夏のエキストライベント(令和6年10月5日)

 今年の夏のエキストライベントは、東京と千葉に住む息子達ファミリーを招待して、尾鷲の海での自然体験です。 敬老の日の3連休の初日、私と家内が車2台をそれぞれ運転して息子たちと松坂駅で合流後、バーベキュー用のお肉を買うため霜ふり本舗に向かいました。 この店は自社内に牧場、工場、精肉店、レストランを抱え、松阪牛で6次産業化を進めていて、精肉店はお客さんでごった返しています。 そこから1時間ほど高速を走って尾鷲に向かい、最初に樹齢1,000年を超える楠のある飛鳥神社にお参りしてから隣接するシーサイドビューに入りました。 夕食はレストランでのクエ料理ですが、孫たちはフライや肉が中心の別メニューです。 連休で満室でしたが、お願いしてお風呂に入るために一部屋用意して頂き、また食事が終わってからは梶賀まで送って頂きました。 長い階段を上った梶賀の山小屋では大型のエアコンが1台しかないため、廊下を挟んだ部屋を開け放って布団を敷きました。
 翌朝、始発のバスに乗ってホテルまで車を取りに行き、朝ご飯が終わってからシーサイドビューの隣のプライベートビーチで水遊びです。 海での遊びに飽きると今度は釣りです。ホテルで釣竿を借りて餌をつけ糸を桟橋から垂らすと小魚が面白いように釣れます。 シーカヤックの講習を終えた家内を三木里まで迎えに行った後、晩ご飯の食材になる釣果を持って山小屋に戻りました。 お昼のメニューは流しそうめんです。プラスティックの樋をつなげ、ウォータータンクにためた冷水を流します。 樋からあふれた水は池に落ちるようにすると、流れたそうめんは鯉の餌になります。 夜のメインイベントの裏庭でのバーベキューです。熱した鉄板の上にアルミトレーを置き、霜ふり本舗のお肉を焼いていきます。 マシュマロを串にさして焼く焼きマシュマロも孫達には人気でした。 翌日は山小屋で錦鯉に餌をやったりかくれんぼをしたりして過ごし、午前中に山小屋を後にして近鉄の伊勢中川駅に向かいました。 駅で孫たちと別れ、来た時と同じように私と家内が車2台を運転して帰り、夏のエキストラ行事が終わりました。
 翌週、一人で梶賀に行った帰りのことです。名阪国道の下り線は、五ヶ谷から急な下りカーブが続きます。 天理のサービスエリアに寄るため走行車線に車線変更した時、後から覆面がついてくるのに気づきました。 駐車場に止めて車から降りると、警察官が近づいて来ました。 マークされていたのは私の車で、27kmオーバーで18,000円の罰金。 事故などではなくて良かったと思い直し、今後はスピードを控えめの運転に努めようと思います。
 もう一つ控えようと決めたことがあります。 痛めていた左足親指の手術の必要はないとの診断結果が出ました。 ただ、尿酸値がやや高いためお酒を控えるように云われました。 車のスピードとお酒を控え、残りの少なくなってきた人生を安全、健康で過ごしたいと思います。

熱海桜(令和5年3月9日)

 早咲きの河津桜の便りが聞かれますが、最近は河津町の他にもたくさんの名所があるようです。 先日、梶賀からの帰りに三重県の清流銚子川沿いの「種まき権兵衛の里」に立ち寄ると、河津町の桜に匹敵するほどの規模で濃いピンクの花が満開でした。 この川で何年か前にまだ幼かった孫たちと水遊びをしたことが思い出されます。 その河津桜よりも更に早く咲く熱海桜があることをテレビのニュースが伝えていました。 明治初期にイタリア人の手によってレモンやナツメヤシと共に、熱海に伝わったと言われています。 開花時期が非常に早いのが特徴で、沖縄の寒緋桜とほぼ同時期の1月に開花し、熱海を訪れる人々に少し早い春を感じさせてくれるそうです。
 千葉に住む7歳になった孫の誕生日会に招待されたのを機に、この桜を見に行くことにしました。 孫たちに会うのは5歳になった孫娘の誕生日会の日以来3ヶ月ぶりで、昨年の夏に生まれた3番目の孫娘も随分重く感じられるようになっていました。 孫娘の伴奏でハッピーバースデイの歌の後ケーキをいただき3時ごろ孫たちと別れました。 いつもの様に東京駅の大丸地下食糧品店でワインとオードブルそれに穴子ずしを買い求め、新幹線で熱海に向かいます。 シャトルバスで東急ハーベスト熱海に着く早々湿式のサウナに入り、海に浮かぶ初島を見ながらゆっくり温泉に浸かりました。 翌日も朝早くから温泉に向かい露天風呂から海を眺めていると、東の雲が明るく輝き水平線から太陽が昇ってきました。 水平線から昇る太陽を生で見るのは初めての経験です。
 早々にチェックアウトしてシャトルバスで海岸線に近い道を熱海駅に向かいます。 前回来た時は路線バスで山側の道を通り、源頼朝と北条政子が結ばれたと伝えられる伊豆山神社にお参りし、 途中土石流の被害に遭った場所も通りました。 駅でコインロッカーに荷物を預けて熱海梅園行きのバスに乗り込みます。 貫一・お宮の銅像がある公園沿いの海岸線を通り急な坂を上ると20分ほどで熱海梅林に着きました。 ここを訪れるのは河津桜を見に来た時以来2度目です。 明治19年に開園した熱海梅園は、樹齢百年を越える梅の古木をはじめたくさんの梅が順番に開花していくそうですが、この日はまだ満開の梅は観られません。 丁度お祭り期間中で園内には足湯や飲食出店・土産店もオープンしています。 前回は義母も一緒だったため上の方までは行けませんでしたが、今回は滝のある一番高い所まで上ってきました。 「てるてる坊主」「肩たたき」「シャボン玉」などの作曲家、中山晋平の別荘や 韓国の大統領が梅園を訪れたことを記念して再現された韓国庭園などを見てきました。 熱海梅林を出てからは下りの道を熱海駅まで歩きます。 途中、樹齢2000年を超える大楠がある来宮神社に立ち寄りました。 コンクリートで固めた手術跡のある大楠の周りには根を痛めないように回廊が作られています。 一回りすると寿命が一年延びると云われていますが、そのことを知らなかったので一回しか回りませんでした。 神社を出てからもひたすら坂道を下って行くと市役所があり、そのそばを流れる糸川沿い熱海桜が咲いています。 右岸側を下り左岸側を上って眺める200mほどの川沿いの桜は丁度満開で、色は河津桜に近い濃いピンクです。 ここから熱海駅までは逆に上りの道が20分ほど続きます。 駅前のいつもの店でお寿司とワインを仕入れ、こだまのグリーン車でゆったりとして帰ってきました。

