一木会(令和5年9月10日)
「おじさんたちの井戸端会議(一木会)」がスタートしたのは、今から18年前阪神が優勝し、私が会社統合の後リストラされた年です。
今は亡き元社長のFさんを中心に気の合う仲間が集い、飲み食いしながら、おじさんたちが関心を持っているテーマを、
井戸端会議のように語り合ってきました。
家庭や職場のような強いつながりではなく、利害関係のない弱い関係だからこれまで続いてきたように思います。
メンバーのMさんが健康上の理由で退会されることになり、発足以来のメンバーは私一人になってしまいました。
また一つ弱いけど大切なつながりが消えていくようなさみしさを感じます。
先日の一木会の話題は「ネガティブ・ケイパビリティ」でした。
直ぐに答えを出さず、迷ったり、悩んだりする「モヤモヤする力」が大切だという考え方です。
「AI時代」を生き抜く術としてクローズアップ現代で取り上げられていたテーマです。
先日の会では、Mさんの退会をきっかけに少し運営形態を見直すことになり、出席された方の賛同を得ました。
毎月の開催ではなく、原則3,6,9,12月の年4回の開催とします。
内容は充実し、京都鷹峯や尾鷲でのイベントを提案していきたいと考えています。
これまでの飲み食いに使った金額は200万円以上、人生にほんの少し、心休まる時間を持てたのではないでしょうか。
≪酒の肴になった話題≫
<どうする原発><奈良の社寺を歩く><人工膝関節><チャットGTP>
<人新生の資本論><人生100年時代の行動戦略><自転車島巡り>
<土木設計エキスパートシステム><頭にガツンと一撃><事故報告>
<橋屋の人生><コロナの時代を読む><これからの道路について>
<デジタル・レーニン主義><ネオサピエンス><ハイコンセプトの時代>
<新しい日本人論><“ヨタヘロ期”を楽しく明るく生きるには>
<核融合発電><耐震補強工事><天皇について><消えた電灯>
<信用」が中国人を変える><北九州橋巡り><宅地崩壊>
<NEXCO西日本イノベーションズ><ケアンズ旅行><量子コンピュータ>
<縄文人はどこから来たか><ディープラーニングの開発事例>他
ゴルフとクエ(令和5年5月3日)
ホームページのリニューアルに力を入れ過ぎたためかブログの作成がおろそかになり、4月初めの更新が一回飛んでしまいました。
今月の話題は「ゴルフとクエ」です。
おじさん達の井戸端会議「一木会」の4月例会は、一泊二日尾鷲での開催です。
一日目は、雨と曇りがコロコロ変わり、二日目は強い雨の予報でしたが、延期するとスケジュール調整が面倒なため決行することにしました。
参加者は7名、内ゴルフ組は5名で、大阪から新名神と伊勢自動車道で来るIさんの便を優先し、一志嬉野インター近くのセブンスリーゴルフ場を予約しました。
奈良から行く4名は家の近くのスーパーの駐車場で合流し、車2台で向かいます。
奈良から尾鷲へ行くルートは3つあります。
国道169号を通り、吉野から上北山村を経由するルートはきついカーブの続く山道ですが、距離は150kmほどで、一番近いルートです。
名阪国道で亀山ジャンクションから伊勢道を経由するルートは、距離が200kmほどの一番長いルートですが、時間的には一番早いルートです。
これまでこのどちらかのルートを利用していましたが、名阪国道の治田インターで下りて国道165号線を東へ進み一志嬉野から伊勢自動車に乗るルートを最近は利用しています。
距離は亀山ジャンクションを経由するルートより10kmほど短くなりますが、一般道のため時間的には変わりません。ただし高速料金が少し安くなります。
セブンスリーゴルフ場の1番ホールはフェアーウェイ左に白い色のバンカーと赤い色のバンカーがあり、右には小さい池があります。
M君のティーショットは右にスライスしてその池に入りました。しかし近づいてみると水の上に白いボールが浮いているように見えます。
池だと思っていたのは水色のカラーバンカーでした。
距離の長いコースで最終ホールのパー4ではティーショットを250ヤードほど飛ばさないと、セカンド地点から打ち下ろしていくグリーンが見えません。
飛距離の伸びない高齢者にとってはハードなコースでした。
ゴルフが終わって一志嬉野インターから尾鷲に向かいます。
途中「おとと」で翌日のバーベキューのための食材を仕入れ、熊野古道センターに立ち寄ったあと尾鷲シーサイドビューに着きました。
通された部屋は3階角部屋で海が一望できます。浴場の大きなガラス窓からも同じ風景が見られます。
壁紙の模様やアルコーブに置かれた植物など建物のちょっとしたところにオーナーの奥さんの好みが伺えます。
夕食はクエコースと伊勢エビコースに分かれましたが、食べきれないほどの料理をそれぞれ分け合って両方を堪能しました。
クエも伊勢エビも近くの海でとれた新鮮なもので、特にクエは漁師や釣り人が釣ってきたものを買い上げ、生け簀に入れてありますので年中食べられるそうです。
グレが泳ぐ生け簀の底に大きなクエの姿が見えました。
翌日は土砂降りの雨のため、オーナーにお願いしていた船での遊覧は中止です。
梶賀に着いて小降りになるタイミングを見計らって車を降り、煩悩の数ほどの長い階段を上ってかじか荘に着きました。
予定していた庭でのバーベキューはできず、家の中での宴会になりました。
時間を持て余しぎみのため、前の住人が置いて行った麻雀パイを使って麻雀大会を始めました。
一畳の掘り炬燵に2つ乗せているテーブルの1つを床の位置まで下ろし、その上に座布団を敷き即席の麻雀卓ができました。
何年振りかの麻雀で学生時代に戻ったような感覚です。新しい事にはなかなか馴染めませんが古いことならすぐに再開できるようです。
おじさん達の井戸端会議(令和3年3月18日)
月に2回のペースで身の回りの出来事や興味のあるテーマを取り上げてブログを更新していますが、書くことが見つからない時があります。
今回がまさにその時で、一つのテーマでA4一枚にまとめ上げるほどの話題がありません。
仕方ないので、3月の初めに再開したおじさん達の井戸端会議「一木会」でのとりとめのない話で紙面を埋めたいと思います。
この会はもう15年ほど続いている飲み会です。
勤めていた会社が統合された後に親しくしていた会長が退任され、時間を置かずに私がリストラされた時から始めた情報交換会がそのルーツです。
