すき焼き(令和6年11月7日)
大手前大学のK先生は、尾鷲の農山漁業地区の空き家について、フィールドワークにより現状を調査するとともに、
リノベーションや移住者の住宅として利活用する方法を提案されています。
何年か前、住宅雑誌「住まいの設計」の特集で移住者の住宅の取材があった時、
取材先として梶賀の山小屋を紹介頂いたのがご縁で親しく酒を酌み交わすようになりました。
前回は庭にバーベキュー用のコンロを作ったのを機にお越し頂き、伊勢エビを焼いておもてなしたことがあります。
現在、学生たちを連れてのフィールドワークで、九鬼の古民家をリノベーションされていて、何回か見学のお誘いを受けたのですが、
タイミングが合わずにお伺いすることはできずにいました。
そこで今回は、シーサイド横の空き地の整備が進み、タープを張って食事ができる設備ができましたので、
土井見世のDさんと地域おこし協力隊のYさんと来て頂くことになりました。
二千坪ほどの土地を整地して、食事エリア、プライベートビーチ、ショートホールを造っていますが、
一人ではなかなか思うようにはかどらず、全部を整備し終わるまでにはまだしばらくかかりそうです。
当日12時に尾鷲の土井見世に迎えに行く約束で、午前中にコンロ作り終えようとしていましたが、
単管パイプのジョイント部品が不足していることがわかり、未完成のままになってしまいました。
しかし、ロケットストーブ式のコンロ本体はうまく稼働し、薪を数本くべるだけで煙突からはロケットの噴射音のような音がして十分な火力が確保できました。
松阪の「霜ふり本舗」で買ってきた極上の牛肉を熱したフライパンで焼き、すき焼きのたれをかけて食べる関西風のすき焼きから始めました。
すぐに火が通るので、コンロの周りにお皿を持って来て、焼けた肉を次々と食べてもらいました。
半分ほどの肉はこのスタイルで焼き、残りの肉は野菜と一緒にすき焼きのたれをかけて炊き込んでいきます。
あいにくの雨模様で予定していたシーカヤックやミニゴルフはできませんでしたが、
樹齢千年を超える飛鳥神社のクスノキの木陰に張ったタープのおかげで雨を気にせずにすき焼きを堪能することができました。
尾鷲行きのバスの時間は日に5便しかないため宴会は4時間ほど続き、暗くなるころに帰って行かれました。
依頼されていた梶賀地区の公衆トイレの工事が今年の初めに終わってからこの土地の整備を始めましたが、
奈良と梶賀で二地域居住を続ける大きなテーマになっています。
今月中には高校の同級生10人がゴルフ&グルメツアーでここに来ます。
ムカデ(令和6年6月6日)
先日、尾鷲シーサイドビューの隣の空き地で作業を始めるため手袋をはめた瞬間、右手薬指に激痛がはしりました。
手袋を床に叩きつけ、薬指をテープでグルグル巻きにして、カッターの刃をあぶり、指を切り、毒を吸い出します。
口の中も消毒するため、お茶を含んで吐き出します。
縛った部分の血を全部吸い出しても痛みは止まりませんが、次の処置をするためには、犯人の正体を確かめる必要があります。
手袋から出てきたのは、体長5cmほどのムカデでした。
ネットで調べるとまず冷やせと書いてあったので、シーサイドビューで保冷剤と薬をもらい処置しましたが、毒を吸い出したので、腫れてくることはありませんでした。
しかし、その痛みは尋常ではなく、カッターで指を切った時の痛みは一瞬ですが、激痛が1時間ほど続きました。
蜂に刺された経験はありますがムカデは初めてです。
エアコンの室外機に巣を作っていた蜂に腕と額の2か所を刺された時も同じように毒を吸いだして処置をしました。
自分ではできない額はキスシーンのような格好で家内に吸いだしてもらいました。
いろいろとトラブルはありますが、空地の開発は進んでいて、パター用のグリーンを整地して切った木をドラム缶で作ったロケット焼却炉で燃やしています。
シーカヤックは小屋の外に保管していましたが、発注していた新しい艇が届いて、中古艇と合わせて2艇を屋内に保管するため、小屋にあった2段ベッドを使うことにしました。
新艇はオーダーメイドのカーボン製で、トップはグレー、サイドラインはブルーに塗られたシックな艇です。
シーカヤックは風に流されると風上に方向をむけますが、舵のようなスケグがついているので、風の影響を受けることが少なく安定しています。
賀田湾は人が両手を広げた形の右手にあたるため、太平洋の荒波の影響が少なく穏やかです。
先日新しいシーカヤックをその静かな海に浮かべました。
水は青く澄んでいて赤や青の小さな魚が泳いでいます。
パドルで水を搔き、海の上を散歩している感じです。
今度ロッドホルダーを取付け釣りもしてみたいと思っています。
Tさん(令和6年5月7日)
Tさんと春日台カントリークラブのAクラスのコンペでご一緒するようになったのは、15年ほど前のことです。
その後、私が退会した後もゴルフの付き合いは続き、香芝ダイナミックゴルフ練習場主催のコンペでプレーしています。
Tさんのもう一つの趣味は料理。年に2回ほど家内と自宅に招待され、辛口の日本酒とワインにあうご自慢の料理でもてなして頂いています。
お返しの企画として、昨年梶賀の山小屋にご招待したのですが、奥さんが体調をくずされ、延期することになりました。先日その企画が1年ぶりに実現しました。
当日の朝9時に名阪国道を治田で降りたところにあるコンビニで待ち合わせ、初瀬街道を通り一志嬉野に向かいます。
この道は、当時都のあった飛鳥地方から伊勢神宮に至る道です。一志嬉野からは紀勢自動車道に乗り、宿泊先である尾鷲シーサイドビューに向かいます。
宿の駐車場で私の車に移ってもらい、梶賀に行きます。梶賀では地区の方たちと協力して改修したトイレを見学した後、長い階段を上って山小屋に着きました。
地区を紹介するビデオを見てくつろいでもらっている間に、庭に回ってバーベキューの準備です。
夜はホテルでの豪華な夕食が待っているため、軽めの昼食です。頂いたブリに塩をふりかけ、冷凍しておいた切り身をアルミホイルを敷いた鉄板の上にのせて焼きます。
付け合わせは、差し入れて頂いた子さばの「あぶり」と玉ねぎのサラダです。
バーベキュー終わってから駐車場に戻り、オンツツジが自生している曽根町の城山公園に向かいます。
今年は花が早かったようで咲いているのはわずかでした。次に向かったのは飛鳥神社です。
海辺のホテルのすぐ近くにあり、鎮守の森にあるクスノキは、巨樹巨木林調査で三重県第3位の巨木となっているそうです。
チェックインしてゆったりとお風呂に入った後はお楽しみの夕食です。
ゴルフ友達でもある大おかみのÅさんがいつものように鍋奉行を務めてくださり、天然のクエと伊勢エビを堪能しました。
翌朝はホテルのオーナーでもあるEさんの渡船に乗せてもらい、柱状節理が立ち並ぶ海岸線の見学です。
Tさんたちは船を磯に着ける操船技術にも感心していたようです。
下船してからホテルに戻り、隣接する空地の開発状況を見ていただいてから尾鷲に向かい、熊野古道センターを見学し、お土産の魚を買って帰りの途につきました。
途中伊賀で「義左衛門」の蔵元に寄り、Tさんは辛口の純米吟醸酒を2本仕入れられました。
次にお伺いするとき、旅の思い出を肴に味わいたいものです。
山桜(令和6年4月13日)
「願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月のころ」
西行の有名な和歌です。釈迦入滅の2月15日の満月のころに桜のもとで生涯を終えたいと祈願してこの歌を詠んだとされます。
尾鷲シーサイドビューに隣接する空き地にシーカヤックを置かせてもらえることがきっかけになり、その空き地の管理をまかされることになりました。
プライベートビーチや船を揚げるスロープもある、広さ2000坪の広大な土地です。
ゴルフ打ちっぱなしや使われなくなった観光船が陸揚げされている他は整備されていません。
最初に手を付けたのは、船を揚げるための機械の置いてあった小屋です。
シーカヤックはこの小屋の中に置いたのですが、床は抜け、台風で一部屋根がとばされたままで、しかも小屋全体が油にまみれてどうも使い勝手がよくありません。
そこで以前真珠の養殖業者使っていた小屋を利用することにしました。
この小屋も天井が抜け床は傷んでいますが、事務所として使っていた部屋は雨漏りもなく使えそうです。
流しや壊れた事務用のテーブルをかたずけ、そこに古い棚を積み上げて道具入れを作りました。
電動工具を使うため電源が必要ですが、電気はきていないので、ポータブル電源を使うことにしました。
1畳ほどのソーラーパネルで電動工具の電源はほぼ賄うことができます。
シーカヤックはこの小屋の屋外に保管することにし、小屋の修理は後回しにして荒れ地の整備に取り掛かっています。
海に面した石垣の上に山桜の大木があり、枝を海に広げています。
この桜を見て浮かんできたのが冒頭の和歌です。
ただその周りには大量のごみが埋まっています。
不法投棄されたテレビ4台と冷蔵庫1台はリサイクル券を買ってシルバーの人に頼んで処分しました。
その他雑木を何本も切りましたがまだ根の処分が残っています。
桜の咲くころに終えようと思っていましたが、花が終わってもまだゴミに埋もれたままです。
時間がかかってもそれらをかたずけてきれいなグリーンを造り、西行と同じような人生の終え方ができればと願っています
公衆トイレの改修(令和6年2月10日)
昨年末、梶賀町の区長さんから、駐車場にある公衆トイレの改修を依頼されました。
完成はハラソ祭りのある今年1月初め。施工は町民の有志が手伝うので、私がボランティアで設計と監督を行う条件です。
工事は約10日ほどかかるので、ほぼ毎週末梶賀へ通わなければなりません。
80万円ほどかかる改修に必要な便器などの資材は、楽天やコメリで調達しました。
公衆トイレは築40年ほどのRC構造。コンクリートの劣化はあまり見当たりませんが、開口部が多く、雨の吹き込みで化粧合板はぼろぼろになっています。
また3つある個室の和式便器の位置が極端に壁に接しており、使い勝手が悪く悪臭もひどいものです。
改修計画では2つある小便器を簡易水洗に取り替え、3つある個室は2つにして1つはユニバーサルデザインのトイレにすることにしました。
工事初日の外壁塗装には10人ほどの住民が参加されました。午前中に建物全体の高圧洗浄を終えると、区長さんから弁当の差し入れがありました。
午後から、用意した塗料や刷毛で塗装を始め、お天気も良かったので、一日で外壁と内壁、それに屋根の塗装が終わりました。
2日目は開口部に波板を取り付ける作業と天井板を張る作業です。作業が進むにつれ参加者の技量や性格が分かってきます。
コンクリートの穴あけや工具を使った作業は得意なのですが、指示した通りにしない方。
依頼していない余計な作業を勝手にする方。地味な掃除や片付けが得意な方。
自分は不器用なことを知っていて常にアシスタントとして動く方。毎回顔を出すものの消極的に手伝う方。
積極的に作業を引き受けるものの技量が伴っていない方。
これら住民の方と一緒になって述べ10日ほどかかって改修を終えました。
私一人で施工した方が早くてきれいにできることもありますが、ボランティアで参加してくれている方に文句も言えません。
住民が自らの手で改修することに意義があるので、私はアドバイザー役でいました。
そんな中で意外な驚きもありました。手は早いが手戻りの多いKさんが、トイレのマスコットのクジラの絵を丁寧にマスキングをして仕上げてくれました。
設計や施工で悔いの残るところもいろいろありますが、よそ者が地元で認められるきっかけになったイベントでもありました。
南海日日新聞(令和5年12月8日)
12月5日付の南海日日新聞に掲載された記事を転載します。
この工事に関わるようになって、地元の方からお寿司や干物、お刺身をたびたび頂くようになりました。
【地元住民で回収作業(梶賀漁港の公衆トイレ)】
尾鷲市梶賀町の住民が梶賀漁港の公衆トイレの回収に取り組んでいる。
来年1月8日のハラソ祭りにはトイレを一新して来訪者を迎える。
梶賀区によると、現在のトイレは約40年前に当時の梶賀漁港が整備した汲み取り式。
15年ほど前から老朽化が著しくなり今年8月、元所有者の三重外湾漁協が使用を中止した。
区は市や県に補修を要望したが、実現の見通しがたたないことから、「自分たちで直そう」と決めた。
改修は11月から始め、毎週土、日曜日に60~80代の10人ほどが集まる。
梶賀町と奈良県三郷町で2拠点生活をしている1級建築士の島崎良雄さん(72)が設計、作業内容を支持し、
全員で進めている。島崎さんを含め作業は全てボランティア。材料費の70万円は地区が負担する。
作業は高圧洗浄機でコンクリートの外壁に付いた汚れを落として新たに塗装。
仕切りや便器の配置、大便器を和式から様式にするなど全体をユニバーサルデザインとし、
新たに設ける多目的トイレは性的少数者(LGBTなど)に配慮した男女兼用、簡易水洗トイレに生まれ変わる。
榎本富男区長(70)は「長年の懸案をみんなの力で解消しようと決め、少しずつだが全員で楽しくやっている。難しい作業は大工さんがボランティアで来てくれるし、地区のみんなが完成を楽しみにしてくれている。工事は計画通りに進んでいる」と笑顔で話した。
作業の様子や取り組みは新設した地区のホームページ「梶賀ハラソ」で順次公表している。
地域デビュー(令和5年7月7日)
地域の秋祭りでは子供たちがだんじりに乗り、お囃子を奏でながら町内を回ります。
