼食の後、同じビルにある四季劇場へ向かいました。 夏休みの真最中で、子供連れでいっぱいです。心配していた通り、上演中小さい子供の鳴き声で興ざめする場面が何回かありました。 ストーリーは単純ですが、感心させられたのは、人形と演者が一体となったパフォーマンスです。 人形浄瑠璃では人形が主役で演者は脇役ですが、ここでは演者と人形が合体して一つの人格を造り上げおり、その動きに不自然さが感じられません。 他にも影絵を使ったりして、演出にジャワや日本文化の影響が感じられます。
 繰り返されるカーテンコールでは、動きの多いハイエナ役を演じきった女の子の光る汗とはじけるような笑顔がさわやかでした。 おいしいものを食べ、カーニバルを楽しんだようなミュージカル初体験の一日でした。

 少年「H」(平成25年9月2日)

 主人公と同世代の岳父が賞賛していたので、この本のタイトルは知っていましたが、今年映画化され、 話題にもなっていますので改めて本を読み、映画を見てきました。 時代に翻弄されながらも、したたかで純粋な「H」少年の目を通して、あの戦争が活写されており、 戦争の愚かさを市民の目線で証言している作品です。
 日本語の横書きが、左から右に変わったことや「中央」のフリガナが「チウアウ」から「チュウオウ」に変わったのは、 日本語を大東亜共栄圏の国々に英語以上に広めて、アジア全域の言葉にするためだったことをこの本で初めて知りました。 軍事力では日本語を広めることはできませんでしたが、日本語をローマ字で正しく表現するようになったことは、 アニメに代表されるクールジャパンの文化が広まるベースになっているように思われます。

 PLの花火(平成25年8月5日)

 結婚して入居した狭山遊園前のマンションは大きな池に隣接し、部屋は見晴らしの良い最上階でした。 PLの花火見物のため女房の家族を招いたのは、昭和57年8月1日、台風10号が上陸した日です。 PLの花火大会はパーフェクトリバティー教団の宗教行事で「教祖祭PL花火芸術」が正式名称。 「自分の死は嘆いたりせず、世界平和を祈って花火を打ち上げて祝ってほしい」という初代教祖の遺言により毎年開催されています。 この日も豪雨の中で打ち上げが始まりました。普通花火は円形ですが、低く垂れこめた雲に覆われ上半分が見えず、切ったスイカのような形です。 女房の家族も早々に引き揚げ、葛下川が氾濫して王寺駅前が水没する前に無事帰ることができました。
 先日、信貴山から柏原へ抜ける道の途中に車を停め、女房と二人でPLの花火を見物しました。 30年前のデートで見た花火の記憶はありませんが、明るい柄のパンタロン姿がかすかに思い出されました。

 奇跡のリンゴ(平成25年7月25日)

 『1970年代の青森県中津軽郡岩木町(現・弘前市)。三上秋則はリンゴ農家・木村家の一人娘・美栄子と結婚して木村家に婿養子入り、 サラリーマンを辞め、美栄子と共にリンゴ栽培にいそしんでいたが、ある日、美栄子の体に異変が生じる。 美栄子の体は年に十数回もリンゴの樹に散布する農薬に蝕まれていたのだ。 秋則は美栄子のために無農薬によるリンゴ栽培を決意するが、それは当時、絶対に不可能な栽培方法と言われていた。 秋則は美栄子の父・征治の支援を受けて無農薬栽培に挑戦するが、案の定、何度も失敗を重ね、借金ばかりが膨らんでいく。 次第に周囲の農家からも孤立していき、妻や娘たちにも苦労をかけてしまう。 10年の歳月がたっても成果が実ることはなく、窮地に追い込まれた秋則はついに自殺を決意、1人で岩木山に向かう。 すると、彼はそこで実がたわわになった自生した1本のリンゴの樹を発見、これが奇跡の大逆転の糸口となる。』 ウィキペディアによる映画のあらすじです。
 年をとると涙腺が緩くなり、映画を観て涙することが多いのですが、この映画では、それ程の感動はありませんでした。 本のエピソードを忠実に映像にして、分かりやすいのですが、わざとらしさが感じられます。 映像と文章の違いはありますが、同じ実話をもとにしても作者の描き方により、これほど違うものかと思いました。 ただ、岩木山の四季やリンゴの花の美しい映像が救いでした。
 著者の石川拓治さんは、主人公の木村秋則さんの仕事を次の様に解説されています。
『自然の中には害虫も益虫もない。それどころか、生物と無生物の境目すらあいまいなのだ。 土、水、空気、太陽の光に風。命を持たぬものと、細菌や微生物、昆虫に雑草、樹木から獣にいたるまで、 生きとし生ける命が絡み合って自然は成り立っている。自然を細切れに分解して理解しようとするのが自然科学の方法論だ。 科学者がひとつひとつの部品にまで分解してしまった自然ではなく、無数の命のつながりあい絡み合って存在している 生きた自然全体と向き合うのが百姓の仕事。』
 同じ内容のことを梅原猛さんは「人類哲学序説」で哲学のレベルで論じられています。
『西洋文明は偉大で、豊かな生活を与えてくれる科学技術文明を生み出した。 しかし、現代はもう科学の進歩を謳歌する思想がそのまま通用する時代ではない。 自然破壊を容認する哲学はもはや未来の人類哲学として通用しない。人間中心の利己的な思想ではもはや人類は生きていけない。 自然を征服する科学技術から自然と共生する科学技術へ変わらねばならない。生きとし生けるものと共生する哲学。』
 そして、その新しい哲学を日本の「草木国土悉皆成仏」という天台本覚思想に求められています。 自利と利他の調和を説くこの思想こそが、近代西洋的な人生観に替わって人類の思想になる必要があると結ばれています。
 「奇跡のリンゴ」では10年の苦労の末、リンゴに仏性を見出し、奇跡が起こりました。 対象は違いますが、主人公と同じように長年苦労しているのがゴルフです。 何回かの開眼はありましたが、ゴルフに仏性を見出し、奇跡が起こることはないようです。