今のメンバーは、会社の先輩や大学の同級生、それに橋梁業界で付き合いのあった方8名です。
居酒屋、会社の会議室などで開催していましたが、その後難波にある貸会議室を利用するようになりました。
スーパーが近くにあり調理された食材が調達できますので、酒や総菜を段ボールに詰め込んで会場まで運びます。
ただ雑談するだけでは声の大きい人に引っ張られがちですが、毎回持ち回りでプレゼンターが話題提供し、それを基に意見交換します。
同じ時代を過ごしたおじさん同士、同じような価値観を持っていて問題意識も共通しているため話がはずみます。
テーマは時事、宗教、文化、軍事、土木技術、生き方など多岐にわたり、井戸端会議にしてはハイレベルな話題で盛り上がります。
新型コロナの影響を受けてここ数回中止しましたが、関西で緊急事態宣言が解除されたのを機に、今回は久しぶりの顔合わせになりました。
いつもの難波の会場は、少しスペースが狭く、換気も良くないので場所を天満橋のビルの一室に移しました。
以前の会場と比べて広く、清潔な感じで密も避けられます。阿倍野近鉄百貨店で開催されていた東北6県の食材を買い求め、デザートにずんだ餅までついたフルコースです。
環境が変わると行動に変化を求められますが、おじさん達の対応は様々です。
場所を間違え、隣のマンションの入り口でドアが開かないと助けを求めていた方もいれば、開催場所に早々と着いて待っていた方もいます。
また、いつもルーティーンで行っている会費の徴収や記念撮影も忘れてしまいました。
今回はプレゼンター無しの井戸端会議でしたが、コロナ禍のリーダー論も話題になりました。新聞や雑誌、それにネット情報を基にした次の様な内容です。
・菅総理はどうやら平時の総理であり、非常時には不向きだ。
・新型コロナ禍はまさに非常時、リーダーが国民に明確なメッセージを送らなければいけないが、記者会見すらまともにできていない。
・この未曽有の危機下でわが国のリーダーの「伝える力」のお粗末さが、人々の絶望感や不安を掻き立てている。
・しっかりと国民に向き合い、対話をし、納得させるコミュニケーション力なくして、リーダーシップは発揮しえない。そもそもリーダーシップはあるのか。
・日本は明治以降、急速な近代化を遂げたが、集団指導の下、さまざまな利害を調整しつつ合意形成を図る政治風土は変わらず、リーダーが育つ土壌ではなかった。
・もっといいやり方があるはずだとみんな思っているのに実現できないのは政治が色々な面で硬直化、劣化している現れだ。
リタイアーして職場の飲み会で話す機会が無くなり、家庭では会話が続かない社会のホットなテーマが、おじさん達の井戸端会議では格好の酒の肴になります。
【一木会Iさんのブログを転載】(平成29年8月14日)
我らが「一木会」の代表幹事であるSさんから、いきなり三重県の尾鷲の先の梶賀という所にある民家を購入したという話を聞いたのは、
数ヵ月前の例会においてであった。以前から、その類の計画を耳にしていたので、ようやく実現したかと祝福する気持ちでいたが、
「ついては、この家を一木会のメンバーにも有効に利用してほしい。しかし、少々傷んでいるので、これからメンテナンスを加える必要がある。
その費用を賄うために利用者は会員制とし、今から入会金を徴収させてもらう」と言われたときには、いささか「ナヌ?」と思った。
なんとも強引すぎる主張に、驚くと同時に納得がいかないまま、しぶしぶ財布を出そうとすると、追い打ちをかけるように、
「入会条件として、この地域の振興を支援する『梶賀サポーター』になってもらう。そのサポーター資格の取得費もあわせて徴収する」と言われたのには、
「ナヌ?」だけでは済まされなかった。
如何なる事前相談もなしに、それはあまりにも理不尽な話であると、メンバーから不満の声が沸き上がったのは当然であった。
その日の例会の席に、酒の肴として鰤の燻製(「あぶり」と称するこの地に伝わる独特の製法による)が提供されていた。
それがどうやら、この「梶賀」なる地の特産品であるらしく、当地では、これをもって地域振興を図ろうという計画がすすんでいるという。
普段の穏健なSさんに似合わぬ強硬な姿勢に押されながら、この数切れの酒の肴を口にしたばかりに、
メンバーは全員しぶしぶ彼の言いなりならざる得なくなってしまった。
こうして、我々メンバーは、三重県の津市から高速でも1時間はかかる最果ての地の、
世帯数104、人口176、高齢化率57%の「梶賀」という名の小さな集落と、奇妙な縁を持つに至ったのである。
それから、1、2か月程経った例会で、Sさんから、購入した家の改修作業の進捗状況の報告があり、あわせて周辺の様子が写真と共に紹介された。
それと相前後するように、NHKの朝の番組や、読売新聞の記事を目にして、ようやく状況が少しだけ呑み込めるようになってきた。
そして、ついに先月の22日、「かじか荘」と命名され、装いも新たになったSさん待望の海の家が、オープンの日を迎えることになった。
招待客は、「一木会」のメンバー三人とSさんの学友でゴルフ仲間のお二人である。
昼頃に尾鷲市内で落ち合って、20分程無料の高速道路を走って、その「梶賀」という集落に到着した。
集落の真ん中を流れる小川の、両側の道のすぐ傍まで山が迫って来て、平地と呼べる場所は殆どない。
したがって、民家の殆どが、その小川の河口にある小さな入り江の周りの急峻な斜面に、へばりつくように立っている。
魚の集荷場の横の人影のない駐車場に車を停めると、近くで子供たちのはしゃぐ声が聞こえる。
後で聞いた話だが、この地を離れていった人たちが、子供たちの夏休みに合わせて休暇で戻って来ているらしい。
すぐ近くの河口の先に広がる海を見に行った。コンクリートの防波堤の外は、熊野灘であろう。
やはり人影のない堤の近くで、家族づれと思われる一組のグループが、スキューバダイビングを楽しんでいる。
続いて案内されたのは、築80年以上の古民家を改装したという、交流施設「網元ノ家」である。
ここでは少し遅めの昼食に、人気メニューの「あぶり釜飯」が出された。
桜の木でいぶした煙の香りと、素朴な塩味が醸し出す釜飯は、遠く名古屋からも足を運ぶ人がいるというだけあって、絶品の名に値する。