開発された住宅地のため、だんじりは古くから伝わるものではなく、住民たちの手で作ったものです。
興味があるわけではないのですが、以前から一つ気になっていたことがありました。
お囃子が一曲しかなく、しかも単調なのです。
太鼓は「トントコトンのトントン」、鐘は「カンカカカンのカンカン」。このリズムが延々と繰り返されます。
先日、町内のイベント協力サポーターの募集があり、お囃子に祇園ばやしを教えてあげようと参加を申し込みました。
第1回会合が自治会館であり、会長の趣旨説明のあと集まった10人ほどのサポーターが自己紹介することになりました。
私の番に来て、「この町内に住んで30年以上になるが、地域との繋がりはほとんどなく知っているのは散髪屋さんだけだ」と話し始めたところ、
顔見知りのおばさんが割って入ってきました。
「そんなことないでしょう。私とあなたの先祖は滋賀県の朽木村の出身で・・・」自己紹介にクレームをつけられたのは初めてのことです。
おばさんの話を遮って自己紹介を終えましたが、なかなか常識では理解しがたい方のようです。
私の次に自己紹介された80歳台のおじいさんはもっとすごい方でした。
自治会でこれまで経験した活動を15分ほどしゃべり続けます。
とんでもないサポーターの会に入ってしまったと後悔しています。
先日もう一つの地域デビューがありました。
梶賀で区長をされている方から頼まれ、梶賀町のホームページを作ることになりました。
そのたたき台ができたので役員や婦人部の方たちを交えての検討会がありました。
皆さんスマホに映し出される自分たちの町のアルバムやスライドショーに感心しておられました。
第2回の打合せはかじか荘の山小屋で行うことになり、ビールや松坂牛、焼きそばなどの食材をもって長い階段を上って来られました。
海や山の緑を眺めながらロケットストーブで調理したバーベキューを皆さん楽しんでおられました。
こちらでは家のリフォームを手伝ったり、ホームページを作成したりと地域に溶け込んで活動して「棟梁」と呼ばれています。
町の変な方たちとつき合うより、田舎の生活の方が合っているのかも知れません。
PS
フォロアーのご要望により文章を短くしました。
(梶賀町のホームページ)
ロケットストーブ(令和5年6月8日)
ロケットストーブは、少量の燃料で強い火力を生み出すことができる燃焼効率の高いストーブです。
まつぼっくりや枝などの身近な材料を使って高火力が得られることから、キャンプでの使用はもちろん、非常時の備えとしても役立ちます。
薪ストーブが長時間、穏やかな火がゆらゆらと燃え続ける構造であるのに対し、ロケットストーブはその名の通り、勢いよく激しい火が燃える構造のストーブです。
もう30年近く前のことになりますが、春日台カントリークラブのメンバーで「やきとり大吉」などにグリラーを納入している会社の社長さんから、
バーベキュー用のコンロを頂いたことがあります。
毎年、庭のチューリップが咲くころに、それを使ってバーベキューパーティーをしていました。
炭を使うタイプのコンロでしたが後始末が面倒なため、火力にはコールマンのガソリンストーブを使っていました。
梶賀の山小屋に錦鯉の泳ぐ池を見ながら食事ができる施設ができたので、
物置で眠っていたそのコンロを引っ張り出してきてロケットストーブに改良してよみがえらせることにしました。
ネットで耐火レンガを使ったロケットストーブの作り方を調べると、そのほとんどが地面に直接レンガを積み上げていくもので使い勝手が悪そうです。
そこで単管パイプを組んで、高さが90cmのところに調理台と鉄板がセットできるようにしました。
長さは2mで左半分がロケットストーブ、右半分が調理台です。
ロケットストーブの底になる部分にはコンクリートブロックを並べ、その空洞に単管パイプを2本通して固定します。
側面もコンクリートブロックで囲い、上下の凹部を単管パイプで挟み込んで空間を作り、耐火レンガを積み上げます。
上部はアングルを2本渡して耐火レンガと孔の開いた矩形のコンクリートブロックで覆い、その中にコンロ背面に取り付けた煙突を通しました。
最初に燃焼試験をしたときは、ストーブの上に置いた鉄板の下面の隙間から煙が出てうまくいかなかったので、その隙間を少し径の小さい単管パイプで覆いました。
するとストーブのまきは勢いよく燃えて、炎が煙突に吸い込まれるように流れ出しました。
鉄板は熱せられその上に落した水は一瞬にして踊る水滴となって蒸発するようになりました。
このストーブを使ったパーティーの最初の参加予定者は「一木会」の連中です。
尾鷲シーサイドビューに泊まり、クエ料理を堪能した翌日に計画していましたが、あいにくの土砂降りの雨のため、屋内でのパーティーになってしまいました。
次に招待したのは地域おこし協力隊関係者の方々です。
その日も雨模様で、尾鷲市内に迎えに行ったときはひどい雨でしたが、梶賀に着いてから暫くは雨もやみ、
降ってもタープで覆ったロケットストーブとテーブルに支障のない程度でした。
最初に作った料理はホタルイカのソテーです。
薪をくべて熱くした鉄板の上にアルミシートの鍋を載せ、ホタルイカと酒、マヨネーズを合わせると、火力が強いのですぐにいい香りがしてきます。
ビールのつまみは、畑で採ってきた新鮮なソラマメを茹でてマヨネーズをつけて食べるシンプルなものです。
メインディッシュは伊勢エビです。
半分に切って鉄板のアルミシートの上に並べお酒をかけて焼くだけで、一人一匹を堪能しました。
野趣あふれる料理とお酒を楽しみながら、緑に囲まれた海の見える高台での非日常の時間が流れていきます。
持って来て頂いた手土産のワインや日本酒が無くなるまで宴会は5時間ほど続き、
一日5本の尾鷲行きの最終バスが出る5時過ぎに、客人たちは長い階段を下りて帰って行かれました。
アソビュー(令和4年11月2日)
アソビュー!は、休日の便利でお得な遊びの予約サイトです。
北海道から沖縄まで、アウトドアスポーツやものづくり体験、遊園地や水族館、日帰り温泉など450種類の遊びを提供する7,000以上の施設を紹介しています。
このサイトに知り合いのシーカヤック教室が掲載され、しかも三重県の観光振興のための補助で料金が7割引になることを知り、
さっそく「海の熊野古道巡礼」と称するシーカヤックツアーを申し込みました。
10月初めの週末、ツアーの前日にライフジャケットと一緒にビニール袋に入れた小さな錦鯉を積んで梶賀に向かいました。
実は、沢の水を引き込んだ池にはアマゴを飼っていたのですが、鷺に食べられたり、水不足で池に水が流れなかったりしてほぼ全滅してしまいました。
そこで、清流の魚を飼うのは無理とあきらめ、錦鯉を育てることにしました。
できればモネの絵のように睡蓮の葉の下を錦鯉が泳ぐ姿を見たいと思い、ネットで購入した3種類の睡蓮の鉢も池に沈めました。
ただ、枯れかけの葉が数枚付いているだけの睡蓮と鉢の下に隠れてなかなか姿を現さない小さな錦鯉では絵になりません。
モネの絵のような池になるにはあと何年もかかりそうです。
翌朝、賀田駅近くの駐車場に車を止めて待っているとインクトラクターのHさんが来られました。
雨のかからないところで説明を聞き、車を近くの海の家まで移動させてHさんの車で出発地点の三木里に向かいます。
前回は普通の服装での体験でしたが、今回はマリンシューズやパーカー、それに合羽を着てのスタイルです。
三木里の砂浜から出発しましたが、あいにくの雨模様で風も強くなかなか思うように進みません。
舳先が風上に向かう傾向があるようで、カヤックを思う方向に向けるにはパドルを最後までかき切る必要があります。
私の場合どうもそれがうまくいかなくて、パドルが途中で止まってしまいます。
海岸では岩に波が打ち付けられ、激しく波しぶきが上がっています。
30分ほど操作しているとだいぶ慣れてきましたが、前日の寝不足と船酔いで気分が悪くなってきました。
あとどれぐらいで着くかと聞くと、まだ5分の1も来ていないとの返事で引き返したくなってきます。
できるだけ力を入れずにパドルを動かしていても腕がパンパンに張ってくるのがわかります。
何とか我慢しながら漕いでいると、白波の立つポイントを抜け賀田湾の入り江に入ってきました。
ここは波が穏やかでかるいパドルさばきで思う方向に進んでいきます。
目標のシーサイドビューホテルが遠くに見えますが、見えてからもなかなか近づいてきません。
以前船外機の付いたボートで操船の練習をした場所なので地理は分かっており、安心して進み2時間ほどかけてようやく車を止めた地点に着きました。
桟橋に手をかけて体を持ち上げて上がり、カヤックを引き上げます。
上陸すると急に雨が激しくなってきました。
筏の小屋の中に用意していただいた風呂にゆっくり浸かって体を温め、生き返った気持ちになりました。
隣の小屋では昼食の用意が整っています。
海の上にいるとき、食欲は全くなかったのですが、上陸すると安心したのか腹が減ってきました。
Hさんと二人で話をしながら肉や魚、貝やエビを焼いておいしくいただきました。
この筏小屋の持ち主は依然クルーザーを見学に来た時に案内していただいた方で私のことを覚えていました。
隣の飛鳥神社の見学までがこのツアーのメニューでしたが雨も激しく降っているので割愛し、Hさんを三木里まで送ってから梶賀に戻ってきました。
古希を過ぎてのシーカヤックでのロングツアーは、天候が悪かったこともありなかなか大変でしたが、自然を相手に非日常を体験できる貴重な体験になりました。
尾鷲シーサイドビュー(令和4年8月4日)
尾鷲シーサイドビューは、入り組んだ静かな賀田湾に佇む、わずか10室の小さな料理旅館です。
目の前は海。木々が海へと伸びる隣の森の中には、1000年以上続く飛鳥神社があります。
ここでは天然のクエや伊勢エビを堪能し、旬の魚を味わうことができます。
ここから車で5分ほどの梶賀町に中古住宅を購入し、DIYでリフォームを始めたのは4年前です。
庭に池を作ってアマゴを放し、野外パーティーができる設備を整えるなど、屋外のリフォームもほぼ終わったので、地域の活動に参加する機会が増えてきました。
甘夏狩り、オハイへのハイキングやシーカヤックなどを体験してきましたが、せっかく海のそばに拠点を持ったので、いつかは自分で操船して海に出たいと思っていました。
近所の漁師の奥さんに相談すると、尾鷲シーサイドビューで船を借りられるので、兄のTさんが一緒に乗って操船や海の地理などを教えて頂くことになりました。
先日の土曜日の朝5時に待ち合わせの梶賀の駐車場からTさんの軽トラックに乗り、尾鷲シーサイドビューに向かいました。
係留されていた船は船外機の付いたボートで、ハンドルの付いていない船は初めてなので不安になります。
エンジンのかけ方と前進、後退のギアーの入れ方の説明を受けましたが、教習所のような丁寧な教え方ではなく、OJTの指導のような説明です。
ギアーをニュートラルにしてスイッチを押すとエンジンが始動します。
ギアーをバックに入れてスロットルは回さずゆっくりと後ろに進みます。
十分桟橋から離れてからギアーを前進に入れ進み始めます。
係留されているロープ類などを避けながら桟橋を離れ、沖に向かいました。
車のハンドルのように切ると直ぐに方向が変わるのではなく、舵を操作してしばらくしてから方向が変わり始めます。
思っている方向に真っ直ぐ進むのが難しく、小刻みに舵を動かしながらスロットルを回しスピードを上げて行きます。
付近の地理は大体分かっていますが、海から眺める景色はだいぶ違います。
梶賀の赤い灯台を右に見て外洋の方へ進んで行きます。
柱状節理の迫る波の荒い磯の近くでニュートラルにして船を止めました。
錨は下ろさず潮に流されると少しだけ船を動かし、漂ったままで釣をします。
テリトリーが決まっていて、よその漁師は自分たち漁場以外の場所では錨を下ろせないそうです。
サバの切り身を餌にしてカサゴの類を何匹か釣るのを見ていましたが、湾の外は波が高く段々気分が悪くなってきたので、湾の中のポイントに移ることにしました。
梶賀の灯台が見えるポイントは波も穏やかですが、型の良い魚が釣れる場所ではないようで、数匹釣っただけで引き上げることにしました。
もっと船を走らせて危険なポイントや地形を教えてほしかったのですが、釣りをメインで考えていたTさんとは思いが違っていたようです。
船を桟橋に着けるのは舵の操作や前進、後退の操作を頻繁に行う必要があり、操縦を代わってもらって2時間余りのレッスンが終わりました。
ボートのレンタル料金は後で支払う予定でしたが、僅かな時間しか借りていないので、料金はいらないとオーナーのEさんから連絡があったそうです。
後日梶賀へ行った時お礼の手土産を持って伺ったのですが、出かけておられたためEさんが経営する尾鷲シーサイドビューに届けておきました。
翌日町内清掃の日にEさんと漁港でお会いすることができ、改めてお礼申し上げておきました。
Eさんは釣り船も持っておられ、NHKのBS番組「釣り人万歳」で演歌歌手の三山ひろしさんを案内してグレ釣りの兄貴をされていたのをテレビで拝見したことがあります。
この地区のキーマンと知り合うことができ、これからの海での活動が面白い展開になりそうです。
オハイ(令和4年7月22日)
初めてその名前を聞いた時、それが地名だとは知りませんでしたし、漢字も想像できませんでした。
オハイ(大配)は尾鷲市の漁村「九鬼町」にある絶景スポットです。
先日、尾鷲市の広報誌に市民を対象にオハイに行く企画が掲載されていましたので参加してきました。
