大津祭
月宮殿山(平成26年10月23日)
旧東海道は、大津の札の辻で南へ折れ、ここから直進する北国街道と分かれます。
大津祭の曳山「月宮殿山」は、札の辻近くの上京町が所有する曳山です。
この曳山の見送幕は「トロイア陥落図」と題され、有名なホメロスの叙事詩「イリアス物語」の中でもとくによく知られた
「トロイの木馬」の場面を描いたタペストリーの一部です。
かつてはフランス、ルイ王朝のゴブラン工場で織られたものと思われて、ゴブラン織りの見送幕と呼ばれていましたが、
ベルギー王立美術歴史博物館から、京都祇園祭の「鯉山」の胴懸けに使われているタペストリーの図柄が「イリアス物語」の一場面であり、
日本に現存する「B・B」イニシャルのタペストリー群は「イリアス物語」に題材を取った一連のものである、という研究結果が寄せられました。
この「月宮殿山」のタペストリーも16世紀のヨーロッパ、ブラバン・ブリュッセル「B・B」製のイリアス物語を描いた5枚組のタペストリーの一枚で、
物語の最後を描写したものであることがわかったのです。
上京町はこの見送幕を伊勢松坂三井本店より銀八貫六百匁で購入しており、その譲渡文書とともに、国の重要文化財に指定されています。
宵宮の夜、この町では曳山の周りの桟敷に鉦と太鼓を見物客に開放し、自由に叩けるようにしてありました。
酔いに任せてばちを握り、少年の頃に戻った気持ちで、この曳山の囃子とは少し違う派手な叩き方で太鼓を叩いていました。
宵山見物の途中に出会ったのは高校の同級生だったY君です。
Y君とは私が高校生の時「西行桜狸山」に乗っていた頃から毎年祭の日に顔を合わせ、厄除けの粽、日本手拭を手渡すのが、
年に一度の同窓会のようになっていました。
彼の祭見物の服装はいつもきちんとしていて、ハレの日に相応しいスーツまたはジャケットにネクタイか着物です。
祭の行事に関わらなくなってからは実家での曳山巡行見物だけで町に出歩かなくなりましたので、何年も出会うことはなかったのですが、
久しぶりに彼の事を知ったのは図書館の本棚で彼の名前を見つけた時です。
塩野七生さんの「十字軍物語」の傍に彼が著した十字軍関係の本がありました。現在は京都の大学で西洋史が専門の教授です。
実家の2階からの観覧を誘ったところ翌日の曳山巡行の時に来てくれました。さすが大学の先生で話が上手です。
「一木会」のメンバーに私が説明していた内容よりもはるかに奥深い、豊富な知識を持った説明が始まりました。
Y君は祭の中心から少し離れた曳山を持たない町内に住んでいましたが、小さい頃から祭好きで、毎年欠かさず見物に来ています。
永くこの地を離れて大津祭がよその祭のように感じられるようになってきたわが身と比べ、
今でも自分の好きなものに少年のような情熱を持ち続けているY君の姿にある種の感動を覚えました。
西行桜狸山(平成26年10月3日)
西行は、鳥羽院に仕える「北面の武士」でしたが、ある日突然世を捨てます。
その後ひたすら修行の道に邁進するというよりは、出家して自由な立場となって生きた人でした。
こよなく桜を愛した西行は、たくさんの桜の歌を残しています。能楽『西行桜』は、西行が庵を結んでいた京都西山大原野の桜の名所に由来します。
桜を愛しながらも花見客を迷惑に思った西行は、「美しさゆえに人をひきつけるのが桜の罪なところだ」という歌を詠みます。
夜、西行の夢に老桜の精が現れ、「桜はただ咲くだけのもので、罪などあるわけがない。桜のために煩わされると思うのは人の心だ」と西行をたしなめます。
老桜の精は、桜が咲き誇り、また散るまでを舞を交えて語り、花の命を惜春に言い添えて夜明けと共に消えて行きます。
大津祭の元祖となった西行桜狸山のからくりはこの能楽をモチーフにしています。
西行桜狸山は、江戸時代の初めに鍛治屋町の塩売治兵衛が、四宮祭礼に狸の面をかぶり、采を振って風流踊りを踊ったのに始まり、
続いて年老いた治兵衛の代わりにからくりで腹鼓を打つ狸を作り曳山としました。
その後からくりは、狸の腹鼓から能を題材にした西行桜に替わって現在の形となっています。
また、からくりの変更と同じ時期に狸のはく製を曳山の屋根に立たせ、以来300年余り、狸は屋根の上で日和見をし、
祭日の天気を守護するといわれています。
本祭の日に「所望(しょうもん)」の幣が掲げられた場所で操られるからくりは、桜の精が曳山の左前の古木より現れ花道を進みでて