 帰省(令和4年9月6日)

 息子達家族のお盆の帰省は、今年は予定通りには行きませんでした。 長男は、妻の出産予定日が近いため孫2人と帰省。 次男は、夫婦と孫2人の帰省を予定していましたが、子どもが熱を出したため次男一人が帰って来ることになりました。 幸いコロナではなく別の感染症でしたが、高熱が続き症状は軽くなかったようです。 東京から同じ新幹線で帰ってくるので、新大阪まで車で迎えに行きましたが、新大阪までは第2阪奈を通るルートと西名阪を通る2つのルートがあります。 いつも利用する西名阪と阪神高速松原線を通ろうと思ったのが間違いでした。 松原線が喜連瓜破の橋梁架け替え工事のため通行止めになっていることをすっかり忘れていました。 そのため、湾岸線を通って堺まで遠回りすることになり、余裕をもって行ったはずがぎりぎりの到着になってしまいました。 新大阪駅前の駐車場でもちょっとしたトラブルがありました。 駅に一番近い駐車場付近は迎えの車が多数路上停車していますが、 中には駐車場の入り口の前で待っているマナーの悪い車もあり、なんとかそれらの車を避けながら駐車場に車を止め、改札口で4か月ぶりの対面です。
 我家に着いてからは、ガレージにセットしたプールで遊んだり、畑でナス、キュウリ、トマトやオクラを収穫したり、 虫取りをしたりと準備しておいたイベントが続きます。 孫娘は花火をするためにわざわざ浴衣を持ってきたのですが、花火を怖がって自分では手を出さず、花火を背景にした写真にだけ納まりました。 東京に帰る前日の朝、息子たちを誘って近くの法隆寺カントリークラブで早朝ハーフラウンドのゴルフを楽しんできました。 長男は飛ばし屋タイプで、当たればドライバーで240ヤードほど飛ばします。 次男は器用なタイプで、グリーン周りのプレーでうまくなる素質があります。 2人ともパーを取れたので、満足していたようです。 その日は東急ハーベスト京都鷹峯を予約していたので、枚方パークに寄って巨大な動く恐竜を見てから京都に向かいました。 チェックインの時ワクチン接種の証明書の提示を求められたのですが持っておらず、なぜ確認するのかも聞かなかったのですが、 チェックアウトの時カウンターにあった説明書で理由が分かりました。 提示すれば1人5,000円の割引があると知り、事前に確認しなかったことを後悔しました。 ここでは家内は食事の世話、私は3家族が集う狭い家から解放されてゆったりと過ごすことができました。 翌日は、山科に私の妹と同居する母親を訪問してから息子たちは東京に帰って行きました。
 帰省の行事が終わって解放された次の日、長男の妻が出産のため入院したとの連絡が入ってきました。 ゴルフ場から帰ってくると家内が旅行の支度を整えて待っていて、孫2人の面倒を見るため新幹線で千葉に向かいます。 長男宅に着くと和室に布団を用意してくれていましたが、1組はコールマンのエアーマットとバスタオルが2枚あるだけです。 布団を家内に譲りその日はテント泊のようにして寝ました。 翌日から夏季保育に行く孫の弁当作りは家内、送り迎えは私の役目になりました。 3時ごろ帰ってくるまでは自由に過ごせますので、近くのホームセンターに行き、最初に買ったのは敷布団、掛布団、枕の揃った簡易の布団セット。 我々の寝室になっている和室は子供の遊び部屋にもなっており、押し入れのふすまが取り払われていたので、間仕切り用のカーテンも買いました。 奈良に帰る日に長男の嫁が退院して孫と帰ってきました。小さい赤ん坊を抱くのは久しぶりで何かぎこちない感じです。 その日の午後博多から来た長男の嫁の母親とバトンタッチして、一週間の世話役が終わりました。

 引っ越し(令和4年4月5日)

 長男の東京転勤が決まり、3月末に引っ越しの手伝いに豊中の自宅へ行ってきました。 私の担当は、4年前ここに引っ越して来た時に取り付けた設備の取り外しです。 まず西側のベランダに出て日よけを外します。当時は竹やぶに囲まれていましたが、造成されてきれいな新築の家がたくさん建っています。 エアコンの室外機を固定する金具を利用して上段のパイプを渡し、手すりを利用して下段のパイプを固定しその間に1.8m角の日よけを設置していましたが、その役割を十分に果たしてくれていたようです。 ベランダに通じるドアーには網戸を設置していましたが、今でも網戸を巻き取る機能は健全です。 孫娘が手伝いに出て来てくれましたが、けがをしないように気を配らなければならないため作業ははかどりません。 室内では壁掛け式の扇風機を取り外します。 公団住宅のため極力柱や梁を傷つけないように直接金具を柱に取り付けずに、木の土台を通して取り付けています。 室内物干しも同様に取り付けていますが、物干しの白いパイプが黒いハンガーにこすれて真っ黒になっています。 それだけ日々使われ役に立っていたことがうかがえます。 最後はトイレの温水便座の取り外しです。 ここに引っ越してきたその日に近くの電気店で買ったもので、こまめに手入れがされて、きれいに使われています。 元取り付けてあった便座と取り換え、水を流して確認したところ全く給水されません。 取り替えた短い水道管が詰まるはずもないので、不思議に思って給水タンクをあけてみると、フロートがタンクの壁に押し付けられて下がらなくなっていました。 給水管を取り換えた時にナットを締めましたがフロートも一緒に回って動かなくなっていたようです。 一通りの作業と荷物のパッキングを終え、燃えないゴミ、実家で引き取る荷物、それに孫たちの食卓用の椅子を息子の車に積み込みました。 孫たちの椅子は低い椅子に足をつけて改良したもので4年間使われた座面のクッション部分の汚れや痛みがかなりひどい状態で、いったん持ち帰ってカバーを洗濯したり、張り替えたりします。
 4月初め、息子の車に荷物を満載して今度は千葉に向かいます。 初日は山中湖の東急ハーベストに泊まり、2日目の朝に現地着の予定です。 片側3車線の新東名は制限時速が120kmで緩やかなカーブと勾配の走りやすい道路です。 新御殿場で高速を降り、前日の雪で麓まで冠雪した富士山を見ながら山中湖に向かいます。 観光のため途中立ち寄った天然記念物の「忍野八海」は、富士山の伏流水に水源を発する湧水池で、鯉の代わりに大きな鱒が泳いでいます。 雄大な富士を仰ぐ「花の都公園」ではアクセスの長い木道の周りにたくさんのチューリップが植えられていますが、開花にはまだ早く最悪の時期に来てしまったようです。 いつものようにスーパーで晩御飯の惣菜を仕入れ、ホテルに向かいました。 見晴らしの良い部屋が予約できなかったため、部屋から富士山は見えませんが、眼下に山中湖が広がります。 翌朝まだ暗い内でしたが、カーテンを開けると一面の銀世界です。 10cmほどの積雪があり、しばらく動けないと覚悟して富士山を眺めながら雪の露天風呂に浸かっていました。 春の湿った雪のためかすぐに走行できるようになり、予定より少し遅れて千葉に向かいました。 ホテルニューオータニ幕張に2日間宿泊して息子の家に通い、引っ越しの手伝いをしましたが、いくつか作業が残ってしまいました。 ZOZOマリーンスタジアムにも近いので、次回は2度目の完全試合を期待して野球見物も兼ねて来られたらいいなと思っています。