大阪市立大学土木会50周年記念誌(平成19年3月)

遊びをせんとや生まれけむ

 タイトルは「梁塵秘抄」の歌謡の1節です。子供の純真な愛らしさを歌ったものとされていますが、サラリーマン人生を少し早く終えた今の私には 次の解釈の方が心に響きます。
「人生は何かを達成するための生産の時間ではなく、面白いことをするための消費の時間で結果として何かが残ればいい。遊びは目的を持った行為ではない。 人生に不可欠でもない。だからこそ、そんなことにうつつを抜かすのが人間的ではないか。」
 縁あって卒業以来ずっと鋼橋に関する業務に携わってきました。メーカの時代は設計と製作、ソフトハウスに移ってからはCAMシステムの開発が中心でした。 洋服にたとえると、鋼橋の設計はああでもないこうでもないと試行錯誤を繰り返しながら服をデザインするステージ、製作は型紙を使って生地を裁断、 縫製して服を仕立てるステージになります。CAMシステムはデザインを立体的に表現して、デジタルの型紙を作成する情報システムと位置づけることができます。 短期間で高品質なインフラを整備するためには既製服のようなプレートガーダーが効率的です。初期のCAMシステムもプレートガーダー橋専用システムとして開発され、 製作の標準化や生産性の向上に寄与してきました。しかし、橋梁構造物が大型化、複雑化するのに伴い、任意系の鋼構造物に適用できる汎用的なCAMシステムが 望まれるようになり、その責任者として開発を任されることになりました。システム構築に当たっては本来の橋種や部材名の持つ意味の色を消し、 同じアルゴリズムで処理できる部材は新しい言葉で定義するようにしました。そのために、鋼橋を補剛パネルの集合体としてモデル化し、主桁、主桁ブロック、 主桁パネル、単部材、単位要素面、格点からなる階層構造を考え、格点の持つ座標値によって形状が決まるようにしました。
 ハードとしての土木は結果として地図に残る成果品を創造します。ソフトの面から鋼橋にかかわり続け、今でもこのシステムが運用されインフラの整備に 役立っていることを考えると、地図には残りませんが一つの作品を作り上げることができたのではないかと思っております。
 これまでのサラリーマン人生は、面白い業務を通した遊びの要素もありましたが、家庭を支え子供を育てる家住期にあっては、 やはり「生産の時間」が中心であったと思います。しかし、人生の林住期に入り「生産の時間」から「消費の時間」へのシフトを意識するようになってきました。 それを実践するためのベースとして、昨年ソフトとブリッジをコンセプトとした会社を設立しました。曹洞宗の修證義に「橋を渡すも布施の壇度なり」との表現があります。 「橋に関する仕事を続けることは、布施を行うことと同じである。」と理解しています。仲間と力を合わせて会社を運営していくと共に、 これまで鋼橋のCAMの世界で培ってきた経験をもとに自らを生かし、他をも生かす自利利他を実践して行きたいと考えています。
 天神橋商店街に近いメゾネットタイプの事務所は、サロン風でキッチン付です。たびたび開催するミニ同窓会で中高年向けクッキングスクールで学んだ腕前を 披露しています。50代後半になったかつての同級生たちも次の人生を考える時期にきています。私の選択はお手本にはなれませんが見本ぐらになっていると思っています。 手本は習う必要がありますが、見本はおいしそうとかまずそうとか見る側の立場でいろいろ言えます。料理の評価はそれなりに高いのですが、 見本の方はどうなのか気になるところです。