そして、この交流施設で、かいがいしく我々を迎えてくれたのは、あぶりの販売を手掛ける株式会社「梶賀コーポレーション」の女社長のNさんである。
この「梶賀コーポレーション」なる会社は、地元の人たちが出資して今年の4月に、設立され、この交流館を拠点に、
あぶり以外にも飲食・イベントなどの事業を行っている。
そして、この女性社長Nさんは、もう一人の若者Aさんと共に「地域おこし協力隊」として、1年半前に尾鷲市から派遣されたという。
その夜はこのお二人から、我ら「梶賀サポーター」に向けて、詳細なプレゼンテーションをしていただける予定となっているのだ。
「あぶり釜飯」を頂いた後一旦尾鷲市に戻って、「夢古道の湯」の深層水のお湯で汗を流し、近くの「熊野古道センター」で、
世界遺産熊野古道に関するビデオや資料を見て、時間を過ごした。
再び梶賀の集落に戻って、ようやくSさんの「かじか荘」に案内された。
荘までの狭くて急な階段は、僅か30数mの高低差とはいうものの、老いた足腰にはかなりの覚悟がいる。
階段の両側には、かつて民家が建っていたであろう空き地がそこここにある。
ほうほうの体で辿り着いて中に入ると、台所、居間、風呂、トイレのどれも、素人の手とはとても思えない見事な出来栄えである。
一息ついて酒盛りが始まり、しばらくして協力隊のふたりも現れて、集落の現状や今後の計画などとともに、この地によせる彼らの熱い思いを聞いた。
和やかな談笑の続く中、いつの間にか「梶賀サポーター」の面々も、本気で何とかしたいと、思い始めたようであった。
翌朝、5時から集落総出の掃除があると聞いて、殆どのメンバーがそれに参加した。
この一事を見ても、Sさんの梶賀によせる思いが、半端でないことがわかる。
これまで縁もゆかりもなかった地域と、これ程のディープな絆を結ぼうと、Sさんを動かせているのは何なのか?
Sさんは、この「かじか荘」の改装工事を、一切プロに依頼せずに、この2,3ヵ月毎週のように奈良の自宅から通い詰めて、
自らの手を動かして成し遂げたという。その過程で、たとえばトイレの便器を肩に担いで、あの急峻な階段を上っている時など、
「なんで俺はこんなことをしているんだろう」と、何度も自問自答したという。
小さいころから大工仕事や魚釣りが大好きだったというのは、一つの理由かもしれない。
しかし、素敵な家族に恵まれて、何不自由のないゴルフ三昧の生活を送っていながら、既に老境にはいった今、何故にまた、
単なる趣味の世界を遥かに越えた、これまでのライフスタイルと全く異なった新しい世界を、また一つ獲得しようとするのか?
10年ほど前、松山で単身生活をしていた時、Sさんからメールをもらったのを、思い出した。
そのメールには、母校の何かの記念誌に投稿したという、彼の近況を綴った一編の短文が添付されていた。
あの「梁塵秘抄」のなかの「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動(ゆる)がるれ」を取り上げ、
「子供の純真な愛らしさを歌ったものとされていますが、サラリーマン人生を少し早く終えた今の私には次の解釈の方が心に響きます。
それは、『人生は何かを達成するための生産の時間ではなく、面白いことをするための消費の時間で、結果として何かが残ればいい。
遊びは目的を持った行為ではない。人生に不可欠でもない。だからこそ、そんなことにうつつを抜かすのが人間的ではないか』という解釈です」とあった。
あの時、彼の心に響いた言葉は、現在もそのまま残っていて、無意識のうちに今回の一連の行動を、支えているのであろう。
だとすれば、その人生観に近い者としては、少々理不尽と思える要求も受け入れ、その「面白いことをするための消費の時間」に、
同席させてもらいご相伴にあずかることにしよう。
セルロースナノファイバー(平成28年5月26日)
予知は、時系列的にみて、その時点では発生していない事柄についてあらかじめ知ることです。
経験則や情報による確定的な予測と異なり、超能力や啓示などの超越的感覚によるものです。
先日、私にもそのような能力が備わっていると思われる経験をしました。
それは天王寺へ向かう電車の中での出来事です。毎月第一木曜日に開催するおじさんたちの井戸端会議に参加するため、王寺から電車に乗りました。
時間的に少し余裕があったため、天王寺に早く着く快速電車ではなく、先に発車する普通電車に乗りました。
乗客はまばらでベンチ式のシートは空いた席が目立ちます。その女性は王寺から3つ目ほどの駅から乗ってきました。
ラフな格好をした若い女性で学生のような感じです。私が座っている席の反対側のドアの前にこちらを向いて立ちました。
すぐ降りるつもりなのか空いた席に座ろうとしません。暫くするとドアを背にしてしゃがみ込みました。
しんどければいつでも席に座れますので、最近の若者が電車内でよくするポーズだと思っていました。
『もし彼女が本当はしんどくてしゃがみこんだのなら、次に立ち上がった時に倒れて来たらどうするか。
仰向けに倒れる場合は後頭部を打つため、持っているカバンで後頭部を守る。
その後最寄り駅に降ろすため、斜め前に座っている二人の若い女性に頼んで体を持ち上げてホームに運んでもらう。』
そのような起こりもしない想像を巡らせていました。いくつ目かの駅で彼女は立ち上がり、ドアが開くのを待っていました。
電車がホームに着いた時、先ほど想像していたことが現実に起こりました。
まるでスローモーションを見るように彼女が仰向けに倒れてきたのです。
とっさにカバンを頭と床の間に差し入れようとしたのですが間に合いません。
しかし、先にお尻をついて倒れたため、頭へのダメージはなかったようです。真っ先に近づいて様子を見ると意識がありません。
斜め前に座っていた女性2人に頼んで彼女を持ち上げてもらい、ホームに運び出しました。運転手からの連絡で直ぐに駅員が駆けつけてくれました。
暫くすると意識を取り戻したのか自分で立ち上がり、駅員に付き添われて改札の方へ歩いて行きました。
電車は5分ほど遅れて発車しました。想像したことが目の前で起こるのを目撃したのは初めての経験です。
「一木会」で興奮気味にこのことを話しましたが、私の予知能力については誰も信じてくれませんでした。
「一木会」の話題提供は持ち回りですが、何回も順番が回ってくると自分の得意な分野で解説できる話題がなくなってきます。