 避難生活(令和4年2月21日)

 先週水曜日の夜、ゴルフで疲れていつもより早く床に就いていた時、京都山科に住む妹からの電話で起こされました。 隣の家に住む娘一家が新型コロナに感染し、妹も発熱したとの知らせです。 用心して食事を別にしていたので、同居する96歳のお袋に症状は出ていませんが、このまま一緒に生活していると感染しかねないので、避難させてほしいとのことです。 もうだれが罹ってもおかしくなくなったコロナで、思ってもいなかったお袋と二人の避難生活が始まりました。
 翌日、大根、白菜、キャベツやブロッコリーなど畑で採れた野菜を車に積んで、山科に向かいます。 途中、薬局に寄ってフィルター付きのマスクや消毒スプレーなどを買ってから検査キットも探しましたが、承認を受けていない検査キットだけが高い値段で売られていました。 妹の家に着いてリビングのドアー越しに事情を聴くと、保健所には連絡をしたが、「PCR検査をしますか?cocoaに入力して下さい。」とだけ言われ、その後は電話も通じないそうです。 耳が遠く、足も悪いのですが、トイレは自分でできるお袋を2階に迎えに行って車に乗せました。
 濃厚接触者で感染している可能性もあるので、最初に宿泊した東急ハーベスト京都鷹峯では2部屋とって食事もそれぞれの部屋でとります。 翌日、市内観光でもと思って三千院に向かいましたが、駐車場からちょっと歩かなければならないので引き返してきました。 帰りに北野天満宮に寄りましたが、駐車場から本殿への100mほどの距離も足の悪いお袋には無理なようで、門を入って梅をちらっと見ただけでホテルに戻りました。 連休に入って継続して予約が取れなかったので、3日目は奈良の自宅に連れて行きました。 潜伏機関が3日なのでお袋は感染していないと思うのですが、玄関ではファブリーズで除菌し、食卓のテーブルも対面になるのを避けるため別のテーブルを出して厳戒態勢です。 普段家ではマスクはしませんが、家内はマスクを2重にしています。 お袋は朝も遅くまで寝ていて、昼寝の時間も長いため具合が悪いのかと疑ったりしますが、睡眠時間が長いだけでいたって元気です。 ただ、環境の変化に慣れずにしきりに帰りたがります。
 避難生活4日目は東急ハーベストの有馬です。ホテルの部屋は快適で温泉も素晴らしいのですが、缶詰状態で楽しむ気にはなれません。 温泉にゆっくり浸かってのんびりできると思っていましたが、介助が必要なお袋と二人きりで、スーパーで買ってきた食事を別々にとり、本を読むかオリンピックのテレビを見る以外にすることもなく段々苦痛になって来ました。 5日目は有馬連泊。ホテル生活も長引くといやになってきます。 お袋も家に帰りたいと言うので、半年ほど空き家になっている大津の実家に戻ることにしました。 電気と水道は使えますが、ガスは止まっています。 暖房はホットカーペットと電気ストーブでとるようにし、居間に布団を敷いて生活できるようにしました。 その日はお袋を実家に残し、私は京都鷹峯に泊まりました。 妹とは毎日連絡を取りあって様子を伺いましたが、孫達がすぐに回復したのに比べ、大人は熱と倦怠感が続いたそうで、風邪よりもきついようです。 妹の娘が一足早く回復したため実家にいるお袋を迎えに行ってもらい一週間に渡る避難生活が終わりました。
 お袋と二人で過ごすのは小学生以来のことで、普段あまり意識することのない遠い存在ですが、お袋の老いを感じるとともに自分の20年後を考えさせられる時間でもありました。 今回の避難生活は最後の親孝行になったのかも知れません。

 お宮参り(令和3年12月16日)