九鬼のコミュニティーセンターに車を止め、廃校になった小学校に集まったのは10人ほどの中高年。
自己紹介の後、準備体操をしてからハイキングの開始です。
その日は梅雨の中休みでかなり暑かったため、アップダウンのきつい山越えのルートは取らず、行き帰りとも比較的高低差の少ない海沿いのルートです。
それでも片側は、足を踏み外せば崖から転落するような道幅の狭い危険なルートです。
歩き始めの町に近いところでは、石垣が組まれた畑の名残がありますが、敷地は高い木々に覆われています。
人の手が入らなければすぐに自然に還ってしまうようです。
案内役のKさんの話によると道はかなり傷んでいましたが、地域の方たちと協力して整備されたそうです。
途中小さな谷を跨ぐところにはKさんの名前の付いた「景子の橋」が架かっています。
脚を開いた方杖ラーメン橋で、専門家が見ても構造的にしっかりしていてバランスよく作られているとほめておきました。
家内と二人で熊野古道を歩くときはほとんど会話せず、一歩一歩を確かめながら歩くスタイルが身についていますが、この日は団体行動でいつものペースでは歩けません。
興味のない話題を一方的に話しかける高齢の男性に悩まされ、できるだけ離れて歩くようにしました。
片道1時間半ほどかけてオハイに着くと巨大な一枚岩の上を川が流れ、そのまま海に落ちていく雄大な景色が広がっています。
古座川の一枚岩と同じように熊野カルデラに伴って形成されたようです。
岩場からは青く美しい熊野灘を一望でき、陸地側へ海水が流れ込む場所では「オハイブルー」と呼ばれる光景を見下ろすことができます。
青の洞窟を想像させる青さで、NHKの番組でも紹介されたそうです。
奈良と尾鷲で2拠点居住を始めて今年で4年ほどになり、月一回のペースで梶賀に通っていますが、DIYでのリフォームに時間をとられ、地域での活動にはなかなか参加できませんでした。
中古住宅のリフォームもほぼ終わり、快適に住めるようになったので、できるだけいろいろなイベントに参加するように心がけています。
オハイの他にも熟した甘夏狩りに参加して、酸っぱい印象で苦手だった甘夏もおいしくいただけるようになりました。
その時のイベントに参加していたフランス人を旦那さんに持つ地域おこし協力隊の方と、シーカヤックのインストラクターHさん夫妻が先日梶賀の家を訪ねて来られました。
ブランコのフレーム状の単管パイプにタープを張り、テーブルをセットしての野外パーティー風のおもてなしは好評でした。
このフレームの梁の一方は池の上に突き出ていて、ロープを垂らせばぶら下がって池に飛び込めます。
突き出したもう一方にもブランコを取り付けるつもりで、いつか孫たちがここで遊ぶ姿を想像して作りました。
池には、和佐又山渓流釣り場で仕入れた10匹ほどのアマゴが元気に泳ぎまわり、沢の水を引いた流れの音も涼しげです。
前回のブログで紹介したように、Hさん夫妻は三木里の海岸近くにシーカヤック体験、ヨガ教室やイベント企画等の新しい活動拠点となる「ながらのおうち」をオープンされました。
一個所ではキャパも限られますのでこの「かじかのおうち」も同じように活用できないか提案しておきました。
ここでは野生の猿や鹿が見られ、アマゴ釣りもできます。
海と山の自然が体験できるハイブリッドな展開ができるように思います。
目撃!にっぽん(令和4年2月4日)
自分とは関係ないと思っていた知らない現場、知らない思い。そこで懸命に生きる人の姿を通じて、"遠い問題"が身近に感じられるようになり、"知らない人"を想う心が少し豊かになる。NHKの『目撃!にっぽん』は、そんな番組です。
先月放送された「19歳 風花の挑戦 ~コロナ世代の移住日記~」は、自宅待機がつづく毎日にうんざりし、親元を飛び出し海と山に囲まれた尾鷲に移住した大学生の風花さんが、オンライン授業を受けながら、町の人たちの中で成長していく1年間の物語です。
横浜生まれ 横浜育ちの風香さんは、おととし4月、町づくりや地域おこしを学びたいと慶応大学に入学しました。
しかし、新型コロナウィルスの影響で入学式は中止。キャンパスも閉鎖されてしまいます。家に閉じこもってオンライン授業を受けるだけの日々が半年近く続きました。
そんな中知り合った尾鷲の町づくり会社の代表が、授業を受けながら現場を体験したいという風香さんの願いを受け入れてくれました。
尾鷲に来て毎日のように手伝いに通ったのは、この会社がサポートしている農園です。
農園を経営する岡さんは、尾鷲にたくさんある耕作放棄地を借りて、ブルーベリーの他甘夏や大根などを育てています。ゆったりと流れる農園での時間。
でもこの場所が生まれた背景には町の厳しい事情がありました。かつて尾鷲には建設当時高さ日本一の煙突がある尾鷲三田火力発電所がありました。
高度経済成長期の急増する電力事情を支え、地元に雇用と経済効果をもたらしました。岡さんも発電所の機械を整備する会社で働いていました。
しかし、老朽化などで発電所は少しずつ規模を縮小。4年前に完全に操業を停止しました。
尾鷲の町は人口の流出が進み、3万人いた住民の数は最盛期のおよそ半分になり、岡さんの仲間たちも次々と町を去って行きました。
農園で町を活気づけたいという岡さん達の強い思いに触れた風香さんは、積極的に農園に関わるようになって行きます。
7月に観光農園はオープンしましたが、オープン直後からの長雨で開園期間を大幅に短くせざるを得ませんでした。
9月、風香さん達の会社では岡さんの農園の収入を増やすため、新しい策を練っていました。
尾鷲が一望できる場所にキャンプ場を作り観光農園とセットで売り出すことでお客さんを呼び込もうというのです。でもそこは荒れ放題の耕作放棄地。
整備してキャンプ場にするには人手もノウハウもお金も足りません。考え抜いた末、岡さん達にある提案をすることにしました。
地方自治体やNPOの間で注目されているプロボノを活用することです。
何かの活動を始めるのに支援を必要とする団体が目標や思いをインターネットで発信します。その思いに共感した人たちが社会貢献活動として知識やスキルを活かし無償で協力する仕組みです。
「私たちは草刈りをし、山から水を引き、土地を切り開いて行きます。私たちの仲間に加わりませんか」。募集サイトを通じた熱い思いに東京、名古屋、大阪からおよそ30人が集まりました。
故郷から遠く離れた町で自分にできることを探し続けた日々。たくさん悩んでたくさん笑って全力で駆け抜けた今たどり着いた風花さんの気持ちは、「自分にしかできないポジションでがむしゃらに生きて行こう」。
私がよく利用する熊野古道の湯で風花さんが風呂場を掃除するシーンや、建物の補修を手伝ったことのある「見世土井家住宅」でのオンライン授業のシーンがあり、とても身近に感じられました。
最も驚いたのはプロボノです。私が尾鷲でやっていることは形こそ違えプロボノそのものです。より一層この町とここで暮らす人々に親しみを感じた番組でした。
シーカヤック(令和3年10月20日)
「みきさといーぐみ(mikisato-e.com)」は、尾鷲市三木里町でシーカヤック体験・ヨガ教室・英語業務・イベント企画等を行っています。
その代表のHさんが、中古住宅をリフォームして農家民宿を始められることになり、相談に乗ったのがきっかけで、シーカヤックを体験することになりました。
今回の梶賀行きでは、シーカヤックの体験の他に渓流の水を引いて作った池にアマゴを放流することも予定していました。
国道169号の途中にある和佐又山渓流釣り場に連絡して生きたアマゴを分けてもらうつもりでしたが、禁漁期に入ったためか電話しても応答がありません。
仕方がないので熊野市内に養殖場を見つけ、そこで調達するつもりでいましたが、なにか手掛かりが得られるかもと知れないと思い、和佐又山渓流釣り場に寄ってみました。
事務所は閉まっていましたが、近くでやっていた電気工事の警備のおじさんに聞いてみると、その方はアマゴ釣りに詳しく、西山地区の漁協に連絡を取ってくれました。
国道から外れて西山地区の細い道を下って行くとアマゴの養殖場があり、連絡を取ろうとしていた和佐俣山渓流釣り場のSさんと出会いました。
私のことは覚えておられなかった様子でしたが、事情を話すと分けてもらえることになりました。
エアーポンプを持ってなかったので、透明のゴミ袋を2重にして水と20匹ほどのアマゴを入れ、酸素を入れて膨らんだ袋の口を縛ります。
梶賀に着いてからかごに入れたアマゴを担いで運び上げましたが、水が揺れて体が前後にゆすられ、階段を上るときバランスをとるのに苦労します。
2週間ぶりに見た池は満水状態で、排水桝から絶えずあふれた水が流れています。早速池に放すと元気に泳ぎ始めました。
用意していた鯉の餌は食べませんが、試しに与えたミミズには反応します。
ネットで調べると乾燥した小エビを食べるそうなので、後日準備して、近所の漁師の奥さんに不在中のアマゴの餌やりをお願いすることにしました。
移動のストレスと環境の急激な変化で弱ってしまった一匹は、酒の肴になりました。
シーカヤックを体験する日は快晴で10月にしては暑いくらいです。
約束した時間に駐車場で待っているとサングラスをかけたサーファールックのHさんが、パドルやライフジャケットの入ったカートを引いてやって来ました。
いつも見る姿とは別人のようなたくましい海の女です。
一通り説明を聞いて準備運動をしてから重さが20kgほどあるシーカヤックの前後を2人で持って波打ち際まで運びます。
そこでシーカヤックに乗って開口部をスカートで閉じてから両腕を使っていざるようにして海に入ると、まず水面までの距離の近さに驚かされます。
パドルのさばき方や前進、後退、ストップや方向転換の方法を教えてもらいますが、初めての経験にしては、違和感はありません。
腕で漕ぐのではなく上半身の回転で漕ぐのは、ヘッドアップするへたなゴルフのスイングと似ています。
喉が渇くので前のゴムベルトに固定したお茶の入ったペットボトルを取ると、飲み口が濡れていて少し塩味がします。
リフォームの件でお世話になっているということで講習料は受け取って頂けませんでしたので、いつもの手土産より少し豪華な天平庵のお菓子をお渡ししておきました。
海の近くで2地域居住を始めてから海に出るのは、伊勢エビ漁の船に乗せてもらって以来ですが、地上から眺めるのとはひと味違った景色が楽しめました。
海の上の自転車のようなシーカヤックも面白いのですが、次はクルーザーを操船してもう少し広い海を経験したいと思っています。
沢の水(令和3年9月4日)
「かじか荘」に続く100段以上もの長い階段。その両側にはかつて民家や畑が点在していましたが、限界集落となった今ではほとんどが空き地になっています。
防草のため、古い畳や絨毯さらには束ねた雑誌が置かれていますが、景観上は雑草で覆われている方がまだましのように思います。
先日、高齢化でメンテナンスできなくなった段々畑の石垣が崩壊するのを防ぐため、芝桜を植えた光景がテレビで映されていましたが、石垣と花のコントラストが美しい観光スポットになっているそうです。
農家と漁師の感覚の違いによるのでしょうか、この地では景観に関する美的感覚が少し欠けているように思われます。
人しか通れないこの階段は尾鷲の市道で、脇に水路が作られていて沢の水が流れています。
下水道が整備されていないため、風呂や台所の水はここを流れます。階段を上り下りしていると時々大きくて真っ赤な沢蟹と出くわすこともあります。
「かじか荘」に隣接する山側の土地は空き地ですが、ここで水路が90度に折れ曲がっているため、年に何度かの大雨の時には沢の水があふれ出し、階段が滝のようになります。
沢の水は日照りが続いても涸れることは無く、近くの漁師さんはその水を外の流しに引いて、魚を捌くのに使っておられます。
そこで同じように沢の水を「かじか荘」に引くことにしました。ただし、外の流しに導くのではなく庭に池を作るためです。
庭は防草のためのシートや絨毯で覆われていましたが、それらをすべて掘り起こしてきれいに耕し、獣避けのネットで囲っていました。
雪柳やジンジャー、オシロイバナを植えていましたが、鹿がネットを食い破って侵入し、芽が出ると直ぐに食べられてしまいました。
庭にはたくさん鹿の足跡があり、糞が落ちています。おまけにその糞を処理する美しい瑠璃色のルリセンチコガネまで住み着いていて、奈良公園と似た自然環境になっています。
唯一被害を免れて残っているのは、山椒とゆずです。柑橘類や刺激の強に植物は苦手なようです。
池は2面を石垣に囲まれた北側の隅に配置し、大きさは5m角ほどです。掘る範囲とレベルを決めるために周りに木杭を打ってから作業を始めます。
最初の10cmほどは土でしたが、次第に小石が混じるようになり、だんだんと大きな石も出てくるようになりました。
朝から強い日差しが当たるため、日よけのシートを張っての作業ですが、小さな鍬一つで手掘りは、なかなかはかどらない重労働です。延べで10日ほどかけて10t以上の土と石を掘り出しました。
掘り出した土は庭に撒き、地盤が5cmほど嵩高くなりましたが、大量の石は庭に撒くわけには行きませんので、庭の隅に幅1m、深さ30cmほどの溝を作ってその中に放り込みました。
枯山水ならぬ石川が庭の一角に出来上がりました。20kgほどの大きな石は縁石に使えますが、動かすことができない大きな岩は、掘り出すことを諦めそのまま池の縁にしました。
はてなの屋根(令和3年8月17日)