前回私が担当した時は、テレビを見て興味を持ったテーマをネットで調べて提供することにしました。
それはセルロースナノファイバーです。セルロースナノファイバー(CNF)は植物繊維を化学的、機械的に解きほぐしたものです。
繊維1本の直径は数ナノ~数十ナノメートルしかありませんが、鉄の5分の1の軽さで強度が5倍と、炭素繊維に迫る性能を備えています。
しかも透明で、熱を加えても膨張しにくく、粘りを出すこともできます。
このため化粧品の他、ソフトクリームの形を保ったり、ガラスの代わりに利用するといった、さまざまな利用法が考えられています。
中でも樹脂と混ぜて自動車部品に使えば、1台あたり20キロの軽量化につながるといわれています。
セルロースナノファイバーはまさに夢の素材といわれ、2030年には関連市場が1兆円に達すると予測されています。
車のボディから家電製品まであらゆる工業製品の材料になる可能性を秘めているこの新材料が社会で本格的に活用される時代がやがて来ます。
日本が再生可能な資源大国になるといった明るい未来像が、まがい物の予知能力しか持たない私にも見えてきそうです。
京都鷹峯(平成28年1月19日)
鷹峯は、豊臣秀吉によって作られた京都を囲む土塁「御土居」の外にある洛外とされ、辻斬りや追いはぎが出没する治安の悪い所でした。
後に本阿弥光悦が徳川家康よりこの地を拝領してから、光悦を慕う芸術家や豪商が移り住み、鷹峯は京都の芸術・文化の一大拠点となりました。
花札の8月の絵札でおなじみの「芒」は、この鷹峯の山を模したものとされています。
一昨年、この鷹峯に東急ハーベストがオープンしたのを機に、おじさんたちの井戸端会議「一木会」の忘年会をここで開催することになりました。
立命館大学の衣笠校舎で青春時代を過ごされたFさんは、大学にも近いこの地での開催を楽しみにしておられました。
詳しくは語られませんでしたが、鷹峯には学生時代に知り合った女性との思い出があったようです。
しかし、一番楽しみにしておられたはずのFさんは直前に急逝され、忘年会はFさんを偲ぶ会になってしまいました。
あれから一年、再び京都鷹峯で忘年会を兼ねた12月の例会を催すことになりました。
今回はFさんの一周忌でもあるため、お墓にお参りしてから京都に向かうことにしました。
昼過ぎに泉ヶ丘駅前に集合し、Fさんの奥さんの案内で墓地に向かいました。
お墓の前で線香を焚き、Fさんが好きだった日本酒「雪っこ」を備えて手を合わせた後は、話題の多かったFさんの思い出話に終始しました。
この墓地には宗派を問わずに祀られている様々なお墓がありますが、Fさんの墓石は他と比べて黒っぽく目が詰まっていることに気が付きました。
「ひょっとして庵治石ですか」と尋ねると「そうです」との応えです。
庵治石は、香川県庵治町から産出される花崗岩で、花崗岩のダイヤと呼ばれて高く評価されている石材です。
水晶に近い硬度を持ち、彫られた字は崩れたり、変色したりしないといわれています。
墓石に関する知識などほとんどないのですが、亡き義父の納骨の際、墓石を見たお坊さんが言われたその名前だけを覚えていました。
Fさんの弟さんが亡くなられた時に両親がお墓を建てられたそうですが、若くして亡くなった息子さんを悼み、とても高価なお墓にされたそうです。
奥さんを自宅にお送りして一年ぶりに仏壇にお参りさせて頂きました。
主のいない書斎は当時のままで、愛用されていたMACの横には若い頃の私も写っている集合写真が置かれています。
懐かしい品々を眺めていると生前のFさんのことが思い出されます。
Fさんとの初めての出会いは、私が設計から営業に配属され、肌に合わない談合の仕事に悩み、転職を決意してFさんの会社の面接を受けた時です。
入社する前には、私の前の会社の上司や大学の恩師を訪ねて、礼を尽くして説得して頂きました。
大勢の人と飲んで語るのが好きな方で、第三会議室と称する近くの居酒屋での会議には週に何回も付き合いました。
お客さんとの人間関係を業務と同様に大切にされる方で、接待費も自由に使わせて頂きました。
プライベートの面でも海釣りに行ったり、ゴルフをしたり、釜山までフグを食べに行ったりと友人か兄弟のように接して頂きました。
人生には色々なご縁がありますが、Fさんとの出会が無ければ、情報技術者としての再出発もなく、
社会人としてもこれほど充実した人生は送れなかったように思います。
もう一緒に遊ぶことは叶いませんが、Fさんのこれまでの御恩に感謝しつつ、これからの人生の下り坂をお金と時間をかけて楽しく下って行ければと思います。
水ナス(平成27年6月2日)
日本史における茄子の初出は、東大寺正倉院文書に天平勝宝2年(750年)に茄子が宮中に献上され賞味されたという記述です。
『延喜式』では茄子の漬物のレシピも残されており、平安時代の帝や後宮の女性も日常的に口にしていたことが伺われます。
水ナスは糠床に漬け込んだ浅漬けとして食べられることが多いのですが、灰汁が少なく、水分を多量に含んでおり、
ほのかな甘みもあって生食も可能なナスです。ため池が多く、水はけのよい大阪府の泉州地域で特に盛んに栽培されており、泉州特産品として有名です。
この水ナスの浅漬けが大好きで、阪和道を通る時には必ず岸和田サービスエリアに寄り、2日程で食べごろになる水ナスを買い求めます。
金気を嫌うため、へたを取り包丁で切れ目を入れてから手で裂きます。
頬張ると、うす塩のほのかなしょっぱさと自然の旨味が合わさり、芳醇な味わいです。
Fさんは現役の頃「仕事は大勢で、旨い物はひとりで!」とよく仰っていましたが、今一つ腑に落ちない信条のように感じていました。
人と食べたり、飲んだりすることが大好きな方で、決して旨い物を独り占めにされることはなく、
仕事でも食べ物でも、旨い物は気前よく振舞われていました。
昨年亡くなられるまで、毎年この時期になるとFさんから水ナスを送って頂いていましたが、今年も同じように届きました。送り主はFさんの奥さんです。
私がFさんの会社に転職したのはFさんが会社を設立されて間もない頃で、実務経験豊富な即戦力の技術者が多くいましたが、
有資格者は少なく、会社の信用を高めるためにも資格取得を奨励されていました。