 その日の朝王寺駅に着いたのは、新大阪までの直通快速に乗る15分前です。発券機の前ではおばさんが、受話器を持って画面に映っている係の人と話しています。 どうやら発券の方法がわからず聞いているようです。5分ほどしてようやく発券機が空いたので、いつものようにEX予約の発券を選択して、JWESTのカードを入れましたが受け付けてくれません。 今度は私が発券の方法を聞くことになってしまいました。昨年3月にきっぷの受取方法が変更になり、クレジットカードでの受け取りができなくなったそうです。 EX予約専用ICカードまたは「受取コード」とログイン時のパスワードが必要なようですが、ICカードは持ってきていませんし、緑の窓口もまだ開いていません。 一連の操作を電車に乗る前に終わらせるのは無理なようなので、きっぷは新大阪駅で発券することにして直通快速に乗り込みました。 早速、スマホでEXPRESS予約のページを立ち上げ、ログインします。予約したときには気づかなかった予約、確認、変更欄に「切符の受取コード発行」欄が追加されています。 ここをタップして、メールアドレスに送られてきた「ワンタイムパスワード」を入力すると、きっぷの受取コード(QRコード)が発行されました。 新大阪駅でようやく発券することができましたが、スマホがなければ新幹線にも乗れない時代になったようです。
 東京駅で山手線に乗り換え上野の東京国立博物館に向かい、事前予約しておいた11時からの列に並びます。 ここで特別展「最澄と天台宗のすべて」が開催されています。入館して最初に目を引いたのは国宝「聖徳太子及び天台高僧像」。 現存最古の最澄の肖像画を含む、インド・中国・日本の天台ゆかりの人物たちを描いた平安絵画です。 1時に赤坂見附にある日枝神社でお宮参りに立ち会うため、ゆっくり観賞はできませんでしたが、最後に圧巻の像が目に飛び込んできました。 深大寺の元三大師像は等身大で造られることが多い肖像彫刻にあって、坐像でありながら2メートル近い巨像であり、 僧形の古像としては日本最大の大きさだそうです。 元月三日に入滅されたことから、元三大師の通称で広く親しまれており、全国のお寺や神社で引かれている、おみくじの創始者としても有名です。
 上野から地下鉄日比谷線で赤坂見附駅まで行き、隣接する山王稲荷神社の千本鳥居の階段を上って日枝神社に向かいました。 境内は結婚式、七五三やお宮参りの参列客でごった返しています。 東京で暮らす息子たちと落ち合い、孫のお宮参りを済ませた後、記念写真は日枝神社へ来てくれたカメラマンが撮影してくれます。 慣れた誘導で撮影スポットに立たせ、大きなカメラで写真を撮って行きます。 私もいろいろなポーズを要求されましたが、赤ん坊を抱くのは久しぶりなためどこかぎこちないスタイルで写真に納まりました。 撮影が終わってから息子たちと別れ、八重洲の大丸で夕食の食材を仕入れてからこの日泊まる東急ハーベスト熱海に向かいました。 翌日タクシーでMOA美術館に向かい、途中土石流の跡を見たかったのですが、そんなものには興味が無い家内に反対され、美術館へはバスで行きました。 MOA美術館は相模灘を見渡す高台に建つ「海の見える美術館」で、尾形光琳筆、国宝「紅白梅図屏風」をはじめとする国宝3点を含む約3500点を所蔵しています。 エントランスから長いエスカレーターを乗り継いで最上階の入口から入り、ゆっくりと観賞することができました。 昼頃熱海駅近くのすし屋で予約しておいた海鮮丼をテイクアウトしてこだまのグリーン車で大阪まで戻り、一連のお宮参りの行事を終えました。

 恐竜博物館(令和3年11月3日)

 福井県の丸岡城が築かれたのは戦国時代。一向一揆への備えとして織田信長の命により柴田勝家が甥の勝豊に築かせました。 天守を支える石垣は「野づら積み」という古い方式で、すき間が多く粗雑な印象ながら排水がよく大雨に崩れる心配がないといわれています。
 前回の福井県立恐竜博物館行きでは、1日孫たちとは別行動をとり、主だった観光地を回ったため、近くで残っている観光地は丸岡城と東尋坊くらいです。 今回、初日にその両方を観光するつもりでしたが、午前中に予約した歯の治療が長引き、家を出たのは12時を過ぎていました。 丸岡城に着いたのは4時半で、ちょうどチケット売り場のシャッターが閉まり始めた時でした。 遠くから石垣を眺めただけで丸岡城を後にしましたが、次の目的地の東尋坊は諦め、予約しておいたお寿司を取りに行くため、坂井市の春江に向かいました。 すし店近くのスーパーで夕食の惣菜も買い求め、スキージャム勝山に向かいます。 東急ハーベストに着いた時はもう日が暮れていましたが、幼稚園を終えてから豊中を出て少し前に着いて待っていた孫たちが出迎えてくれました。
 次の日は朝一番から恐竜博物館での見学です。恐竜の骨格など学術的な展示がメインで動く恐竜も少しありますが、アミューズメントの要素は少ないようです。 孫娘の方は動かない展示物にはあまり興味を示さず、私の手を引いてどんどん先に進むので、みんなとはぐれてしまいました。 孫娘が最も反応したのは恐竜のぬいぐるみです。水色のブラキオサウルスが座ったポーズのぬいぐるみが気に入ったようです。 売り場を離れてから何度もその売り場に戻そうと私の手を引いて連れていきます。 値段は3.500円ほどですが、別の売り場に同じ形の少し小さなぬいぐるみがあったので買い求めると、早速ブラちゃんと名付けて抱きしめていました。 博物館を出てから昼食の時間までまだ少し時間があるので、同じ敷地内にある恐竜ランドに行って巨大昆虫探検のバスに乗り込みました。 そのあと動く恐竜のいる小道を散策しましたが、前回肉食恐竜が草食恐竜を襲って食べているシーンを見て、怖くて走り抜けていった男の子の孫は、今回はじっくり見学できたようです。 出口近くに小さな船を浮かべたプールを見つけた孫娘は、またもや私の手を引いてどんどん近づいていきます。 自分の興味のあるものに出会うとそうした行動をとるようです。船の横に着いた外輪を動かすハンドルを手で回し、前後にぶつかりながらも楽しそうでした。 博物館近くのそば屋で昼食をとってから、大きな滑り台などがあるアドベンチャー広場で遊び、孫たちが予約している化石発掘体験の時間に私たちは夕食の惣菜を買うためにスーパー「かじそう」に向かいました。 福井県では数多くのチェーン店を持っているスーパーのようで、今回はお寿司もここで仕入れました。 ホテルに帰ってからゆっくりと温泉に浸かり、孫たちが帰って来てからは昨日と同じようにホテルの部屋での宴会です。
 最終日は雨が降っていたので、朝食後早めにチェックアウトして帰る途中彦根インターで降りました。 仕事で来るたびに寄る馴染みのそば屋で昼食を取ってから彦根城の見学です。 天守までは緩やかな階段ですが、孫娘は自分で歩こうとしないので、上り下りの抱っこで手がしびれます。 天守閣の中は急な階段で最上階からは琵琶湖や石田三成の居城佐和山城が望めます。 天守前で30分ほど待って「ひこにゃん」に会ってから帰りました。
 現存する天守閣があるお城は日本全国に12城あるそうです。 期せずして今回の観光では「現存十二天守」のうちの二天守を見ることができました。

 白浜アドベンチャーワールド(令和3年10月8日)