、奥にいる西行法師と和歌問答をする様子を表しています。
二十歳のころから10年間程、このからくりを操っていました。からくりの舞台となる桜の古木は、桜の精が隠れる空洞のある幹、
花道になる幹から突き出した太い枝、その枝の先端に飾り付けられる桜の造花で構成されます。
桜の精は幹の空洞にある舟と呼ばれる木の台車に乗っていて、「所望」の囃子が始まると舟ごと斜めに花道の高さまで引き上げられます。
花道の太い枝には溝が切ってあり、舟から外れた桜の精がゆっくり進んでいきます。
先端に達すると囃子に合わせて、右回り左回り、立ったり座ったりして舞を舞います。
立つ時は巫女が鈴を鳴らすように、手に持った桜の蕾を勢いよく揺らします。
舞い終わると方向転換し、花道を後ろに進んで再び舟に乗り、空洞の中に消えます。
一連の動きが終わると花吹雪が撒かれ拍手の下に「所望」が終わります。
桜の精と舟を操るのは前進、後退、左右の回転、舟の上下などの数本の分銅がついた紐です。
能では桜の精は年老いた姿ですが、このからくりの桜の精は白いうりざね顔の美人です。
物心がついた時から年に一回、秘仏を拝むような感じでそのお顔を拝見してきました。
男は鏡で見慣れている自分の顔か母親の顔に似た女性に好意を持つといわれています。
女房がどれに当てはまるのか分かりませんが、私が理想としたのは桜の精の顔に似た女性のようです。
大津祭(平成26年9月26日)
9月29日(月)放送予定の『鶴瓶の家族に乾杯』は、滋賀県大津市の旅の後編です。
旧東海道の宿場町の地区で老舗をめぐり、様々な夫婦のお話、そして大津祭の山やお囃子の模様が放送されます。
大津の町は琵琶湖水運の要となる港町として、また東海道の宿場町として発展し、江戸時代には人口約2万人の幕府直轄都市になり、
湖岸に建ち並ぶ蔵屋敷がその経済力を象徴していました。
古くから続く老舗も多く、明治24年に日本を訪問中のロシアの皇太子が、警備にあたっていた警察官に斬りつけられた際に担ぎ込まれた布団屋さんは、
今も同じ場所にあります。
大津祭(旧四宮祭)の曳山祭例は、このような大津町人の経済力を背景として、今から400年ほど前の江戸時代初期に始まりました。
その特色は、飛騨の高山祭のようなからくりを曳山の上に載せたことと、曳山の車輪を方向転換しやすい三輪にしたことにあります。
からくりの題材は、中国の故事や能・狂言から取り入れられており、当時の文化水準の高さを物語っています。
10月12日(日)の本祭りには、曳山元祖の西行桜狸山を先頭に天孫神社の氏子町内から13基の曳山が出され、旧大津の町々を華やかに巡行します。
曳山は、からくりの他にも豪華な織物の幕類や意匠をこらした彫刻・金具、また一流画人の天井画などで飾り付けられており、
見る人の目を楽しませてくれます。
特に幕類の見送りには16世紀ベルギー製のゴブラン織など海外からの渡来品もあり、祇園祭ほどのスケールはありませんが、
江戸時代の町人文化の粋を集めた動く美術館と言えます。巡行中「所望」の幣が掲げられた場所でからくりが操られ、巧妙な所作が人々をわかせます。
さらに、にぎやかな囃子が祭り気分をいっそう盛り上げ、この日大津の町は祭一色につつまれます。
社会人になるまでこの大津で育ち、物心ついた時から籤取らずの西行桜狸山に乗っていました。
小学生の頃は鉦、中学生になると太鼓、高校生以降は笛を担当しましたが、囃子方の責任者になった頃から、
からくりで西行法師と問答する桜の精を操っていました。
子供の頃、この日一日は目立たない普通の男の子が曳山の上で演奏をし、観客に向けて厄除けの粽を撒くスターになります。
左の写真は、今から半世紀前の東京オリンピックの聖火ランナーとともに写されて新聞に掲載されたものです。
先頭の曳山の中央にいるのが中学生の頃のスター気取りの私です。
大津を離れ、囃子方を引退した後も何年かは裃をつけて裏方の警備などをして祭に参加していましたが、今は観客として祭を楽しんでいます。
今年の祭には一木会のメンバーやゴルフ仲間の方たちが大阪から、それに息子夫婦も福岡から駆けつけ、賑やかな祭見物になりそうです。
これまで、何人かの知人に来ていただきましたが、両親が高齢のため、これだけ多くの客人を実家にお招きすることはもうないように思います。
日本酒は新潟の「八海山」、焼酎は屋久島の「愛子」、地元名物の子持ちアユの塩焼き、鮒ずしなど用意して精一杯おもてなししたいと思っています。