転職する以前から、業務に必要な一級土木施工管理士の資格は持っていましたが、建築に興味があったので一級建築士の資格も目指していました。
それまでは、学科試験は何度も通りましたが、設計製図の実技試験で失敗を重ねていました。
転職で環境が変わったこともあり、新たな心境で試験に臨み、模範解答を何種類もトレースしてデザインの感覚を覚え、やっと合格することができました。
自宅の部屋に当時会社で登録した一級建築士事務所のプレートを記念に飾っていますが、看板だけで業務実績はゼロでした。
建築士ほど世間では名が通っていませんが、技術者としての最高の資格は科学技術庁長官が認定する技術士です。
一次試験は全て記述式で、試験時間内に経験論文や専門問題に対する回答をただひたすら記述します。
考えている暇などありませんので、事前に問題を想定して模範解答を準備しておく必要があります。
最初に受験した年は、準備不足で申し込みをしただけで受験しませんでした。
しかし、叱咤激励しているFさんと会社で顔を合わすわけにもいかず、試験当日は映画館で過ごしました。
その後の一年間は朝の4時に起きて大学受験以来の勉強を続け、無事合格することができました。
私が社員で初めての技術士であったため、報奨金100万円の資格取得制度が設けられました。
現役時代に取得した業務に関係する資格は大いに役立ちましたが、建築士の資格は生かせないままにリタイアーすることになりました。
リタイアー後、建築技術を身に付け少しでも世間のお役に立てればと、幾つかのリフォームの会社に応募しましたが、
年齢と実務経験がないことを理由に断られました。どうやらこの資格の使い道はなさそうで、日曜大工のレベルで終わりそうです。
一木会(平成26年10月16日)
釈迦の信頼が厚かった10人の直弟子にはそれぞれ得意な分野がありました。
そのジャンルでナンバーワンだという意味で、全員「智慧第一」等の別名を持っています。
縁あって集う『一木会』のメンバーは、年齢も出身企業も違い、それぞれ個性豊かです。
Iさんはご自身のブログで、そのメンバーを釈迦の十大弟子のように別名を付けて紹介されています。
これまで「瞑想の人」、「慈悲の人」と称してお二人を紹介され、このブログにも転載しました。
今回「融和の人」と名付けて私のことを紹介頂きました。
【融和の人】
集合時間の30分も前に、JR大津駅のホームに降り立った。
折からの台風19号の接近に伴う雲が空一面を覆っていて、肌寒を感じて半袖シャツで飛び出してきたのを少し後悔する。
今日の「一木会」は、その事務局として会の活動を一手に支え続けておられる、Sさんのご招待を受けて、「大津祭り」を観賞することになっている。
目指す天孫神社を駅前の地図で確認した後、トイレを拝借しようと雑踏を離れると、木陰に隠れるように句碑が立っていた。
「木曽どのをしたい山吹ちりにけり」と、早速俳聖芭蕉のお出迎えである。そういえば此処大津には、芭蕉の眠る「義仲寺」がある。
融和の人であり、風雅の人でもあるSさんの出生の地に相応しいところである。帰りに時間があれば、お参りしよう。
駅前から湖に向かう大きな通りを5分ばかりも歩くと、笛と太鼓と鐘のお囃子が賑やかに聞こえてきて、いくつもの曳山が目に入ってくる。
その曳山に囲まれた「天孫神社」の周りは、法被姿の引き手や多くの見物客で足の踏み場もないほどである。
巡行が始まるまでに、まだ少し時間があったので、「西行桜狸山」という先頭の曳山をまじかに眺めながら、
Sさんからこの祭りについてのはなしを聞いたり、カメラに収めたりした。
やがて、巡行の時間が来たので、神社のすぐ隣にあるSさん宅の二階のベランダに陣取って、
神社正面鳥居の前で次々と繰り広げられる各曳山のカラクリの一部始終を、鑑賞させていただいた。
400年の伝統を持つこの祭りは、地域の人々の並々ならぬ情熱によって、今日まで支えられてきた。
ものごごろ付いた時から、実家を離れるまで、曳山に上って鐘太鼓をたたき、カラクリを操ってきたSさんも、その一人であることは言うまでもない。
さらには、現在でも世話役を務めておられるお父さんも、また代々のS家の人々もしかりである。
13基の全曳山の巡行を観終わり、新潟や鹿児島の銘酒に、鮒ずし子持ちアユの塩焼きなどの琵琶湖の珍味が所狭しと並べられた、
奥の部屋に戻って、いよいよ宴会の始まりである。
今回の出席者はいつもの一木会のメンバー以外に、Sさんのゴルフ仲間のご年配のお二人や、
Sさんの奥さんに結婚式を間近に控えた息子さんとお嫁さんが同席してくださって、いつもの会と違った華やいだ雰囲気が、部屋中に溢れている。
「祭り」という非日常の行事は、古来より日常生活を営むための「ケ」のエネルギーが枯渇し、「ケガレ(褻・枯れ)」を生じた状態を、
こうした「ハレ」の祭事を通じて回復するという説がある。
確かに「祭り」の効果として、そうした面があるのは確かだろうが、それ以外に、祭りには地域の人々の絆を深めるという側面がある。
「祭り」を滞りなく進めていくには、関与する多くの人々がひとつになる必要がある。
すなわち「融和」精神が最も重要視される。
和やかな歓談の中で感じたことは、Sさんという人が持って生まれた「融和を大切にする心」は、ここにその原点があるということである。
何時どんな場でも、にこやかな笑顔を絶やさず、大人げない不毛の争いを避ける生き方、それは「大津祭り」を通して培われた、
S家のDNAに深く刻まれた遺伝的性格なのであろう。
Sさんのそうした人柄によって、ゴルフ仲間のお二人も、若い息子さんご夫婦も、こうして一木会とのご縁が結ばれたものと合点した。
融和の人は、また風雅の人でもある。酒とゴルフをこよなく愛し、「遊びをせんとや生まれけむ」と、悠然と構えてぶれることがない。
やがて、和やかな宴の席も終わりを迎えた。
途中、皆さんと別れてひとり、義仲寺を訪ねた。
Sさんの真似をして、たまには風雅を味わってみようとやって来たが、調子に乗って飲みすぎたために、それどころではない。
やがて、静かな境内で休むうちに、酒の上とはいえ不躾な言動で、融和の席を穢したのではないかという不安が募ってきた。
シラスの縁(平成26年8月30日)
前回のブログで「探偵ナイトスクープ」が話題になったのを機に、この番組に関するもう一つのエピソードを一木会メンバーのFさんの手記を基に