 福井恐竜博物館から、新型コロナウイルスの感染拡大のため、9月30日まで臨時休館を延長するとのメールが届き、シルバーウィークの予定を急遽白浜のアドベンチャーワールドに変更しました。 出発の日の18日は、迷走していた台風が瀬戸内海を横断するように通り、紀伊半島は朝まで風雨の強い状態が続いています。 家内と私は、熊野古道伊勢路の残っている区間を歩くつもりでしたが、行けそうもありませんので、昼過ぎに家を出て東急ハーベスト南紀田辺に向かいました。 孫たちは近くの新庄公園で遊んでいたらしく、水遊びでびしょびしょになった服を着替えてホテルにやって来ました。 温泉でゆっくりとした後、いつものように近くのスーパーで買ったビールや新鮮な魚の寿司、総菜を持ち込んでの夕食です。
 翌日は台風一過の快晴。コンビニに朝食の食材を買い出しに行くのは孫たちの楽しみで、好きなお菓子をカゴに放り込みます。 開園時間に合わせてホテルを出ましたが、連休初日のため、園に向かう道路はかなり渋滞していて、広大な駐車場が次々と車で埋まって行きます。 入園してすぐの広場にいるペンギンやレッサーパンダに、孫たちは早くも興奮気味です。 最初にお目当てのサファリトレインに乗るために並びましたが、すでに始発から20分待ちの状態です。 来たばかりなのに孫娘は眠ってしまい、放し飼いされた動物を見ることもなく駅に戻ってきました。 新しく生まれたパンダの見学は長蛇の列ですが、ここでは何度も繁殖に成功していて数が多く、外にいるパンダは自由に見られます。 よほど暑いのか、台の上から首を外へ垂らしてだらしない格好で寝ていました。 次のイルカショーは開演直前だったため、広い観客席の端の席しか空いてなく、変わった角度からの見学でしたが、迫力は満点です。 後日アップされた「mitene」の動画で孫たちは、買ってもらったイルカのぬいぐるみでジャンプやイルカ乗りのショーを再現していました。 次の動物ショーの会場もほぼ満席でいろいろな動物が登場しますが、会場内の観客の上を鷹が飛ぶショーは迫力があります。 お昼を過ぎてレストランエリアに行くと、注文に長蛇の列で席も全部埋まっていて食べられず、ようやく空いた席を見つけて食事できたのは1時を過ぎていました。 昼食後、孫たちは小動物のゾーンで、餌やり体験や触れ合いを楽しんでいたようですが、私は日陰のあるベンチで休んでいました。 最後に孫娘にせがまれて観覧車に乗りましたが、コロナ対策の消毒で一つ飛ばしにしか乗せないため、乗車待ちの列はなかなか進みませんでした。
 3日目は男の子の孫の要望により、「とれとれ市場」の傍にあるイケスでの海釣りです。 途中道路工事で通行止めになっていたのですが、説明に来てくれた交通整理員のおじさんの説明が要領を得ません。 雨に濡れて塊になっている回り道を示す案内書の一枚を引きはがして、びしょびしょの紙を渡してくれました。 「とれとれ市場」をぐるっと回るようにして釣堀に着くと、ファミリー釣場は30人ほどの釣客で埋まっています。 説明を聞いて竿を借り、餌のエビを針に付けて投げ入れてもそう簡単には釣れません。 しばらくして、もう帰るという方から団子の餌をいただき、それで釣ると面白いようにイサキやタイが釣れ始めました。 しかし、潮が止まってからは釣れなくなり、結局10匹ほど釣った所で2時間のタイムオーバーです。 クーラーボックスに氷を詰めて持ち帰った息子は、文化包丁一本で捌いたそうですが、かなり大変な作業だったようです。 帰りに梅干しを買うため紀州梅の里なかたの直売所に寄りましたが、コロナの影響で試食できなくて孫はがっかりした様子でした。

 GO TOトラベル【その2】(令和2年8月21日)

 スキージャム勝山は、西日本最大級のスノーリゾートのゲレンデフロントに位置し、冬はスノーワールド、夏は高原リゾートなど一年を通して満喫できるリゾート地です。 ホテルの部屋はコネクティングルームでベランダからは広いゲレンデが一望できます。 先ずは温泉にゆっくり浸かってから、夏休み期間中は半額になっていた有料道路を往復して、注文しておいたお寿司を取りに行きました。 食事の準備ができたところでいつもの様に部屋での賑やかな宴会が始まりました。
 次の日、天気予報は雨ですが午前中は止み間もあるとのことで、かつやま恐竜の森にあるかつやまディノパークへ向かいました。 実物大の恐竜模型を展示する屋外のアトラクション施設で、全長460mのコースを20分ほどで散策できます。 隣接するもう一つのアトラクション「巨大昆虫冒険ツアー」が待ち時間なしだったので、専用トラムに乗って巨大昆虫の住む森を巡るツアーから始めました。 ツアーを終えパーク内に入ると、全長20mのマメンチサウルスや、全長13mのティラノサウルスなど巨大恐竜が各所に登場します。 プテラノドンが大空を舞う羽音、ティラノサウルスの雄叫びなども聞こえてきます。 男の子の孫は恐竜が大好きですが、草食恐竜が肉食恐竜に食べられているシーンが怖いらしく、できるだけ近寄らないように道の端を足早に通り過ぎていきます。
 午後からは車で30分ほどの距離にある石川県白山恐竜パーク白峰へ向かいました。 施設は古く規模は小さいのですが、館内には、ディプロドクスの骨格レプリカやティラノサウルスの模型等が展示されています。 お尻がかゆくなるので見ているだけにしましたが、パーク内には40mのダイナ・スライダーや遊具があり、孫たちは楽しそうに何度も滑っていました。 途中雨が降って来たので、大きな蕗の葉を傘代わりにして孫娘を抱え、急いで館内に避難しました。 ホテルに帰ってゆっくりと温泉に入ってから、この日の夕食はバイキングです。 コロナの影響でバイキングが中止になっている所が多いのでどんなスタイルなのか気になっていましたが、小さなお皿に分けられた料理が並んでいてそれをトレーに取っていくスタイルです。 いつもの持ち込みとは違ってメニューも豊富で好きな物を選べる食事に孫たちも満足な様子でした。
 翌日は恐竜博物館の見学を予約していましたが、人数制限があり孫たちは午前中、私たちは午後の部しか予約ができませんでした。 昼食に近くの食堂で待ち合わせることにして家内と二人で近くを観光することにしました。 最初に行ったのは隣の大野市にある天空の城越前大野城です。 麓の駐車場に車を止め、かなりの高低差のある階段をひたすら登り詰めて天守閣に着きました。 天和2年(1682年)に大老・土井利勝の子、土井利房が大野城主となると、幕末まで約180年の間に、土井家から8人が城主となったそうでその家紋は六本杓。 江戸の頃より尾鷲で林業を中心に繁栄した土井家と同じ家紋で、両家は関係がありそうです。 次に向かったのは「白山信仰」の聖地白山平泉寺。白山信仰の巨大拠点として栄えましたが、戦国時代に一向一揆により全山が焼失してしまいます。 ひっそりとした拝殿の辺りは苔の美しい景観が広がっています。 最後に訪れたのは清大寺。地元の実業家が観光目的で開いた寺に高さ17mの大仏を建立しましたが、周辺の門前町はゴーストタウンの様なバブル期の遺産です。
 待ち合わせの食堂で昼食をとった後、孫たちと別れ博物館へ向かいました。 学術的な展示がメインでテーマパークの様なアトラクションを期待できないので孫たちには難しかったようです。 一通りの展示を見て私たちも帰路に着き、GO TOトラベルが終わりました。