かじか荘の屋根が、この落語「はてなの茶碗」状態です。最初にこの住宅を購入した時の雨漏りは、桟瓦が真ん中で2つに割れていたのが原因で、すぐに対応できました。
その後も棟のあたりからの小さい雨漏りは収まらず、棟瓦と熨斗瓦を瓦用ボンドで部分的に接着したり、熨斗瓦の下の面戸を漆喰で補修しましたが治りませんでした。
原因が分からないので、屋根裏をタオルシーツで覆い、その下に器を置いて雨水を受けていましたが、どうやら棟瓦の継ぎ目と熨斗瓦の継ぎ目が近接しているところが雨漏りの原因のようでしたので、瓦用のボンドでシールしました。
棟からの雨漏りは治りましたが、先日久しぶりにかじか荘に行ってみると4畳半の和室の天井板が垂れ下がり、掛布団に大きなシミがついていました。
長い間空き家であった時からこの部屋での雨漏りはなかったのですが、屋根に上ってみても瓦の割れは見つかりません。
何度も屋根の上を歩いているうちに瓦がずれたのかもしれませんが、桟瓦が隣の瓦と重なる横の部分に防水テープを貼りまくりました。
「はてなの屋根」での雨漏りとの戦いはまだまだ続きそうです。
今回のかじか荘滞在は、庭に沢の水を引いてアマゴの泳ぐ池を作る作業がメインでしたが、ちょうど地区の清掃の日と重なりました。
最初にこの行事に参加したのは、一木会のメンバーが初めてかじか荘を訪れた4年前です。朝の5時半に漁港に集合して作業が始まりましたが、当時は婦人たちも大勢加わり地区の方総出でトンネルの中まで清掃していました。
高齢者が増えたためか、先日の参加者はかなり少なくなっていました。私は毎回、トンネルを抜けたカーブの壁高欄の蔦を刈る作業を受け持つようにしています。
2時間ほどの作業で汗びっしょりになって帰る途中、顔見知りの方々から感謝され、どうやら住民として認めてもらえているようです。
山肌に家々がしがみついているような地区では、ご近所付き合いは同じ階段を利用する住民に限られており、私がこの地区で親しくしているのは近くの漁師さん夫妻だけです。
現役での漁は引退されていますが、最近ご主人が高速の漁船を手に入れられたそうです。近々その船に乗せて頂けそうですので、湾内のことを教えてもらい、そろそろ行動範囲を海に広げたいと思っています。
ハーレーダビッドソン(令和3年4月7日)
高校の同級生A君とは一度も同じクラスになったことは無く、共通の友達を介した麻雀でしか接点はありません。
卒業後も40年間会う機会が無かったのですが、彼が幹事をしている高校の同窓会ゴルフに参加するようになって、また遊びの付き合いが始まりました。
彼はゴルフ以外にも茶道やバイクでのツーリングなど、奥の深い趣味を極めています。
先日彼から連絡があり、「かじか荘」を訪ねて来てくれることになりました。
前日、大学の同窓会ゴルフが泉南であり、東急ハーベスト南紀田辺で一泊して和歌山でゴルフをする予定になっていましたが、ゴルフはキャンセルして尾鷲に向かうことにしました。
熊野本宮大社に向かう熊古道中辺路と伊勢神宮に向かう伊勢路に沿ったルートを100kmほど走ります。
2ヶ月ぶりの「かじか荘」は庭の水仙が終わり、裏山の山桜が満開です。
天気が良いので布団を干し、家中を掃除して酔っぱらってもすぐに寝られるようにしてから待ち合わせ場所へ向かいました。
鮮魚、土産物販売と食堂を兼ねる「おとと」の駐車場に着くと、渋いオレンジ色のハーレーダビッドソンが止まっていて、ライダー姿のA君が待っていました。
「おとと」で新鮮なマグロやシラス、カツオの寿司を買い求め、その他揚げ物などの惣菜は隣のスーパーで調達しました。
買い物を終え、マクドナルドでコーヒーを飲んで待っていると、A君のツーリング仲間のHさんがヤマハの大型バイクに乗って到着しました。
途中寄った「夢古道の湯」ではA君がバイクをバックで駐車させる時にバランスを崩して倒してしまい、起こすのを手伝いましたがかなりの重量です。
所定の位置に止めてから勧められて初めてハーレーにまたがった瞬間、右足に痛みを感じました。
ラジエターに直接足が触れたようで、ゴルフボール大ほどのやけどは今も治療中です。
温泉に浸かった後、ぶりやさば子などを燻製にした「梶賀のあぶり」をお土産に薦めて「かじか荘」に向かいました。
梶賀の駐車場に着くとすでに暗くなっていて、冬の大三角が真上に輝いています。
静かな漁村に聞きなれない大型バイクの低いエンジン音が響き、地元の方もいぶかし気に思われたことでしょう。
A君が持ってきたプレミアの日本酒「黒龍仁左衛門」と尾鷲の寿司で宴会は12時近くまで続きました。
元気で動けるあと10年どうやって過ごすかが主な話題です。
「かじか荘」での私の次のテーマはアマゴの養殖です。沢の水を裏庭に引き、川と池を作りアマゴを育てる計画をしています。
ウッドデッキを貼ってテントサウナも作る予定です。サウナで汗を流した後アマゴの泳ぐ池に飛び込めるようにします。
一昨年1級船舶免許の資格を取ったので、中古のクルーザーを手に入れ、釣りやサンセットクルーズをしてみたいとも思っています。
ここでは街中ではできない自然を相手にした非日常が味わえます。
今は会長として一線を退いているA君にとって私の2地域居住は手本にはなりませんが、見本にはなったかも知れません。
我々より一回り若いHさんは、これまで健康寿命を意識することは無かったようです。
翌朝は港で釣りをする予定で、釣り道具に椅子、飲み物につまみまで用意していましたが、コロナの影響で釣り場が閉鎖されていました。
釣りは諦め、港の周りを案内して駐車場で別れました。
来た時と同じように重低音のエンジン音を響かせ、静かな漁村には不釣り合いなハーレーが去っていきました。
鹿(令和2年6月18日)
「奈良のシカが町中に出没している?」「鹿せんべいをもらえなくなったから?」この春、そんなうわさがSNSで飛び交ったそうです。
新型コロナウイルスの影響で観光客が激減したことによる異変なのか。
そう云えば、奈良公園の近くを通ってゴルフ場へ行く途中でも民家のパンジーを食べている鹿や対向車線を走って来る鹿に出会うことがあり、SNSの噂を信じていました。
しかし、鹿愛護会によると、これは毎年発情期に起きる現象だそうです。
シカの主食は草木や木の実で鹿せんべいはあくまで「おやつ」。「観光客が減ったことで、いろいろなうわさが出ているが、特に関係はないと考えている」とのことです。
奈良では神の使いである鹿も三重では害獣です。
先月、外壁のペンキ塗りのため「かじか荘」へ行った時、裏山の空き地から大きな音が聞こえてきました。
近づいてみると雌鹿が一頭、仕掛けられた檻の中に閉じ込められて暴れていました。
どうやら私が第一発見者のようで、近所の漁師の奥さんを通して尾鷲市の方へ連絡してもらいました。
それからしばらくして家の前の階段を何かを引きずる音が聞こえて来ました。
外に出て見ると、大きな箱を二人で引きずり下ろしている所で、中には鹿が横たわっています。
一人はロープを引き、その後ろに槍を持ったおじさんが続きます。
槍の穂先にはべっとりと血が付いています。檻の外から槍を入れて喉をひと突きにしたようで、傷はそこだけにしかなく見事な腕前です。
聞くところによると、この仕掛けの檻には何度か猪や鹿が掛かり、その都度同じように仕留めたそうです。
槍で殺された鹿を見るのは初めてで、戦で同じ様に人が殺されていた戦国時代にタイムスリップしたような光景です。
「かじか荘」の周りでは昼間でも鹿や猿を見かけることは珍しくありません。
特に鹿は夜活発に動き回り、裏庭に足跡があったり、糞が落ちていることがあります。
奈良から持っていった柿の木やタラノ木は、食べられて枯れてしまいました。
そのため庭を囲むようにナイロンのネットを張ったのですが、ネットを食い破って入ってきます。
庭に植えたジンジャーは春になって芽が出てきたのですが、掘り起こして食べられていました。
食い破られたネットはその都度直していましたが、埒が明きません。
ホームセンターで鉄線入りのネットを見つけ、よく破られる個所に張ることにしました。
その日の夜11時ごろ突然「ぴい」という大きな鹿の鳴き声がすぐ横で聞こえ、目を覚ましました。
家の前から入った鹿が寝ている部屋の横を通り抜け、裏庭の方へ行ったようです。
翌朝ネットを調べてみると、鹿の通り道のコーナーに設置した鉄線入りのネットが食い破られていました。
そこから抜け出して山へ戻って行ったようです。
いなくなった雌鹿を探しに来た雄鹿が、その行方を尋ねるために「ぴい」と鳴いたのかも知れません。
ほんじつのさかな(令和2年2月20日)
この建物を、熊野古道伊勢路を訪れる人のための資料館として改修するため、建築の専門的なアドバイスを求められたのは昨年の暮れでした。
現地で建物を見ると、北面は柱1本で仕切られた4間の開口部で、板戸がはめられていますが、はらんで湾曲しています。
梁がたわんで板戸を上から押し付けているようでもないので、外して調べたところ、中間の柱が傾いて梁が下がっていることが分かりました。
開口部が広すぎて地震の揺れに耐えられず、建物が傾いたようです。
これ以上の傾きを防止するため、筋交いを設けて開口部を耐力壁にする方法を説明し、また傾きを直す方法としてはレバーブロックで柱の頂部を引っ張る方法もあると伝えました。
改修を担当されている木工が専門のGさんは、地域おこし協力隊のメンバーで、以前かじか荘が「住まいの設計」に紹介されたときにお世話頂いた方です。
Gさんはホームセンターでレバーブロックを買ってきて、柱の頂部と地面に置いたアンカーをロープで結び、傾いた柱を真っ直ぐに起こしました。
レーザー墨出し器を使うなどプロ並みの作業です。その後開口部に耐力壁を設け床板を張り、傷ついた文化財を耐震建築として見事に甦らせました。
それからしばらくして、地域おこし協力隊の活動がNHKのニュースで取り上げられ、尾鷲で知り合った方たちがテレビに映っていました。
その中で尾鷲市港町にオープンした料理店「ほんじつのさかな」が紹介されていました。
料理店を運営するのは、大阪府北区で創作和食店と特区民泊を経営するHさん夫妻です。
奥さんの実家が尾鷲市という縁で、市内で水揚げされる魚を大阪の店で提供できないかと考えましたが、コストの面などで断念され、市内で店を経営することにされたそうです。
店は築80年以上経過した木造2階建ての古民家で、空き家バンクなどに取り組むNPO法人おわせ暮らしサポートセンターが、飲食店営業許可を取得し、水回りなどを整備していました。
お2人で市内の古民家を20軒ほど回った上で決め「たたずまいがまちにマッチしているところにひかれた」とのことです。
同法人と賃貸契約を結び、昨年4月から庭の草刈りや壁を塗るなどして整備を進めて来られました。
「まちのPRや東紀州地域の活性化に寄与できたら」と話しておられました。
そのニュースを見て早速Gさんに連絡を取って予約してもらい、以前かじか荘リノベイションのインタビューを受けたHさんと3人で行ってきました。
建物は尾鷲檜をふんだんに使った作りで、和室の天井も高く開放感がありますが、DIYで養生せずに塗られた壁の漆喰が少し気になります。
料理の腕は一流でも、DIYはそうでもなさそうです。
メニューは並、上、特上の刺身定食があり、注文した特上はマトウダイやマンボウなど10種類ほどの刺身のほか、伊勢エビのみそ汁、小鉢などがついて2,500円です。
土日祝日の昼間だけの営業ですが、三重県産の日本酒などアルコール類もあります。
ただ、その日は運転して奈良に帰らなければならないので、好きな日本酒は飲めません。
これだけの料理を前にしながら水しか飲めないのはつらい経験でした。
しかし、後日サポートセンターでGさん手料理のぶり大根とお刺身をいただく機会があり、持参した「福寿」と「越乃寒梅」でつらかった思いを晴らすことができました。
水害(令和元年12月4日)
大峰奥駈道の釈迦ヶ岳に登り、奈良へ帰るM君、I君と前鬼口で別れ、けがをして腫れあがった足を引きずりながらかじか荘に戻って来たのはその1週間後のことです。
電灯を点け部屋を点検すると、6畳和室の真ん中に置いてあるこたつのテーブルに水が溜まっていて、畳も濡れていました。
最もひどかった雨漏りは脱衣場で起きていました。合板を張り、きれいに壁紙を貼った壁が波打ったようになっています。
風呂場の電灯にもローゼットの配線を通してと雨水が入り、カバーに水が溜まっていました。
着いてしばらくすると前の家のOさんが訪ねて来られ、当時の様子を話してくれました。
翌日から一人で災害復旧です。畳を上げ床板をめくると床下に張った防水シートの上に水が溜まっていたり、乾いた土がうっすらとシートを覆っていたりしています。
夏の豪雨による床下浸水の後、西側の縁の下の開口部をガラス板で塞いでおいたため、浸水した水の量はたいしたことはありませんでしたが、塞いでいなかった1箇所の開口部から浸水したようです。
ここを塞げばもう床下から浸水することは無くなりますし、防湿シートと床下換気扇で湿気も抑えられます。
この家のリノベーションを始めてからこれまでに何度も床下に潜ったり屋根に上ったりしてきましたが、これで床下浸水と雨漏りの恐れから解放されると思います。
大水害で住んでいる家が流されたり、床上浸水の被害に遭った人たちとは比べ物にはなりませんが、復旧に苦労する被害者の気持ちが分かるような気がします。
床下浸水(令和元年9月16日)
かじか荘西側の土地は1.5mほど高くなっており、石垣と犬走りの間に小さな水路があります。