書きとめておきたいと思います。
和歌山のある小学校の社会科の勉強で、地元の特産品「シラス」の物流調査を実施することになりました。
地元の特産品がどのような場所で、どのような人に食べられているかを知るため、「シラス」の箱のいくつかに手紙を入れました。
たまたまその特産品を手にした男性はその手紙に感動し、その児童たちに図書券を添えて返事を出しました。
遠い千葉から返事が届き、先生と児童達は大喜びしました。そのうれしい気持ちとお礼を手紙にし、先生と小学校の児童はその男性にまた手紙を送りました。
その後、男性が子供たちひとりひとりに手紙を添えて本を贈り、子供たちがお礼の手紙を送る交流が10年以上も続きました。
最初に手紙を書いた児童は、高校生になりました。
本を絶やさず送ってくれる「あしながおじさん」の男性がどんな人か知りたくなった父母の一人が「探偵ナイトスクープ」という番組に依頼を出しました。
探偵さんは、依頼を叶えるために小学生から高校2年生までの30名をつれて、男性に会うため貸切バスで和歌山から一路千葉へ向かいます。
男性の家の前の道路にこれまでに男性に届いた沢山の手紙を広げ、 自分の出した手紙を探し、
大騒ぎして喜ぶ表情が視聴者に感動を与えた素晴らしい内容でした。
この話に登場する男性は、私が勤めていた橋梁情報会社の社長、会長を歴任されたSさんで、
児童は和歌山県の海南市立内海小学校冷水(しみず)分校の子供たちです。
また、この話の背景にはこの縁を取り持ったもう一人の人物Fさんがいます。関連会社のゴルフコンペの幹事をされていた当時専務のFさんは、
参加賞として海南市冷水浦港でシラス製造販売を行っている川端栄三郎商店からシラスを20個購入されました。
その中に児童からの手紙が入っていました。Fさんはその手紙を作為的にSさんの参加賞にそっと忍ばされました。
「因縁」とは、物事が生じる直接の力である「因」とそれを助ける関節条件の「縁」があり、すべての物事はこの2つの働きによって起こるとされています。花の種は、水や温度などの条件が整って初めて芽を吹き、花を咲かせます。
このような展開になることまでは想像されなかったかも知れませんが、仕掛け人のFさんは、文化人のSさんが反応されるのを確信されていたようです。
Fさんは他にも「種」を持っている人さまざまな働きかけをされてきました。
私も手紙を託されて花を咲かせることが出来た一人であったと今でも感謝しています。
アホ・バカの境目はどこだ(平成26年8月20日)
一木会メンバーのNさんは、かつては顧客企業の工場長をされていた方で、現役の時いろいろとお世話になりました。
今は京都の会社に籍を置かれていますが、この会に参加するため、月一回早退して駆けつけてくださいます。
8月のNさんの話題提供は『全国アホ・バカ分布図』の紹介です。
「視聴者から寄せられた依頼に基づき、あらゆることを徹底的に調査追及する娯楽番組」である探偵ナイトスクープで
「アホ・バカ分布図」というものが作られたことがあります。
これは、「夫は大阪、妻は東京の夫婦げんかで、アホ・バカと言い合ってお互い傷つく。ふとどこに境界があるのかと思ったので調べて欲しい。」
という依頼をきっかけに、日本の各地域でアホ・バカ・タワケ…一体どの言葉が使われているかを調べ上げた一大娯楽研究です。
「探偵」たちが日本全国津々浦々を調査した結果、浮かび上がってきたのが「京都を中心として同心円を描くアホ・バカ分布図」でした。
つまり、昔の文化中心だった京都周辺で生まれた新しい言葉が、時間をかけて日本列島に広がり伝わって行き、古い言葉が京都から離れた場所に残り、
京都に近づくほど後に生まれた新しい言葉が使われている、というわけです。
これまで一般に、「アホ」と「バカ」は、日本の東と西に対立している言葉であると考えられてきました。
また一方で、「アホ」のほうが古い時代に広まり、「バカ」がずっとのちになって広まったとも考えられてきました。
しかし、これらはいずれも誤りだったようです。
東京や九州の「バカ」は、京の古語なのです。京都から遠く離れた地域ほど、古い時代の京の言葉を使っています。
そして「バカ」は、京都から半径およそ200キロ以遠にのみ、濃厚に分布しています。
「バカ」は、白楽天の詩「馬家の宅」に由来します。奢りたかぶった末に没落した馬さんの家。
馬家のようなやつという意味で「バカモノ」が生まれました。
「アホ」は、もとは中国・江南の「阿呆(アータイ)」。
「呆」という字の意味は「ぼんやり。間の抜けていること」で、この字の頭に親しみの「阿」がついて、「呆ちゃん」つまり「おバカさん」のこと。
中国の江南から日明貿易の船でやってきました。
言葉は、京都から日本を東西に旅しましたが、それ以前に、はるばる中国から東シナ海の波濤を越えて、京に旅してきたというわけです。
「アホ」の反対語は「かしこ」ですが、人はこの組み合わせで4種類に分類されると何かのコラムで読んだことがあります。
「アホアホ、かしこアホ、アホかしこ、かしこかしこ」です。
両極端を除くと、「かしこぶっているアホな人」か「本当は賢いのですが、アホを演じられる人」です。
二つの色のグラデーションは人生の変遷に伴い変化しますが、後者でありたいものです。
プロジェクター(平成26年6月15日)
単なる飲み会であれば8年もの長きにわたっては続いて来なかったと思いますが、
毎月第一木曜日に開催する「一木会」では持ち回りでプレゼンテーションを行います。
会場を四ツ橋に移してからは飲食費の他に、借室料、PCやプロジェクターの借り賃がかかり、三千円の会費では余裕がなくなっていました。
そこでこれまでの余剰金でプロジェクターを購入することにしました。
従来のプロジェクターというと会議室の中央にドッシリと鎮座し、携帯することはおろか場所を動かすことすら困難といった印象が強いのですが、
Aigo Projector Cloudはそんなプロジェクターのイメージを払拭するポケットに入る小型軽量ボディです。
このプロジェクターが"Cloud"という愛称を持っているのは、WiFi接続機能が標準で用意されているためです。
Internetからデータをダウンロードしたり、サイトを表示させたりといったことがこの小さな本体で完結します。