 GO TOトラベル【その1】(令和2年8月5日)

 福井県勝山市では白亜紀前期のワニ化石を皮切りに、恐竜の骨や足跡が相次いで発見され、福井県は日本の恐竜研究の中心として注目を集め、恐竜王国と呼ばれるほどになりました。 GO TOトラベルの初日、恐竜が大好きな孫の憧れの地勝山を目指し、奈良と大阪からそれぞれの車で2泊3日の旅に出ました。 1日目、孫たちはかつやま恐竜の森で化石発掘体験に参加し、家内と私はNHK番組のブラタモリ福井・一乗谷編で紹介された観光地でブラタモリの足跡を追うことにしました。 北陸道を走っていて福井県に入った辺りで、私たちの車の横を並走する車に気が付きました。 ピンポイントで出会うのは珍しいことですが、孫たちが車内から手を振っていました。 しばらく一緒に走っていましたが、私たちは福井インターで降り、恐竜が出迎えてくれる福井駅前の広場を一周して一乗谷に向かいました。
 ブラタモリのテーマは、「福井のルーツは消えた都市にあり」です。 消えた都市とは、戦国大名・朝倉義景の城下町、一乗谷です。足羽川に注ぐ支流が流れる険しい山に囲まれた谷間、奥行き1.7キロに、推定1万人もの人が暮らしていた大都市です。 織田信長に焼き払われ、100年で消えてしまいました。 しかし、発掘が進み、新発見が相次ぎ、日本遺産に指定されました。 最初、情報を得るために近くの資料館に入りましたが、検温、アルコール消毒、住所氏名の記入とコロナ対策が徹底されています。 史跡近くの駐車場に車を止め一乗谷を奥へ進むと、水路や家の礎石の跡が見られます。 戦国時代の町屋の町並みが、そのまま発見されたエリアで、道路の幅や家の大きさもわかります。 さらに奥に進み、朝倉義景氏の館の跡が近づくと、城下町の武家屋敷の町並みが、復原されています。 町屋が混在しているのは、戦国時代が進むと経済が発展し、商人の活動範囲が広がったと考えられます。 井戸からは、ベネチアングラスが出土しており、一乗谷は、水運で、現在の福井市を介して、世界とつながっていたそうです。
 次に向かったのは車で30分ほどの距離にある曹洞宗大本山永平寺です。 門前に土産物屋が並び、そこで飲食か買い物をすると駐車料金が免除されます。 土産物屋の2階の食堂で名物の蕎麦を食べていると激しく雨が降り出しました。 旅行期間中の天気予報は全て雨でしたが、雨に会ったのは室内か乗り物の中で、外にいる時はたいした雨には会わずに済みました。 20年ぶりの訪問で七堂伽藍を参拝しましたが、奈良や京都の寺と比べ修行の場という印象が強く感じられました。 永平寺を開いた道元が修行していた当時の比叡山は、天台本覚思想の教え「草木国土悉皆成仏」がさかんでした。 それは草木だけでなく国土でさえ「仏性」を持ち成仏できるという考え方です。 鎌倉時代初期に現れた、いわゆる「鎌倉仏教」の祖師方は、この「天台本覚思想」に何かしらの反発、超克を目指して独立したとされていますが、目指すところは「悟り」です。 浄土宗や浄土真宗は、念仏を唱えれば往生できるというところが特徴です。 日蓮宗はちょっと独特でお題目を唱えます。 曹洞宗の宗祖道元は「悟り」を目指す方法として「只管打坐」を説きました。ただひたすら座り続ける坐禅修行のやり方です。 実家の宗派は曹洞宗ですが、坐禅とは縁遠い環境で育ちました。 永平寺の参拝を終え、勝山市内のスーパーで夕食の惣菜を買い求め、東急ハーベストクラブスキージャム勝山に着くと、化石発掘体験でくたくたになった孫たちがロビーで待っていました。

 2語文(令和元年11月17日)