水路は1mほどの高さのブロック塀で仕切られており、普段、水は流れていないのですが、雨が降った後などには水の流れができます。
犬走りに溜まった雨水は、ブロック塀の下に開いた孔を通して水路に流れます。
問題は台風などの大雨の時です。
確認したわけではないのですが、水路の水が犬走りの方へ逆流しているようです。
水路の反対側には家のコンクリート基礎があり、所どころに換気用の開口部があります。
水路の水が逆流して犬走りを流れる水の高さが10cmを超えると開口部から床下へ水が流れ込むようです。
最初に畳を上げて床下を見たときは床下の土は湿っていましたが、床板や根太にカビはありませんでした。
流れ込んだ水は床の土に浸み込み東側の擁壁の水抜きから外へ流れ出ていたようです。
1年ほど前、そんなこととは知らずに床下一面に防湿シートを張りました。
これで床下の防湿対策は完了したと思っていたのですが、最近どうも部屋がカビ臭く感じられるようになってきました。
先日畳を上げ、床板を外すと床板の下面と根太がカビで真っ白になっていて、防湿シートの上には水が溜まっていました。
カビをブラシで取り除き、防湿シートをはがし元の状態に戻しました。
後日、本格的な対策をするために再び畳を上げ、床板を外しましたがカビは付いていませんでした。
やはり大量発生したカビの原因は、防湿シートの上に流れ込んだ雨水だったようです。
水路の逆流のメカニズムがはっきりしないため、水の流れをどうコントロールしてよいか判断がつきませんが、
開口部から流れ込む水は防がなければなりません。
その対策として水路に面している基礎コンクリートの開口部を塞ぐことにしました。
材料として利用したのは、ブラウン管のテレビ台に使われていた観音開きのガラスです。
ちょうどよい大きさだったので隅に粘着テープを貼り、基礎コンクリートに貼り付け、周りにシール材を注入して密閉しました。
原因がわかれば剥がす必要がなかった防湿シートですが、新しく張り直しました。
ただ、万一開口部から水が入ってくることを考え、開口部から少し離して水が入ってきても防湿シートの下に流れ込むようにしました。
床板はカビで汚れた個所もありましたが、両面をバーナーで焼き、焼き杉のように見た目をきれいにしました。
これで床下の防湿対策は完了しましたが、床下以外にもリノベーションを終わったと思っていたトイレにも不具合がありました。
簡易水洗のりっぱなトイレを取り付け、床にシートを張り、腰壁にはボードを張り、壁と天井は漆喰で仕上げたのですが、臭いが気になります。
どうやら床の気密性に問題があり、少しずつ臭いがしみ出してきていたようです。
壁の隙間の空気を喚起する小さな換気扇をつけてようやく解決しました。
手直し続きのリフォームですが、水対策が終わったので、後は外壁のペンキを塗り直して一段落です。
見世土井家住宅(令和元年9月3日)
今年の春O大学のK先生とここを訪ね、11代目当主のDさんに延べ床面積623平方メートルの木造2階建ての建物を案内していただきました。
このおおきな家は今、後代へ継承していくため、シェアスペースとしての活用が始められています。
K先生は「漁村の地域特性に応じた移住・定住推進の持続性を担保する中間支援組織の構築」を研究テーマとして実践されている方で、
その関係で尾鷲と関わり合いを持たれたそうです。
移住者や2地域居住者のインタビュー記事を載せた冊子を作るため取材を受けたのが最初の出会いです。
年齢も近く専門も建築関係でしかも無類の日本酒好きという共通点があり、この日の企画になり、
夜は九鬼のトンガ坂文庫という古本屋での飲み会に参加しました。
くねくねした細い路地を進んでいった先に小さな民家を改装したその本屋さんがありました。
地元の海女さんや酒屋さん、移住して飲食店を経営している若い女性など、年齢も職業もバラバラな10名ほどのメンバーが集まり、
街では経験できない飲み会でした。
その後、住宅雑誌に掲載されたのと同じころに小冊子ができました。私が紹介されているページを掲載します。
空き家リノベーション(平成31年4月4日)
先日、最初にインタビューを受けたリノベーション冊子が送られてきました。
かじか荘の掲載されているページをご紹介します。
住まいの設計「その2」(平成31年3月16日)
3月15日の発売日、阪急高槻駅近くの書店にはなかったので、JR高槻駅前のジュンク堂書店まで行きました。
住宅関連雑誌が並ぶ棚を探しましたがありません。検索コーナーで書籍名を打ち込んで検索すると、バックナンバーしか表示されません。
まだ届いていないのかとあきらめかけて近くにいた店員に聞くと、届いたばかりの山積みの新刊の中から一冊取り出してくれました。
ページを繰ると「地方移住」のコーナーに、白髪交じりの私の写真がありました。
校正のためのゲラを送って頂いていたので、内容は知っていましたが、おじさん達の隠れ家的なぼろ家が、
プロの手にかかればこれほど魅力的に紹介されるのかと驚いています。
全国版の雑誌に掲載されるのは、おそらく最初で最後の経験になると思いましたので、
親戚、友人、それに年賀状を交換している方全てに前もって連絡しておきました。
記事の全文をご覧ください。
住まいの設計(平成31年2月6日)
「長寿社会となった人生の後半をどう生きるのか、オトナにとっては考えどころ。
『地方移住』することで生き生きと過ごしている人や、地方に自宅以外のセカンドスペースを持つ人たちにフォーカスしました。
あなたはこの先どうしますか?」
NPO法人「おわせ暮らしサポートセンター」を通してそのコーナーに掲載するための取材依頼があり、梶賀の家でインタビューを受けることになりました。
煩悩の数ほどの階段をあえぎながら上ってこられた編集長のM女史、フォトグラファー、ライターたちの一行をお迎えし、
真っ先にご案内したのは海を背景に家全体が見渡せる場所です。
事前に雑誌に掲載された高級住宅や魅力的な内装の写真を拝見し、ペンキのはげた家のみすぼらしさを何とかしなければと思い、
急遽正面玄関の部分だけはペンキを塗りなおしておきました。
ただ、「赤毛のアン」の家の様にグリーンに塗るつもりの破風を茜色に塗ってしまったため、屋根の部分だけ見るとまるで神社です。
他にもダイジェスト版の一問一答や梶賀に関するブログをプリントアウトしたファイル、ビフォアフターの写真も準備しておきました。
もうすぐ定年になるといわれていたM女史は、長く出版の世界でキャリアを積まれてきた方のようで、独特のオーラを持っておられます。
住宅雑誌の主役は新築住宅ですが、地方移住のコーナーを担当して、住宅に映し出される人の生き方を見る方が面白いとおっしゃっていたのが印象的でした。
さすがベテランの編集者であるM女史は、インタビューの内容からテーマを見出し、それを軸にストーリーを組み立てて行かれます。
おじさん達の井戸端会議「一木会」の話や玄関に掲げられた「かじか倶楽部」の看板から、「おとこの隠れ家」が今回のテーマになったようです。
そのテーマに沿った写真を撮るように指示し、カメラマンの方がバシバシ撮影されていきます。
例えば「かじか倶楽部」の看板の前でI君を出迎えるポーズ、Mさんが作った精巧なロールスロイスのモデルのボンネットを開けて説明しているシーン、
座敷で囲碁の対局をしている写真、私が作った伎芸天の古楽面の写真などです。
それ以外に一つだけ私がお願いして撮って頂いたシーンがあります。背負子を担いで階段を上る姿です。
2年前、「おれは何でこんなことをしているのだろうと」思いながら購入した便器を担いで階段を登って来たのが、かじか荘の始まりです。
それ以来どれだけの荷物をこの背負子で担ぎ上げたかわかりませんが、その姿を記録に残しておきたかったからです。
後日、M女史から頂いた取材の礼状に、インタビューを通してこれまで真面目に生きてこられた方だという印象を受けたことや、
ここまで行き届いた準備をされる方にお目にかかるのは稀だということが書かれていました。
真面目に生きて来たかはさておいて、人生の修羅場を経験しながらも無事にリタイアーし、気心の知れた仲間たちと楽しく遊んでいることは事実です。
これまで土木の専門誌や業界紙に掲載されたことはありますが、私の地方での暮らし方が全国版の雑誌に取り上げられるのは初めてです。
3月15日発売の『住まいの設計』4月号にどんな写真や記事が掲載されるのかが楽しみです。
屋根の上の魚釣り(平成30年12月4日)
家の中のリフォームが一段落したので、庭の整備を皮きりに外回りに手を付け始めていますが、息抜きも必要です。
自宅に帰る日の朝は、目の前の漁港で釣をして新鮮な魚を持って帰るようにしています。
梶賀漁港での釣りは、エビ網が設置されるため厳しく制限されていて、一文字の堤防での釣りは禁止されています。
また、漁協の方が一人500円の協力金を徴収に来られるため、釣り客からは敬遠されています。
そんな中でもう10年以上この岸壁に通っている方がおられます。
病院通いの合間を見つけて、奈良県の宇陀市から車で片道3時間かけて来られる老夫婦です。
菅笠をかぶった旦那さんが竿を投げ、横に座った奥さんが籠に餌を入れる息の合ったスタイルで釣を楽しんでおられます。
あと何年続けられるかわかりませんが、ここへ来るのが一番の楽しみだとおっしゃっていました。
先日の土曜日の朝6時過ぎに、あたりが明るくなるのを待って漁港へ向かいました。
50m程の長い岸壁に釣り客は私一人で、磯釣りの客を運ぶ船が前の海を横切って行きます。
その日は漁協が休みで、顔見知りの3人の漁師に囲まれ、釣りの手ほどきを受けて落ち着いて釣りをすることができませんでした。
次に岸壁に行った月曜日は、前回免除してもらった協力金の徴収はありましたが、のんびりと釣りをすることができました。
餌はスーパーで買った冷凍のイカ、エビ、アサリのミックスで料理用です。
はさみで適当な大きさに切って針につけ、20mほど飛ばします。
小さなアジとイワシ、それに10cm程のタイに似た小魚がいっぱい釣れましたが、ほとんどリリースしました。
散歩に来ていたおじさんに話しかけられ、かじか荘の住人であることを話すと、時々灯がついているのを見ているとのことでした。
梶賀で育ち、バスの運転手を定年退職して漁師になられましたが、今はリタイアーして網の繕いなどの手伝いをしているのとのことです。
今年の台風の被害についての話題で、雨漏りがしたことを話されたので、屋根を見てあげることにしました。
長い階段を上って廃校になった小学校のすぐ前の家で、漁港を挟んで西側にかじか荘が同じ高さに見えます。
瓦の割れはありませんでしたが、列の間にかなりの隙間が空いていてそこから横殴りの雨が入ったようです。
かじか荘の瓦を直すために大量に購入しておいた瓦用のボンドを3本ほど使って隙間を埋めました。
お礼にサザエと冷凍のハゲやブダイ、それにカマスやアジの干物をたくさん頂きました。
岸壁で釣るよりも屋根の上の方がよく釣れるようです。
伊勢エビ(平成30年10月18日)
台風が立て続けに関西に近づいたため、なかなか梶賀へ行けませんでしたが、先日1ヶ月ぶりに行くと、
近所の漁師のKさんからこの「刺し網漁」に誘われました。
朝4時半に家を出てKさんの小型漁船に乗り、対岸の三木浦の方角を目指します。
満天の星空の天頂にオリオンが位置し、その三つ星の延長線上にはひときわ明るくシリウスが輝いています。
15分ほど走って目印のブイの明かりが点滅する岸辺の近くに着き、前日仕掛けておいた網を引き揚げます。
網の先端に付いたブイを外し、滑車が回転している巻き上げ機の上に網を載せると、摩擦力で網が引っ張り上げられ籠に収められて行きます。
網には2~3mおきぐらいに、大きなものは30cmを越える伊勢エビや魚が掛かっています。
30mほどの長さの網を3本引き揚げ、捕れた伊勢エビは30匹ほどで、1時間もかからずに漁は終わりました。
漁港に着くと奥さんが待っておられ、網の入った籠を引き揚げ、網から伊勢エビを外す作業に取り掛かります。
太い竿に網の先端を架け、浮きの付いている上部とおもりの付いている下部を、洗濯物を干すように振り分けていきます。
そして、手鉤を使って文字通り網に刺さった伊勢エビを外して行きますが、小さい伊勢エビは簡単に外せても、大きいのは素人には無理です。
傷つけると商品価値が下がるので、大きい伊勢エビはKさんにおまかせしました。
獲物を外し終えた網は、今度は海藻などのゴミを取り除きながら反対側に寄せて行き、干した後で破れた個所を縫い、次の漁に備えるそうです。
伊勢エビ以外の獲物は、ニザダイが3匹、タカノハダイが一匹、バフンウニが2個、それに小さなカニと貝です。
クーラーボックスに放り込んだこれらの獲物を全部頂き、奥さんが後で届けてくださった野菜と一緒に夕食の鍋の食材にしました。
タカノハダイは、鱗の模様が鷹の斑のように見えるため漢字では『鷹羽鯛』と表記されており、鯛に近いシルエットを持っていますが、
鯛ではなくスズキの仲間だそうです。独特の臭みがあり漁師さんも捨ててしまうとのことでしたので、この魚は食べませんでした。
ニザダイは、漢字で書くと『仁座鯛』。
「にざ」は、新しく大人の仲間入りができた若者のことで、ニザダイとは、「青二才の鯛」もしくは「鯛仲間の端くれ」の意味だそうです。
別名はサンノジ(三の字)と呼ばれ、尾ヒレの前に楕円形の黒っぽい斑点が並び、大きくて目立つ斑点を漢字の「三」に見立ててこのように呼ばれています。