この製品にはWindows OSが採用されているので、ファイルを保管したりプログラムを追加したりすることもできます。
また、マイクロソフトオフィスとの互換性がある「SoftMaker Office」がプレインストールされていますので、
ワード、エクセル、パワーポイントのファイルを直接読み込み、編集することができます。
スクリーンに映した画像をディスプレー代わりに使う小さなコンピュータのようなものですので、わざわざPCと繋ぐ必要もありません。
「一木会」のプレゼンテーションの特徴は、リアルタイムの双方向性にあります。
一枚のスライド毎に聞き手が反応しますが、アルコールが入っているため、脱線することもしばしばです。
この新しいプロジェクターでプレゼンテーションがより活性化し、
会話に「あれ」や「それ」などの代名詞がやたら多くなってきたメンバーの健忘症がこれ以上進まないことを願っています。
一木会(平成26年4月11日)
一木会のIさんは、同じように感じていてもうまく表現できないことを、流れるような文章にして、腑に落ちる形でブログにまとめられます。
以下に転載する「一木会(慈悲の人)」は、「いいね!」ではなく、「そう!そうなんや!」と言いたくなるような内容です。
(Iさんのブログ)
「一木会(慈悲の人)」
以前このブログで「一木会」なる集いを紹介したことがあるが、今回はその「一木会」を語るにおいて、
この人を抜きに語れない方(Fさん)に、登場していただくことにする。
というのも、先日この方のご自宅において盛大なる花見が、4月の月例会として挙行されたので、その時の報告に合わせて、
この方の人となりの一端を、ここに改めて紹介せていただく。
泉北線の「泉ヶ丘」に約束の4時前に着くと、Fさんが先着の2人のメンバーと一緒に、いつもの人懐っこい笑顔で立っておられる。
直々のお出迎えに恐縮しながら、愛車に乗せていただき、10分足らずでお宅の玄関先に到着すると、あの周りを睥睨するかのような大きな桜が、
屋根を覆い隠さんばかりに咲き誇って、お出迎えである。
車を降りて、早速その姿を何枚かカメラに収めるうちに、何年か前にお邪魔した折に観た姿と、どこか様子が違うことに気付いた。
よく見ると、何ケ所か大きな枝が切り落とされて、どことなく不自然に見えるのである。
さすがに、これだけ大きくなると、落ち葉や花びらが辺りに散乱し、近隣に迷惑を掛けることになるので、仕方なく切らざるを得なかったようである。
先着のメンバー3名と合わせて7人が揃ったところで、早速、宴の始まりである。
この会では、毎回順番に発表者を決めて、話題提供としての発表がある。
ある時は、「ビッグデータ」について学び、その活用方法を考察し、
ある時は、日本人のルーツを辿って、その特性を再認識し、自らの今後の生き方を調整し、
またある時は、仮想通貨「ビットコイン」を学び、その将来性について議論し、混迷する世界経済の今後の行方を占う。
しかし、今回はお堅い話を抜きにして、せっかくの桜を心行くまで楽しもうということになった。
そんなことで、その夜は「日本人と桜」に始まって、さまざまなテーマが飛び交い、存分に酒を楽しんだのだが、
帰りの電車の中で、またもや「あの夜」のことを思い出していた。
実を言うと、Fさんはこのブログにすでに何度か登場していただいているのだが、最初のそれは、かれこれ10年近く前に、
Fさんと当時仕事仲間たちと一緒に、仕事の後誘い合って繰り出した、造幣局の通り抜けの夜の思い出話である。(「備後町の思い出」2008年)
あの夜のことを思い出しながら、Fさんという人が、年上であれ年下であれ、男であれ女であれ、どんな職業についていようが、
一たび縁を持った人間であれば、分け隔てなく受け入れてきた人であることを、改めて思い知らされた。
一見ぶっきらぼうな話しぶりに、誤解を招くことも多々あるのだが、その「やさしさ」にどれ程多くの人が、癒されてきたことだろう。
この会のメンバーの中にも、自分をはじめ何人かは、Fさんの慈悲の手にすがって、新しい人生を開くことが出来たと、今も感謝の気持ちを持ち続けている。
この会が回を重ねるごとに、その絆を深めていくのも、この「慈悲の人」の存在あってのことであろう。
宴の場となった座敷の床の間と縁側のテーブルの上に、さりげなく飾られた桜の生け花は、奥様の「おもてなし」の心である。
かつて、現役の時代に「おかあちゃん会」と称する、役職者が細君同伴で参加して、おかあちゃんに感謝の気持ちを伝えるという、
Fさんの発案による会が、年に一度開催されていた。
その会で、奥様は参加した細君たちに、かいがいしくお声をかけておられた姿を思い出す。この人にあって、この奥様である。
まさに、芭蕉の「さまざまな事思い出す桜かな」を実感した夜だった。
「一木会」メンバーの方のブログを転載(平成25年8月6日)
【一木会-2(瞑想の人)】
以前、このブログで「一木会」なる飲み会を紹介したことがある。正直なところ自分にとっては、この会は単なる飲み会ではなく、
大げさに言えば、2千5百年前インドで釈迦の周りに集った、「僧伽」にも匹敵するかけがえのない集まりである。
それをそのまま書くのは、嫌味たらしく見られると思い、あえて「唯の酒好きのジジイたちが集って、我執・我見のままに言いたいことを
言い合っているだけの会(に見えなくもない)」と言ってしまった。
その後、このブログが何人かのメンバーの目に止るところとなり、当然のこととして非難をあびる結果となった。
自分では、真意をそれとなく行間に滲ませて書いたつもりであったが、すっかり読み飛ばされてしまったようである。
そこでと言ってはなんだが、以下この会のメンバーの一人に登場していただいて、失われた名誉を挽回していただくことにしよう。
Rさんは、おん年七十余歳とは思えぬ頑強な体躯に、仏様のような温厚で円満なお顔をのせた、正に好々爺と呼ぶに相応しい方である。
しかし、見た目とは裏腹に、かなりの頑固者で一度言い出すとなかなか人の話を聞かない一徹さを持っている。
その一徹さの為せる業か、この方、学生の頃からテニスに打ち込まれて、現在でもテニスコートを走り回っておられる。
それだけではなく、ウォーキングという趣味を持たれているが、退職後始められて、これまでに地球一周(4万km)を走破したと言われるから、