 1才半~2才半になると、「パパ、いた」「わんわん、行っちゃった」など、単語と単語をつなげて話すようになります。これが二語文です。 また、このころには、自己主張が強くなり、「イヤ」「ダメ」など否定的な表現も出てきます。 1年間で200以上も語彙が増え、「痛い」「熱い」などの状態を表す表現も豊かになります。 二語文を話せるようになることで、それまで「マンマ」や「ニャンニャ」と1つの単語だけで表現していた子供が、どうしたいのかなど気持ちをより伝えられるようになるそうです。
 2歳になる孫娘が私に対して使う2語文の一つは、「おじいちゃん、ここ」です。 遊んでいて腰掛けるときに横に座るように、とんとんと手でたたいて隣に座るように促します。 狭くて並んで座れない場合でも、自分の隣に座るように要求します。 近くの親戚が大勢集まった食事会の席でも、自分の隣の空いた席を指してそこに座るように言います。 
 もう一つの2語文は「おじいちゃん、おきゆの(起きるの)」です。 相手するのに疲れてちょっと横になっていると、起きてもっと自分と遊ぶように要求してきます。 畑の芋ほりや庭のブルーベリー採りなどに誘って、月に2度ほど遊びに来ますが、「おじいちゃん、おきゆの」と言って寝ている私の手を引いて2階に連れていきます。 PCの家族アルバム(mitene)で自分が写っている動画を見るのが好きなようです。 先日の幼稚園に通う上の孫の運動会では、孫娘のお相手は私の役割です。 前日の雨のため体育館で開かれた運動会をおとなしく見ているような孫娘ではありません。 始まってすぐに「お外行く」と連れ出され、外での遊びに付き合いました。 落ちてある棒を拾って何かをするのが好きなようで、地面に何かを書いたり、水たまりに突っ込んでかき回したりして運動会が終わるまでそんな遊びをしていました。
 会えない時の日常は、母親が家族アルバム(mitene)にアップする写真や動画で見られます。その中に、たくさんの2語文を使って楽しそうに会話する動画がありました。
【砂場の縁に立って】
孫:「みんな じょうずね」「じゃあ ぐー ちょぴ ぱーで なにつくろー、しよっか」「ゆらゆらごっこ、しよっか」
母:「あ!してして」
孫:「みなで ゆらゆらごっこ」
母:「あ!いいね いいね」
孫:「ゆらゆらごっこしようか」
母:「ゆらゆらごっこしようか」
【ジャンプして砂場で転ぶ】
孫:「ぐー ちょぴ ぱー じょうずよ」
母:「あ!そうだね ぐーちょきぱーじょうずね」
孫:「もいっかい ぐー ちょぴ ぱーで なにつくろー、しよっか」
母:「ん!ぐー ちょぴ ぱーで なにつくろー、するの」
孫:「いくよ ジャンプ」
 銀より金より宝玉よりも尊いものは子どもと万葉の歌人山上憶良は歌いました。なるほどその通りだとつくづく思うのは、子育ての当時より孫を持つ今の自分かも知れません。

 初めてのかじか荘(令和元年8月2日)

 三重県南部に「見えないものが見える川」と呼ばれる"奇跡の川"があります。 全長わずか17kmの小さな川、銚子川。理由はその透明度です。源流から河口まで、水中で20メートル先まで見通せるほど透き通っています。
 大阪から来る息子家族の初めてのかじか荘訪問イベントは、この川の河口近くにある権兵衛の里から始まりました。 昼少し前に駐車場に車を止め河原に降りていくと、NHKの番組で見た通りの透き通った水がゆったりと流れていました。 早速河原にタープを張り、孫たちの川遊びの準備に取り掛かります。 両側に天板を取り付け大きくできるようにした折りたたみ式の木製のテーブルを組み立て、その上にテーブルクロスを広げます。 準備が整い、近くの道の駅に昼食を買いに行った家内を待つ間、一人のんびりと川を眺めていましたが急に雲行きが怪しくなってきました。 ぽつぽつ降り始めた雨が激しくなり風も出て来て、周りでテントやタープを張っていた家族ずれが撤収を始めました。 川遊びはあきらめようと椅子をたたんで駐車場へ引き上げてきたところ、孫たちは既に着いていて雨を避け車の中で待機していました。 雨雲レーダーでは、15分ほどで雨が上がるとの予想ですので、しばらく待ってから河原に戻ることにしました。 予報通りに雨が上がり、ライフジャケットを付けた孫2人は、水の冷たさに臆することなく川遊びに興じていました。 渓谷のすぐ上を電車が通るのも珍しく、電車好きの孫にとっては満足のいく体験になったようです。
 2時間程遊んでから尾鷲に向かい、魚市場「おとと」でマグロや生シラスのお寿司を仕入れ、次に向かったのは夢古道の湯です。 温泉ではありませんが、全国的にも珍しい海洋深層水を使ったお風呂で汗を流してから梶賀へ向かいました。 中古住宅を購入してDIYでリフォームを始めてから2年になりますが、家族がここへ来るのは初めてです。 夢古道の湯を出たころから雨が激しくなり、梶賀の駐車場に着いた時は土砂降りの雨で車から出られません。 雨雲レーダーの予報を見ながらしばらく車の中で待機していましたが、小降りになったのを見計らってかじか荘へ向かいました。 いつもの様に背負子を担いで傘を持ち、孫を抱いて階段を上ります。 2往復して必要なものを運び上げました。新鮮なお魚のお寿司と家内の料理に満足してその日のスケジュールが終わりました。
 次の日の明け方、日本付近で発達した台風6号が尾鷲を直撃し、激しい雨風が吹き荒れました。 翌朝一時雨が止んだ時、台風の目が通過していったようです。 その日海に行く予定は取り止め、雨の上がった午後から釣りに行きましたが、台風の影響があるのか何も釣れませんでした。 夜は、前の家のOさんの息子さん家族を交えての懇親会です。 息子同士が山口県にある水産大学の同窓生という縁でお招きしました。 食卓には魚の卸しの仕事をしておられる息子さんが捌いたオオモンハタ、イサキ、タコの刺身が並びどれも新鮮で絶品です。 孫同士はすぐに打解け、掘り炬燵の中に入ってのウサギ小屋ごっこではしゃいでいました。
 翌朝は台風一過のいいお天気で、隣町の三木里海水浴場へ行きました。 オープンウォータースイミングの国体予選があり、海岸近くの駐車場は既に満車です。 中心から少し離れた海岸に車を止め、タープとテーブル、椅子を水際にセットしてビールを飲みながら孫たちの水遊びを眺めていました。 砂は白く水は透き通っていて都会近くの海とは違います。 この夏には大学の友人達も孫を連れてここへ遊びに来ます。 私の道楽を切掛けに始まった「かじか荘」が、孫たちの海や川の思い出作りの場になればと思っています。

 お食い初め(令和元年7月19日)