血抜きと内臓処理を行い、ぶつ切りにして鍋のメインの食材にしました。
バフンウニは殻をはさみで割り、生殖巣を取り出して塩水で洗っていただきました。
Kさんは捨ててしまうと言っておられましたが、今回の獲物の中では一番おいしい食材でした。
かじか荘の台所にはまともな調味料がないため、醤油と酒とカレールーで出汁を作り、魚や貝やカニを放り込んでカレー鍋にしました。
ちょっと味は薄かったのですが、魚が新鮮なのでそれなりに美味しくいただけました。
ご近所づきあいに慣れてくると、この地ならではの新しい経験をさせて頂く機会が増えてきました。
これからも海と縁のある新しい暮らし方を見つけていきたいと思っています。
台風20号(平成30年8月30日)
梶賀に着くと少し風は強めで雨も降っていましたが、まだ台風から遠く離れておりそれほどではありません。
契約している漁協の駐車場に車を止めようとしたところ、ネームプレートが吊るされている私の駐車スペースに車が止まっています。
誰かが一日単位の駐車スペースと間違えて駐車したものと思い、迷惑駐車お断りの張り紙をフロントガラスにガムテープで張り、
2台離れた一般の駐車スペースに止めました。
かじか荘へ向かう途中、近所のKさんにから聞いた話では、台風で車が飛ばされないように車をまとめて止めておくそうで、
そのため空いていた私の駐車スペースに町の方が止められたようです。
それを聞いて張り紙をはがしに行こうと思いましたが、風雨の中もう一度長い階段を上り下りするのも大変なので、
台風が過ぎてから剥がしに行こうと思いそのままにしておきました。
東が海、西が山の地形のため、東風がまともに噴き上げ、日が暮れてから風はうなりを上げて強くなり、
今まで経験したことのないような暴風雨が一晩中続きました。
翌朝、雨もやみ風も収まったので駐車場に向かおうとすると、少し下った階段に樋が落ちています。
てっきりかじか荘の樋が飛ばされたものと思って処分するために運び上げましたが、平屋の切妻作りの両側の樋は健在です。
近所の家の屋根を見てみると、東側下の家の2階の軒先には樋受けだけが残されていました。
駐車場へ降りていくと騒然としています。
前の家のOさんの話では何台かの車のガラスが割れたとのことで、Oさんの車の後ろの座席の窓ガラスも割れていました。
私の車の所へ行くと隣に止めていた方がおられ、その方の車の後部座席の窓ガラスにもひびが入っていました。
私が契約している駐車スペースに止まっていた車は移動してありませんでしたが、その方の話によるとやはりガラスが割れていたそうです。
3台並んで止めていた中で無傷だったのは私の車だけです。
もし自分の駐車スペースに止めていたらただでは済まなかったと思います。
ただ、被害に合われた方の気持ちを思うと素直には幸運を喜べませんでした。
その日買い物に出かけるため、もう一度駐車場へ降りてきた時、おばさんから声をかけられました。
台風がすごかったことなどを話していると、田舎暮らしの良い面しか見ない移住者に対する批判的な言葉が返ってきました。
そして、駐車場での車の被害のことに話が及び、その方の車も被害に遭われたことを知りました。
もしかしたら私の駐車スペースに車を止めて置かれたのはこの方かも知れないような感じがして、それ以上の会話をやめて別れました。
今回の台風の被害は、納屋のドアのガラスが割れただけでしたが、
暴風圏から離れていても最大瞬間風速38mを記録するこの地域の台風は半端ではありませんでした。
【かじか荘のビフォーアフターのアルバムを左のサブフォルダー「かじか荘」にアップしました。】
人生の楽園(平成30年8月17日)
愛知県豊田市で生まれ育った杉浦さん。自動車部品メーカーに就職し、23歳で結婚。2人の子供が生まれました。
子供たちも成人し、休日には夫婦で旅行を楽しんでいました。そんなある日、奥さんに癌が見つかり、1999年、47歳という若さで亡くなります。
悲しさと寂しさを紛らわすように、友人に誘われ、旅行に出た杉浦さん。次第に1人で生きていく覚悟が出来たと言います。
それと同時に自然豊かな土地でのんびり暮らしたいと思い始めます。
そんな時、友人から「尾鷲市で移住体験をしてみないか」との誘いを受け"移住体験住宅"で2カ月間暮らしてみることに。
すると「海、山、川と自然に恵まれ、人情も厚い。このまま尾鷲で暮したい」そう考えた杉浦さんは、移住体験中に尾鷲市三木里町に空き家を見つけ購入。
2017年10月、本格的に尾鷲市での暮らしを始めました。
地域住民が家の前を通れば必ず声をかける杉浦さんは、すっかり地域にも溶け込み、近所の方から魚や煮物など毎日のようにお裾分けが届きます。
地域では年齢的にまだまだ若い杉浦さんは、草刈りなど住民から頼まれれば何でも引き受ける、頼りにされる存在です。
月に1度のペースで愛知県から友人たちも遊びに来ます。一緒に釣りを楽しみ、バーベキューをして盛り上がる。寂しさを感じる暇もない日々を送っています。
私が尾鷲市梶賀町に中古住宅を購入したのも杉浦さんと同じ頃です。
お会いして話した時には便利な都会暮らしをやめて完全に移住されたことに驚きましたが、奥さんを若くしてなくされた事情があったことは知りませんでした。
私の場合はショートステイの田舎暮らしを楽しむ2地域居住で、ここで1人で生きていくことなど考えてもいません。
ただ、リタイアーしてから女房と一緒にいる時間が多くなったので、お互いのため、適当な距離を保てるプチ別居を楽しんでいます。
自分で平屋の家をリフォームしていることを話すと、是日見せてほしいと言われましたが、完成したらご招待しますと伝えておきました。
屋根の雨漏りを直し、キッチン・トイレ・風呂・洗面の水回りを改装し、壁紙を張替え、
掘り炬燵を作るなどして1年以上続けてきたそのリフォームが、屋外部分を除きほぼ完成しました。
ご近所を招待してリフォームした家を見てもらう交流会も何度か開きました。
一級建築士の資格を持っていますが、ペーパードライバーで、自分で本格的に一軒の家をリフォームするのは初めての経験でした。
この経験を、リフォームを考えておられる移住者の方に役立てていたらければと思い、先日おわせ暮らしサポートセンターに連絡したところ、
丁度空き家バンクを通じて中古住宅を購入・賃貸された方々向けにリノベーション冊子を作成中とのことです。
その冊子に私がDIYでリフォームした物件を掲載したいとの返事があり、来週取材に来られます。
リタイアーしてからは大して世の中の役に立つことはしてきませんでしたが、この経験を生かして少しでも地域に貢献できればと思っています。
先日、一木会メンバー6人が1年ぶりに関西から集まり、N女史を交えて2回目の交流会を開催しました。
この日のスケジュールは、網元ノ家で昼食をとり、夢古道の湯で海洋深層水の湯に浸かってから、かじか荘での交流会です。
私は前日から来て準備していましたが、その日までに完成させる予定の掘り炬燵は、
梁と束とが複雑に入り組んだ床から下の部分は何とか床と壁を貼ることができました。
しかし、掘り炬燵に合わせて作ったテーブルの脚の位置を動かそうとしたところ、固く締まったネジが外れません。
相当時間がかかりそうなのであきらめて、既存のテーブル2つを穴に落ちないように並べました。
宴会のメインディッシュの鰹と赤イカは、近所のKさんに頼んで前日港の市場で買ってもらってあります。
捌くのは大変だろうと覚悟をしていたのですが、漁師であるKさんのご主人が刺身にして持って来てくださいました。
素人の私が作るのとは違い本格的です。それに加えて差し入れとして、たくさんの串刺しのあぶりとマンボウの煮つけを頂きました。
サポーター全員の参加を予定していた交流会ですが、2人キャンセルが出て当日も高速道路の渋滞のため2人が昼食に間に合いませんでした。
昼食のメニューのあぶり釜飯は、「大サバのあぶり」で取ったアラ出汁を贅沢に使った一品で、釜蓋を開けた瞬間、あぶりの燻香とサバの美香が溢れ出します。
昼食の後近くの夢古道の湯で汗を流してからかじか荘に戻り、5時過ぎにN女史を交えて交流会が始まりました。
梶賀のあぶりの取り組みが、平成29年農山漁村女性活躍表彰の女性地域参画部門で水産庁長官賞を受賞したことや経営報告など、
プロジェクターを使って説明して頂きました。
会社のことにも興味はありますが、一橋大学を出て東京で金融関係の会社に就職し、
その後地域おこし協力隊に転職したN女史の生き方に興味を持った者も多く、それらプライベートな質問にも丁寧に答えて頂きました。
N女史のプレゼンの後、かじか荘のリフォームについリフォーム前と後の写真をプロジェクターで映して説明しました。
ほぼ一人で作業をしていたため大規模な改修はできませんでしたが、トイレは簡易水洗になり、キッチン周りは換気扇をつけパネルを貼り、
システムキッチンは嵩上げをして使いやすくなっています。
風呂は浴槽以外全面改装し、洗面所は床と天井を張りかえ、和室以外の部屋と廊下の壁には壁紙を貼りました。
使っていない時は埋め込める掘り炬燵用のテーブルができれば、内装関係のリフォームはほぼ完成です。
交流会は午前1時近くまで続き、酒豪のN女史の缶ビールが次々と空になって行きます。
ささやかなサポートですがこれからもN女史とその会社をこんな形で応援していきたいと思っています。
かじか荘の近所に住んでおられるKさんはこの梶賀大敷の漁労長をしておられ、
先日奥さんの案内で梶賀漁港へご主人が獲ってこられた魚の買い出しに行ってきました。
漁港が最も賑わう2~5月の鰤の季節が過ぎても、朝早くに船が大敷から帰って来ると港は活気づきます。
次々と生きた魚が水揚げされ、合羽を着た漁協の方たちがてきぱきと魚を仕分けてトロ箱に入れていきます。
この時期はあぶりにする小サバが大量に獲れ、トンビがすぐ近くに降りて来て落ちた魚を素早く掴んで舞い上がって行きます。
跳びはねていた50cm程のハマチ2尾と中くらいのサイズの赤イカ10杯を買い求め、発泡スチロールの箱に入れて氷をいっぱい詰めてもらいました。
夕方、家に着いてから調理するのですが、こんな大きな魚を扱うのは初めてで捌き方がよく分かりません。
先ずネットの動画を見てやり方を覚えてから、後始末のことを考えて外のテラスで捌きました。
頭を落とし内臓を取ってから、氷が残っている発泡スチロールの箱に水を張り、スプーンを使って血合を掻き出します。
次に水洗いした身を三枚におろし、腹骨、中骨を取って皮を引きます。
ゴミ袋に入れても猫に狙われるので、頭と内臓は庭の花壇に穴を掘って埋めました。
悪戦苦闘して捌いたハマチを大学の同級生のI君に連絡して取りに来てもらいましたが、夫婦2人では食べきれない量の刺身なので、
近所におすそ分けしたそうです。赤イカは墨袋を破かないように内臓を取り、皮を丁寧に剥きました。
夕食に女房が刺身にして出してくれましたが、イカは甘くておいしく、ハマチもスーパーで買うものとはまるで味が違います。
魚の捌き方にも少しは自信がつきましたので、次は鰤一本まるごと仕入れようと思っています。
その日の夜、盛んに猫の鳴き声がしていましたが、猫にとっても新鮮な魚は魅力的のようで朝見るとハマチの頭が掘り起こされていました。
I君の助けを借りながらコツコツとかじか荘のリフォームを始めて1年以上になります。
和室を除く部屋のリフォームがほぼ終わりましたので、先日ご近所の方々を招待して宴会を兼ねたお披露目会を行いました。
飲み物は準備しましたが、料理ができませんので食べ物は持ち寄って頂きました。
Kさんの奥さんから声をかけてもらって、集まって頂いたのはKさんご夫妻とお母さん、尾鷲市会議員のOさんご夫妻とお母さん、
元漁師のOさんと梶賀地区センターに勤めておられたYさん夫妻の9名です。
奈良から来た変なおじさんがが、不便な高台に中古住宅を買ってDIYでリフォームを続けていることに皆さん興味を持たれていたようで、
プロジェクターを使った説明を熱心に聴いて頂けました。
以前の空き家の状態を知っておられるだけに、押し入れをぶち抜いて広げたリビングダイニングや
扉を化粧シートで仕上げたシステムキッチンや水回りのリフォームに感心されていました。
この日の段取りを引き受けてくださったKさんの奥さんは、猫好きで隣の空き家を借りてまで猫を飼っておられ、
漁港近くの野良猫を含めると40匹近くの猫の世話をされているそうです。
世話付きで時々私にも晩御飯の差し入れを持って来てくださいます。気にかけてやらなければならない黒い野良猫が一匹増えたのかも知れません。
アマゴ釣り(平成30年6月1日)
ロングドライブの楽しみは音楽だけではありません。
標高700mの新伯母峰トンネルを通る国道169号線は、山の間を縫って走り、四季折々の自然の風景が楽しめます。
春先から初夏にかけて、花は桜から始まり、三つ葉つつじ山藤へと続き、新緑が濃くなって行きます。
中でも下北山村きなりの郷の桜並木は見事です。池のほとりに立つと360度桜の花に囲まれます。
よく整備されたきれいなトイレもあり、桜の木陰に車を止めてここで休憩するのが定番になりました。
最近、もう一つ道中での楽しみが増えました。アマゴ釣りです。
アマゴは、脇腹に赤い斑点のある、淡白な身がおいしい川魚です。
和佐俣山へ向かう道の傍にアマゴ釣り場を見つけ、アマゴ釣りの経験豊富なI君と最初にトライしたのは、解禁になって間もない3月の終わり頃でした。
管理事務所は留守でしたが、連絡先に書かれていた番号に電話すると近くの養殖場からアマゴを積んだ軽トラックがやって来ました。