半端ではない。現在2周目に挑戦中で、一日20kmを歩いておられるそうである。時速6kmとしても、3時間以上かかる。
もちろん健康維持という目的もあるが、この方は歩いている時が一番本来の自分でいられるとおっしゃる。
「ウォーキング・メディテーション」という瞑想方法があるが、この方の歩きは、正に瞑想そのものなのである。
現代にあって、たとえ専門の禅の修業僧であっても、一日3時間以上瞑想する僧侶が、どれだけ居るだろうか。
それだけに我らが「僧伽」にあっては、間違いなく「瞑想第一」の人と言えるであろう。
しかし、これだけの修行を続けてこられた方であっても、家庭からは理解されないようで、
かつて「父帰る 茶の間の子供ら 部屋帰る」という川柳を、地でいっていたというところが、この方らしいところでもある。
Rさんは地域の自治会でも重職を務めるかたわら、10年近く子供たちの登校を見守り続けている。
先日、ウォーキングの途中で背後から、「オッチャン、何処へ行くの?」と声を掛けられた。
振り向くと、毎朝顔を合わせている、知恵遅れの女の子が立っていた。かつて、「オッチャンの名前なんていうの?」と問いかけてきた子だ。
その時、Rさんは本名を答えても覚えられないだろうと、咄嗟に「オッチャン2号や」と答えたという。
Rさんは子供たちの見回り役として、アニメのヒーローの名前をもじって、他に仲間が何人か居るうちの2番目の意味を込めて、そう教えたらしい。
以来その子とヒーロー達は特別な絆で繋がれたのは言うまでもない。
かつて、釈迦の弟子達が北インドの各地を遊行しながら、人々に法を説いて回った。
説法こそしないが、毎朝地域の幼い子供たちを慈愛の目をもって見守るヒーローたちのその姿が、
釈迦の弟子達が人生の苦難に苦しむ在家の人々を見守る姿と、重なって見えてくるようだ。
そのRさん、前回の「一木会」にて、「BMI(Body Mass Index)について」というテーマで、話題提供された。
「肥満度指数」のことらしい。かつてスポーツの世界で、若い頃に教え込まれた常識が、ことごとく覆されている。
このBMIにしても、身長・体重だけで肥満度を計るというのは、ものごとの一面だけで判断する危険をはらんでいるというのが、概略的な論旨であった。
紙面の関係上その詳細は語れないが、Rさんの締めの言葉は「常識は疑うべし」ということだった。
かつて、「絶対の人」といわれて、自らの主張を決して変えることのなかったRさんも、瞑想行によって、ついに新境地を開きつつあられるようだ。
(一木会は、Rさんのような傑物で溢れているのだ)
一木会(平成25年6月14日)
「春日台の花子」を紹介いただいた方が、私が世話役を務める「一木会」について最近のブログに掲載されています。 地縁・血縁のような強い絆ではなく、たまたまご縁のあった弱い絆の会ですが、強くもせず、ネットワークも広げず、弱いままで 続けられれば良いと思っています。
【一木会】
既に一線を退いた爺さん達が、月に一度第一木曜日に集まる、「一木会」という飲み会がある。
時折、外部からゲストを迎えることもあるが、今のところメンバーが7人で決まっており、毎回そのうちの誰かが話題提供をすることになっている。
外で飲む機会がめっぽう少なくなって、この会は唯一と言っていい楽しみである。
とはいえ、昔のような飲み方をやろうと思っても、体が言うことを聞かないから、いたって大人しく家路に着くのだが、
その帰り電車の中で心地よい酔いに身を任せながら、時々、仏教学者増谷文雄の「友情について」という本のことを思い出す。
本の表紙に「なにゆえに友と語ることは楽しく、なにゆえに友を失うことは悲しいのか。本書は、心の友を失って友情の尊さを再認識させられた著者が、
友情こそ人間が人間として、新しく学び得た血によらざる結びつきであり、仏教の、いや宗教の本質であることを発見する感動の書」と書かれている。
本の中で、紀元前5世紀の頃、釈迦・孔子・キリスト・ソクラテスの世界の四大哲人が生まれると共に、世界各地に古代都市ポリスが出現しているが、
そのことと新宗教の誕生との間に深い係わり合いがあると、彼は言う。それまでの部族社会においては、血の繋がりこそが、
もっとも大切にされた価値であったが、ポリスの誕生による人間の生き方の大きな変化によって、「友情は近親関係に勝るものだ」と言うような考え方が、
生まれてきたと言うのだ。しかもその友情にあっても、「善ゆえの親愛」、「快楽ゆえの親愛」、「有用ゆえの親愛」とがあるなかで、
「善ゆえの親愛」すなわち、「人間の卓越性にもとづく友人」に重きを置くようになった。インドにおいては、そうした価値観を持つ人々が集い、
仏教修業者集団「僧伽(サンガ)」を形成するにいたる。
そうした集いの中では、以下のような会話が交わされていた。「・・・・人々は、私を善き友とすることによって、老いねばならぬ身にして、
老いから自由になることができる。病まねばならぬ身にして、病から自由になることができる。あるいは、死なねばならぬ身にして、
死から自由になることができる。アーナンダよ、このことを考えてみても、善き友を持つ、善き仲間とともにあるという、
この道のすべてであることが解るではないか。」釈迦の側近のアーナンダが、釈迦に善き友を持つことの意味を尋ねた時の、釈迦の返答である。
釈迦は、ここからもうひとつの重要な人間関係のあり方に発展させていくのである。それは、一般世間の人々との関係であり、
それが仏教の本質である「慈」という、生きとし生けるものを慈しむ心へと繋がっていく。
「一木会」は、もともと昔の仕事の繋がりから生まれた、典型的な部族社会の集いであって、周りから見れば、唯の酒好きのジジイたちが集まって、
管を巻いているだけの会に見えなくもない。事実それも否定できない。釈迦も居なければ、サーリプッタもアーナンダも居ない。
卓越した人間性を備えた人物も、居るようには見えない。とても上にあるような、釈迦の周りに集った「僧伽」のような「善智識」の集いとはいえない。
メンバーの誰一人として、それに近づこうという意識も、持ち合わせていないようにみえる。
しかし、我執・我見のままに、言いたいことを言い合っている中で、少なくとも互いを認め合いながら、
かけがえのない癒しを感じ取っているようにも思えるのだ。