料金は一人1kgの放流で4,000円ですが、人懐っこい経営者の青年はサービスで2kg放流してくれ、竿を2本出すことも認めてくれました。
また、黄金色に透き通った塩漬けされたアマゴの卵を餌として渡してくれ、餌の付け方、
仕掛けの落とし方や釣れたアマゴの針の外し方なども解かりやすく教えてくれました。
2人で十数匹釣り、酒の肴としては十分だったので、早めに切り上げて梶賀へ向かい、その日の夕食ではI君が調理してくれたアマゴの塩焼きを堪能しました。
2回目のアマゴ釣りは5月末、梶賀から奈良へ帰る途中です。
他にお客さんがあったため、前とは違う深い淀みに放流してくれましたが、この日は曇り空で気温が低く、食いつきがあまりよくありません。
そこで、放流する数を増やそうと、経営者の青年が養殖場に戻って魚を持って来てくれました。
その量はバケツ2杯分、合計50匹ほどでしかも体長30cm以上の大物ばかりです。
あまりのサービスぶりに恐縮して、こちらの方から追加料金を支払い、私も大物が放たれた上流の淀みに竿を出すことにしました。
見えていてもなかなか釣れませんが、何回か目の前に餌を流しているとヒットしました。
40cm近い大物でなかなか水面から上がりません。仕方なく少し弱らせてから浅瀬に持って行き手で捕まえました。
この日は大漁でゴルフ仲間のTさんにもおすそ分けし、塩焼きで食べる分以外はI君に頼んで燻製にしてもらいました。
アマゴ養殖は苦労のわりに利益は少なく大変なようですが、経営者の青年は山の自然が好きなようで、
釣場で見かける川ガラスやアカショウビンのことなどを楽しそうに話してくれました。
この青年との会話を楽しみながらのアマゴ釣りがこれからも続きそうです。
料理教室(平成30年4月15日)
会場の公民館には、移住者との交流を兼ねているため、地元の方を交えた30人ほどの参加者が集まっていました。
今回のメニューは「ブリのカルパッチョ」「アジの干物と春キャベツパスタ」「タチウオのムニエル」とおしゃれです。
三郷町の男の料理教室に通ったことがありましたが、ボランティアの主婦の方に教えてもらった家庭料理とはちょっと違います。
メニューもさることながら講師のNao先生も華やかです。
青いバンダナがおしゃれで、最初に手本を示されますが、途中で味見をしたりするしぐさが自然で魅力的です。
食に関する豊富な経歴を持っておられ、栄養士として都内の小学校に勤務する傍ら、ファーマーズマーケットでボランティアを始められました。
後に渡仏して現地のレストランで修業を積み、帰国後は青山のラブランシュに勤務されました。
小学校の食育事業や、フリーランスとして活躍し、昨年カリフォルニアの地産地消レストランで研鑽を積み帰国されたそうです。
我々のグループは3人の地元の女性を含めた5人です。
民宿をされている年配の方は、料理には参加せず洗い物だけを引き受けてくださいます。
もう一人の女性はボランティアで料理を教えられている方で、手際良く手順を進めて行かれます。
我々おじさんはほとんど手を出せず、私はタチウオを三枚におろしただけでした。
魚が新鮮なこともありますが、出来上がったどの料理もおいしく、レストランで出せるくらいの一品です。
最後に配られたアンケートに、是非このような企画を続けてほしいと書いて会場を後にしました。
尾鷲でこれほど美味しく調理された魚を食べたのは初めてでしたが、新鮮な魚は近所の漁師のKさんから頂くことがあります。
梶賀の湾内に伊勢エビの網を仕掛けてあるそうで、その網に魚もかかるそうです。
これまでに、伊勢エビ、うちわエビ、ブダイ、メジナ、ソウダガツオなどを丸々一匹頂きました。
さばいて鱗を処理するのが大変だと言ったら、最近は切り身で持って来てくださるようになりました。
どれもその日の朝に獲れた新鮮な魚で、お刺身で食べられます。
先日頂いたヨコワの片身は表面をあぶり叩きにし、ぶりの大きな切り身は塩焼きにしました。
梶賀での食事は即席麺やレトルト食品が中心ですが、魚に関してだけは最高の食材を味わっています。
コズミックフロント(平成30年3月20日)
コズミックフロントは、毎回、宇宙にまつわる謎を1つずつ解き明かして行き、専門的知識がなくても楽しく宇宙を知ることができるBSの番組です。
毎週この番組を録画して見るのを楽しみにしており、プラネット・ナインが紹介された放送では、初めて知った太陽系第9惑星の存在に興奮させられました。
先日放送された宇宙と音楽をテーマにした特別番組は、これまで番組で紹介してきた宇宙イベントの決定的瞬間や高精細4K映像を交えた音楽番組です。
2001年宇宙の旅やスター・ウォーズなど宇宙映画の名曲、宇宙戦艦ヤマトなど宇宙アニメの名曲、
そしてこの番組のために宮川彬良さんが作曲した世界初演となる宇宙音楽絵巻が演奏されました。
月に何回か中古住宅のリフォームのため、150kmほど離れた梶賀へ車で向かいますが、
我家を出て1時間半ほど走ると山越えの区間に入り、テレビが映らなくなります。
そのため、奈良県側の最後のコンビニでコーヒーブレイクをしてからは、ダビングしたコズミックフロントの音楽に切り替えます。
スキャットで始まるテーマソングが流れると、ドライブしている感覚が宇宙へ旅するような感覚と重なります。
川上村の大滝ダムを過ぎ、トンネルを抜け黄色いアーチ橋を渡ると白屋橋の斜張橋の優美な姿が飛び込んできます。
ダム湖に架かるためアーチのケーブルを通して真横から全体を見ることができます。
しばらくはダム湖沿いの緩やかなカーブの道が続きますが、交通量も少なく高速並のスピードで走ることができます。
奈良と三重を繋ぐ幹線道路の国道169号線は、新しく整備された幾つもの長いトンネルを抜けて大台ケ原へ向かいます。
圧巻は、トンネルを抜けループ橋を渡り再びトンネルを抜けて、らせん状に高度を上げて行く橋とトンネルのエリアです。
その先の一番高度の高い所に大台ケ原へ分岐する交差点があります。
ここには5分ごとに道路状況を写すカメラが設置されているので、冬場はその画像で道路の積雪の状況を確かめています。
ここからは長い新伯母峰トンネルを通っての下りの区間に入ります。
このトンネルでは先日、乗用車2台が正面衝突する事故がありました。
通行止め解除後に通った時は、トンネルの中間地点で車が炎上した跡が壁に残っていました。
2kmの直線のトンネルは、対向車のヘッドライトが見えてから近づいて来てすれ違うまでずいぶん時間がかかります。
幅が狭くて天井が低いため大型トラックはセンターラインを越えて走って来るので、止まるようなスピードですれ違います。
DVDの再生を始めてから1時間半が過ぎる頃に峠を下りきり、三重県側の最初のコンビニで休憩です。
宇宙を旅したような感覚はここで終わり、感度の悪いラジオ放送に切り替え残り40分ほどの距離を走ります。
これからも幾度となくこの道を走りますが、奈良での日常から梶賀での非日常へ向かうこのロングドライブを、
宇宙を旅するよう感覚で楽しみたいと思っています。
ヤーヤ祭(平成30年3月3日)
空き家バンクを運営する「おわせ暮らしサポートセンター」から2月4日に開催される「ヤーヤ祭」見学会の案内が届きました。
尾鷲に中古住宅を購入した人や移住した人に、祭を通して地域に親しんでもらう企画です。
夕方、古民家を利用したサポートセンターに行くと、10組ほどの家族や単身者が集まっています。
移住を促進して市の活性化を図っているためか、小さな会合にも関わらずわざわざ市長さんが挨拶に来られていました。
参加者の自己紹介によると、東京から自然豊かな暮らしを求めて家族連れで移住してきたソフト関係の仕事をしている方や、
気ままな田舎暮らしにあこがれて移住してきた定年退職者など事情は様々です。
自動車関係の会社に勤めていて定年延長を断ってこちらに移り住んだ方もおられましたが、
奥さんの理解を得るのは難しいのか、単身生活が続いているようです。
海辺近くの田舎で暮らしたいと思う共通の価値観があり、差し入れに持っていった奈良長龍酒造の「ふた穂」の酔いも手伝ってか、
初対面とは思えないほど話が弾みました。
夕食後はサポートセンターから歩いて5分ほどの知古町の古民家に案内され、2階から祭りを見学しました。
狭い通りの両側には見物客をガードするため、家の外壁工事に設置されるような丸太の足場が組まれています。
しばらくすると目の前で「ヤーヤ」が始まりました。
現在は上半身シャツ姿、下半身は体操ズボンとなり、「裸祭り」でなくなりましたが、
明治・大正時代はふんどし一本のスタイルで、町頭の振る提灯の合図に従って一糸乱れぬ行動をとったそうです。
この集団が「手伝い」と称して殴り込みの様な「押し合い」を当務の町に仕掛けます。
三度押し合った後は、当務の町に合流して次に来る町の「手伝い」を待ちます。
押し合いの時の掛け声は「チョウサ」で「ワッショイ」ではありません。
この掛け声の「チョウサ」には2つの説があります。
1つは「チョウサ」は丁歳であって、15歳になって初めて「ヤーヤ」に出られる時、清酒一本を添えて町頭へ参加を願い出て、
私も15歳ですと「チョウサ」を連発する青年儀礼であるとする説です。
もう1つは「チョウサ」は新年を意味する超歳であり、本来正月の祭であったことから新年の祝い言葉であるとする説だそうです。
関西のお祭りの様な山車が出るわけではなく、派手さはありません。
若衆が大声を上げて押し競まんじゅうをしているだけで、古風な祭の原型の様な感じもします。
押し合いが終わる度に酒が振舞われ、一気飲みして次に備えます。
かなりの興奮状態で酒を頭からかぶせられている者もいます。
その日は寒い日でダウンジャケットのファスナーを首まで上げて見学していましたが、下りなくなって引手が壊れてしまいました。
この後、各当務町のショード(精進人)が「ヤーヤ」を従えて毎夜尾鷲神社にお参りします。
その際必ず海岸に立ち寄って当人、汐撫、弓射など主だった役人が身を清める意味で海水により垢離をかく習わしになっており、
高張提灯をかざす闇の海中へ威勢よくザブンと飛び込みます。
見学会のプログラムではここまでスケジュールに入っていましたが、あまりに寒かったのとファスナーを早く直したかったので途中で帰りました。
「ヤーヤ祭」にはあまり興味は持てませんでしたが、移住や2地域居住のために尾鷲に来た人達と出会えたことに少し勇気づけられました。
釣り(平成29年12月8日)
秋になると、梶賀の傍にあるヘリポートの岸壁から小型のアオリイカを狙いました。
餌にする生きた小アジは釣具店では一匹150円もするので、スーパーで食材として売っている小アジを買ってきました。
最初手ごたえがあったので引き寄せようとした時はばらしてしまいましたが、2回目でようやく一匹だけ釣り上げることができました。
アオリイカは胴の長さが最大で40~50cmほどで、大型がねらえる春と、夏に生まれたばかりの小型が釣れる秋がおもなシーズンです。
通常は比較的深い場所にいますが、春から夏にかけては産卵のために浅場に上がってきます。
エサは弱った小魚などで、足で捕まえて頭からかじるように捕食します。
日本の沿岸に棲むイカのなかでは大型で、幅の広い胴と半円形のヒレを持ち、生きている間の体色は半透明で、釣り上げて死ぬと白濁したようになります。
イカのなかでも最高級の食材といわれ、市場価値も高く、刺身は絶品で一夜干しも美味しいとのことです。
梶賀漁港にも車が横付けできる岸壁があります。
先日そこで釣りをしていた時、漁協関係者のおじさんが来て協力金として500円徴収されました。
「この前来た人はクーラーボックス一杯にアジを釣って、500円では安い買い物だ」と言っていましたが、その日は一匹も釣れませんでした。
先日同じ場所で釣をしている老夫婦にお会いしました。
傍らの椅子に座る奥さんがサビキのかごに餌を詰めると旦那さんが竿を投げる動作を繰り返しています。
奈良から大台ケ原を越えて車で3時間ほどかけて来るそうでもう20年もそうして釣りに来ているそうです。
イカを狙っていて釣れなかった時は餌のアジが残ります。
ある日それを海に捨てて帰ろうとした時、鳶が空中から舞い降りて水面でキャッチして行きました。
目の前で餌を取る光景は迫力があります。
最初は海に投げていましたが、試しに空に向かって投げてみると見事に空中でキャッチしました。
次の時もやはりイカが釣れなくてアジが残りました。その日は何匹投げても道路わきにガードレールに止まったままで鳶はやってきません。
仕方がないのでアジを岸壁に残して車に戻ろうとしました時その訳が分かりました。
道端に車にはねられた大きな鹿が横たわっていました。
鳶やカラスがその周りにいて肉を啄んでいます。
海に近いため普段魚はふんだんに食べていて、久しぶりの肉のご馳走に目が無いようです。
イカが釣れない時には鳶と遊ぶという釣りの楽しみ方が一つ増えました。
かじか荘【その4】(平成29年10月3日)
床下から出てきた瓦は数に限りがあります。
破損している瓦でまだ使えそうなものはそのままにしておこうと思っていましたが、
先日あぶりの加工場を整備するために小屋の床をめくったところ大量の瓦が出て来ました。
これを再利用すると傷のある瓦をすべて取り換えることができます。
梶賀コーポレーションの社長にお願いしたところ快く応じて頂きました。
30枚ほどの瓦を車に積んで駐車場に運び、そこから背負子に背負って10階建てのビルほどの標高差があるかじか荘まで運び上げます。
1枚3kgほどの瓦を7枚乗せるのが限界で、3回に分けて運び上げました。
リフォームを始めたころ便器を担ぎ上げてこの階段を上っていた時「なんで俺はこんなことをしているのだろう」と思ったことがありましたが、
この時も同じ思いがこみ上げてきました。
運び上げた瓦は軒下に保管しましたが、3枚ずつ持ち上げて移動させていた時、左手の甲に違和感がしました。
痛くはないのですが、しびれたような感覚です。なかなか治らないので心配になってネットで調べてみると、
重い物を運ぶと腕や肩周りの動きを支配する神経や血管が通る隙間が狭くなることでしびれが起こるそうです。
もうそれほど重い荷物を運ぶことはないと思いますが、精神的、肉体的な苦痛に耐えながら、かじか荘のリフォームはあと半年くらい続きそうです。
食品加工場(平成29年9月18日)
会場のコミュニティーセンター「はらそ」は、外壁に大きく「ハラソ祭」の絵が描かれています。
「ハラソ祭」は、江戸時代に盛んに行われていた鯨漁を伝えるもので、鯨の供養を行ったあと、
「ハラソ」の掛け声とともに八丁櫓を操る古式の漕法や、鯨に銛を打ち込む、当時の捕鯨の様子を再現します。
中に入るのは初めてですが、バリアフリーによく配慮された建物で、入口までは長いスロープと階段が併設され、室内の階段もかなり緩やかな勾配です。
2階の会場には20人ほどの地元の方の他に、取材のため地方新聞の記者も来ていました。
計画では、梶賀の味として生産されてきた「あぶり」をより衛生的な施設で効率的に生産するため、
梶賀神社の足元に建つ旧海女小屋を改修して食品加工場にするそうです。
完成後の建築模型を使った説明によると、小屋の前の畑部分にコンクリートで基礎を作り、あぶり作業を行う小屋を増設します。
既存の小屋は内壁、天井、床を取り払って、コンクリートの床にします。
この改修案は、大阪大学大学院生のKさんが指導教官のT先生と一緒に設計したものです。
今後の作業は2人を中心に、大阪大学や近畿大学で建築を学ぶ学生さんたちがボランティアで作業にあたります。
学生さんにとっては実習の学びの場となり、梶賀町にとっては改修費用を圧縮できるというメリットがあります。
また、若い人たちに梶賀町を思い出の場所にしてもらい、梶賀ファンになってもらう絶好のチャンスだということです。
説明の終わりに、地元住民にも協力の依頼がありましたので、リフォームの経験がお役に立てばと、協力を申し出ました。
作業日の初日、電動ノコギリやバールを持って現場に行くと地元の方や地域おこし協力隊に混じってT先生と学生さんが集まっておられます。
作業は天井と壁の解体から始まります。
大して大きな建物ではないため、バールで簡単に作業できますが、大きな梁や筋かいなどは私の持って行った電動工具が役に立ちました。
NHKの朝の番組や、新聞記事に掲載されたためか、今回も取材の方が作業の様子をテレビカメラで撮影していました。
以前は瓦葺だった建物をトタン葺きにした時に床下に保管しておいたようで、床をめくると大量の瓦が出て来ました。
作業が終わってからT先生と建物の断熱について話す機会がありました。
小屋は東向きに建っているため西日は避けられますが、トタン葺きのため断熱が重要になってきます。
スタイロフォームかグラスウールでの断熱を考えられておられるようでしたが、
垂木と垂木の間に設置できる作業が簡単なタイプのスタイロフォームを薦めておきました。
また、トタン屋根の上にスプリンクラーをつけて水で冷やすことも提案しておきました。
作業を終えた夜、梶賀町の皆さんと学生さんとが交流するキックオフ懇親会に誘われました。
お寿司、お刺身、赤イカの煮つけや太刀魚のおにぎりなど、梶賀の郷土料理や各ご家庭の自慢の料理が並びます。
普段の缶詰や即席麺とは違い、梶賀に来て初めてのまともな食事です。
前の家に住んでおられるOさんから区長さんや住民の方々を紹介いただき、よそ者ですが少し地域に受け入れられたような気がしました。
かじか荘【その3】(平成29年8月3日)
ここに中古住宅を購入し、自力でリフォームを始めて2ヶ月が過ぎました。
ダメージが大きいのは、天井の一部が雨漏りのため崩れかけている西側中央6畳の和室ですが、
トイレや風呂のリフォームを優先させ、屋根は後回しにしてきました。
最初雨漏りは、部屋に敷いたビニールシートの上にコップ一杯ほどの水がたまる程度でした。
しかし、かなりの雨が降った後は、バケツ一杯ほどの水が溜まっていたこともあり、室内で雨漏りを受けるのは限界になってきました。
そこで、屋根の状態を調べるため上がってみると、棟のすぐ下の西側の瓦が何枚か割れていて、土葺きの土が露出しています。
全体を見渡すと、取り替えなければならない瓦は30枚ほどで、この程度の補修であればDIYでできる感じです。
応急措置として棟を覆うようにビニールシートを架け、端を鉄筋に結びました。
これで大きな雨漏りは一時的に解消しましたので、開所式に間に合わせるため、リビングのリフォームを優先することにしました。
東側の和室はダイニングキッチンと隣り合っていますが、間に押し入れがあります。
この押し入れを壊して14畳ほどのワンルームにすることにしました。
この作業はリフォームを手伝ってくれている大学時代の友人I君の担当です。
電動工具など使ったこともないDIY初心者の彼が、12cm角の柱を切断し、押し入れの床を外し、壁と天井を破る工事を丁寧にやってくれました。
次に和室の床下に防湿シートを貼るために床板をはがすと、たくさんの瓦が出て来ました。
建築当初に将来のメンテナンスを考えて縁の下に保管してあったものです。
これを使えば新しい瓦を購入しなくて済みます。
先人の配慮に感謝し、100枚ほどの瓦を運び出しました。
和室の古いスタイロ畳はかなりくたびれていましたので、畳の上にカーペットを敷き、広い空間が出来上がりました。
クラブのメンバー6人が集まってかじか荘の開所式を終えた後、いよいよ懸案の屋根の工事です。
先ず鉄筋に留められている金網を外していきますが、5mm程の鉄筋は錆びてボロボロです。
割れている瓦の多くは、棟のすぐ下の瓦です。
丁度その部分に金網を止めるための鉄筋が設置してあり、台風や地震でそこに集中して力が加わったようです。
割れた瓦を取り除き、新しい瓦を差し込みますが、上を棟瓦で抑えられているためなかなか入りません。
土葺きの土を削って差し込み、何とか取り換えることができました。
取り外した金網の代わりに瓦を固定する方法として思いついたのが、屋根の端から端までテープを渡す方法です。
テープは段ボールの梱包用に使用されるビニールテープで、ネットで調べると耐候性のあるものもあります。
軽くて丈夫で安いので、この方法にするつもりでしたが、他に良い方法がないか調べていたら、瓦同士をボンドで接着する工法を見つけました。
雨水の流れを阻害しないように瓦の山側の側面と山の端をボンドで接着する方法です。
隣同士の瓦が一体となるため強い風や地震に抵抗できます。これからの台風に備え、これで屋根の補修の目途がたちました。
ほぼ毎週梶賀町に通ってリフォームに専念してきましたが、開所式も終え作業に少し余裕が出て来ました。
次回は釣りの得意なI君と近くの海で浮きを飛ばしてみる予定です。
梶賀のあぶり(平成29年7月19日)
昨秋オープンした築80年以上の古民家を改装した交流施設「網元の家」では、あぶり料理を味わえます。
人気メニューはあぶりの釜飯で、素朴な塩味と煙の香りが好評です。
今年4月には、梶賀町の住民が資本金400万円を出資して、株式会社「梶賀コーポレーション」が設立されました。
あぶりの製造、販売、網元の家での飲食・イベント事業などを手掛けています。
社長、副社長にNさんとAさんが就き、ビジネスとして成功させようと頑張っています。
隠れた地域資源が過疎の漁師町を元気にしてくれています。
梶賀コーポレーションは株式会社とは別に、1口1万円で梶賀町への支援を募る「梶賀サポーター」制度もスタートさせました。
今年の春、梶賀町の中古住宅を購入したのを機に、田舎暮らしを体験するとともに、会員相互の親睦を目的とする「かじか倶楽部」を設立しました。
「一木会」の連中と大学時代の友人達には、無理やりこのクラブに入会し、梶賀サポーターにもなってもらいました。
リフォームを進めてきたクラブハウスのかじか荘も、なんとか文化的な生活ができるようなレベルになり、今月22日にオープンします。
昼食は「網元の家」で名物のあぶり釜飯を頂き、その後尾鷲夢古道の湯で汗を流してからかじか荘に集う予定です。
メインイベントは地域おこし協力隊のNさんのプレゼンとその後の懇親会です。
月1回肥後橋のビルの一室で行っているおじさん達の井戸端会議にもう一つの井戸端ができました。
かじか荘【その2】(平成29年7月1日)
トイレの次は風呂のリフォームです。風呂の壁の下半分と床はタイル貼りで、天井と壁の上半分は塗装です。
浴槽を取り換えてまでの工事は大掛かりになりますので、ホーローの浴槽はそのままで磨いてつやを出します。
天井と壁のペンキを塗りなおし、壁のタイルは上から化粧パネルを貼り、床はモルタルを塗って平滑にしてから風呂用のシートを貼りました。
リフォームと並行して家の中に残された不用品の処分を行いましたが、簡単に捨てられないのが家電リサイクルの対象製品です。
エアコン2台、テレビ3台と洗濯機を廃棄しなければなりませんが重くて運べそうもありません。
尾鷲市のシルバー人材センターが請け負っていることを知り、事情を話すと引き受けてくれました。
シルバー人材センターから来られた2人は当然年配の方で、これから運び降ろす家電を見てぼう然としています。
30mの高低差を2人で6往復しなければなりません。
丁度前の家にお住いのOさんが出て来られ、近くに住む息子さん達に連絡して手伝ってもらうことができました。
リフォームで解体した柱に一番大きなブラウン管テレビを吊るし、シルバーの方2人が駕籠かきの様に前後を担ぎ、家電の処理が終わりました。
以前このブログで紹介しましたが、京都大学に『不便益システム研究所』という、「不便なことから得られる益」を研究目的とする機関があります。
リフォーム自体は色々なアイデアが実現できて楽しいのですが、駐車場から続く除夜の鐘の数ほどの階段の上り下りが不便です。
それから得られる益は運動による丈夫な足腰かも知れません。前の住人が家電以外に残して行ったものにフィットネスバイクと健康ステッパーがあります。
これだけの階段を上り下りすれば運動は十分だと思うのでうすが、さらにエクササイスが必要な方だったのかも知れません。
かじか荘【その1】(平成29年4月17日)
滋賀で生まれ、社会人になってからは大阪と奈良で生活するようになり、これまで海とは縁のない暮らしを続けてきました。
そのためか海への憧れが強く、いつかは海の傍で暮らしてみたいと思っていました。
伊勢路を歩いて少しばかり土地勘のある尾鷲市のホームページに「空き家バンク」を見つけ、そこに掲載されている物件を見ていると、
私にも手が出せそうな中古物件が幾つもあります。その中の3つ選んで申し込み、3月に現地視察に行ってきました。
「おわせ暮らしサポートセンター」が移住に関する業務を行っていて、地域おこし協力隊の若い2人が案内をしてくれました。
Sさんは母親の実家が尾鷲にある縁で東京から移って来た方で、Nさんは京都からのIターン組です。
3つの物件の中で梶賀町の築40年の中古住宅は、階段を30mほど登らなければならない高台にありますが、眺めはよく津波の心配もない物件です。
何より気に入ったのは建物に使われている上質な木材です。
平屋にしては大きな5寸角(約15cm)の大黒柱があり、床柱には表面がごつごつした黒柿が使われています。
その物件の購入を決めて売主と連絡を取り、4月に入ってから尾鷲の司法書士事務所で契約しました。
その後、リフォームの段取りを決めるために家を見に行きましたが、大きなダブルベッドやタンス、ブラウン管のテレビなどがそのまま残されており、
荷物の山です。売主の話では以前不倫関係にあったカップルが賃貸で住んでいて、5年ほど前に出て行ったそうです。
家の中の状態を見ると、トイレは古い簡易水洗で取り換えが必要です。
天井に雨漏りの箇所があり、押し入れの天井から屋根裏に上ると天井がふやけている箇所が幾つかあります。
大黒柱の上に大きな梁が乗っていて、安普請の我が家とは比べ物にならないほど立派な和小屋組です。
しかし断熱に対する配慮が一切されてなく、天井裏には断熱材がありません。
押し入れの床板を外して下を覗くと床下にも断熱材がありません。
屋根は切妻の瓦葺ですが、このあたりは風が強く瓦が飛ばされないように金網で覆っています。
それにしても住宅を建てる時、その材料をこの高台まで人の手だけでよく運び上げたものです。
階段の数は除夜の鐘の数ほどもあり、駐車場からたどり着くだけでも息が切れます。
これから始めるリフォームに必要な材料を一人で運び上げなければならないことを考えると気が滅入ります。
劇的ビフォーアフターで住いが変身する様子をよくテレビで見て感心していましたが、DIYでやるとなると大変です。
「いつか大きくなった孫が夏休みに来て海で遊ぶ。」
「ルートの途中にある花吉野CCでのゴルフの後、仲間を連れて来て宴会をする。」
「船舶免許を取り、中古の船を買って釣りをする。」
そんな二地域居住生活を想像しながら苦しくても楽しいリフォームをスタートさせます。