 赤ちゃんが生まれてから100日ほど経つと行う儀式がお食い初めです。 子供がこれからの人生で食べ物に困ることがないようにとの願いを込めた儀式です。 また、ちょうど赤ちゃんに歯が生え始める時期でもあるため、歯が生えたことを喜ぶという意味も込められており、歯固めという名前でも呼ばれています。
 先日東京で暮らす次男の招きで、明治神宮で行われた初節句に続くこの儀式に参加してきました。 有楽町にある和食レストラン「梅の花」に迷いながらたどり着くと、孫はスイングベッドですやすやと眠っています。 起きてから儀式を行うことにして、落ち着いて湯葉や豆腐料理がメインの食事から始めました。 しばらくして起きたので、係りの人に連絡するとお食い初め膳が運ばれてきました。 献立の基本は、一汁三菜です。赤飯、お吸い物、煮物を2品と梅干を入れた香の物、尾頭付きの焼き魚の6品に歯固めの石を加えた献立です。 実際に食べさせるわけではありませんが、同性の年長者の私が、これらの献立を食べさせる真似をしました。
 一連の行事が終わった後、有楽町の駅で息子たちと別れ、その日宿泊する伊東へ向かいました。 新幹線に乗る前に大丸の食料品売り場に立ち寄り、夕食と朝食の料理それに日本酒やワインなどを仕入れました。 こだまで熱海まで行き、伊豆高原鉄道に乗り換えて伊東へ向かいます。 駅から東急ハーベスト伊東までは小雨の降る中、痛みの残るゴルフ肘でトランクを引っ張りながら歩いて行きす。 松川に架かる橋を渡ってから川沿いの遊歩道に入ります。 このあたりは大正時代から昭和初期にかけて伊東温泉の中心だった所で、現在も歴史ある温泉旅館の建物が残っています。 東急ハーベストに着いてからは、温泉に浸かって浴衣に着替え、持ち込んだ料理を部屋でくつろいで頂きました。
 翌日は、伊豆高原駅の周りを散策してから、家内が母親達と行ったことのある鮪屋で昼食をとることにしました。 駅で薦められた城ケ崎海岸に続く対馬川沿いの細い道を行き、橋立吊り橋に向かいます。 雨で増水した川は勢いよく流れていて、水量たっぷりの対島の滝が直接城ケ崎の海へ流れ落ちていました。
 11時過ぎにお目当ての鮪屋に着くと準備中の看板が出ています。 店の前のベンチに腰掛けて待っていると、11時30分の開店までに10名ほどの客が並びました。 大きな看板に書かれたメニューが置いてあり、その中にマグロぶつ切り丼がランチより少し高めの値段で提供されています。 限定9食の文字に引かれそれを注文することにしました。 カウンター席には私達夫婦と若いカップルの4人が案内されました。 隣のカップルが注文した料理が先に運ばれてきましたが、うず高く切り身のマグロが積まれた丼が出て来ました。 注文した限定9食に期待が膨らみますが、運ばれてきたのは同じ大きさの丼の上にぶつ切りのマグロが乗ったものです。 しかし隣の丼とはマグロの量が違います。私の方の丼はご飯が隠れるほどのマグロは乗っていません。 どうやら隣のカップルが注文したのは私の注文の倍の値段がする丼のようです。 量に不満は残りますが味はよく、本物のわさびを擦りながら美味しくいただきました。 マグロだけを焼酎のあてにして食べましたので、最後にご飯だけが残ってしまいました。 マグロのなくなったご飯の上にお漬物とガリを載せ、たっぷりとわさび醤油をかけて頂きました。 限定9食に騙されたよう感じがしますが、ここでは私が持っている数字の価値観は通じないのかも知れません。

 仁和寺観音堂(令和元年6月3日)

 仁和寺の歴史は平安時代、第58代光孝天皇が大内山南麓に阿弥陀三尊を本尊とする一寺の建立を発願されたことに始まります。 光孝天皇は、完成前に崩御されましたが、遺志を継いだ第59代宇多天皇によって、仁和4年(888年)に金堂が完成、元号から仁和寺と命名されました。 宇多天皇は譲位した後出家して仁和寺に室(僧坊)を営み、初代住持として生涯を真言密教の修行に過ごされました。 以来、仁和寺は御室御所と敬称され、皇室出身者が仁和寺の代々住職(門跡)を務め、平安~鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保ちました。 しかし、仁和寺の伽藍は、応仁の乱の戦火を受けてその大部分を焼失します。 現在の伽藍のほとんどは、江戸初期の寛永年間に、第21代覚深法親王が、3代将軍家光の援助を受けて再建されたものです。
 先日、京都鷹峯で宿泊した翌朝、家に帰る途中少し寄り道をして、平成の大修理が完成した仁和寺観音堂を訪れました。 駐車場で車を止め砂利道を歩いて行くと、周りに樹高が低い桜が植えてあります。 「わたしゃ お多福 御室の桜 はなは低うとも 人は好く」と花と鼻を掛け合わせた都々逸は知っていましたが、 仁和寺の桜を御室桜と云うことを知らなかったので、御室桜みたいだと家内に話すと、これがその御室桜だと教えられました。
 観音堂の前には梵字の書かれた木製の塔が2本立っており、五色の紐が垂れ下がっています。 本尊の千手観音の手と結ばれている紐で、これを握り手を合わせ結縁を結びます。 観音堂に入ると、須弥壇に千手観音菩薩像、その両脇に不動明王・降三世明王像、眷属として二十八部衆像、雷神、風神が祀られています。 須弥壇の前に並べられた椅子に腰かけて待っていると、若いお坊さんの説明が始まりました。 印象に残ったのは風神・雷神の説明です。風神像の手の指は4本、雷神像は3本です。 風神の手の指4本は東西南北を現し、雷神の手の指3本は過去、現在、未来を、足の指2本は天、地を現しているそうです。 須弥壇を囲むように障壁画が描かれており、三十三観音菩薩や人が死後に向かうとされる六道の世界が描かれています。 絵に描かれている風神・雷神の手の指の数は5本で、人間に近くなると災いの元になるようです。 これだけ間近に観られる機会はめったになく、しばし密教の世界に浸ることができました。
 前日の東急ハーベスト京都鷹峯では、息子たち家族、大津の実家から90代の両親、それに京都山科に住む妹家族が合流して、一族4世代が揃いました。 皆で温泉に浸かった後、お寿司や中華料理、それに飲み物を全て持ち込んでの宴会が始まりました。 途中何度も孫娘が、テーブルを回って対面に座っている私を引っ張り出しに来ます。 その都度席を立ってキッズルームに付き合いました。 孫娘は自分の行きたい方に私が行こうとしないと「チッチッ(こっちこっち)」と自分の行きたい方向を指して右足を踏み鳴らします。 彼女なりの意思表示の特徴ですが、もう一つ面白いこだわりを持っています。 それは外出の時には必ずヘルメットを被ることです。食事の時も外そうとすると嫌がります。 午前中に行った交通博物館では、電車の運転手の帽子をかぶって写真を撮るコーナーで、ヘルメットの上からその帽子を被った写真が写っていました。 よほどお気に入りのヘルメットのようですが、彼女にとっては外で自由に遊ぶ時の象徴のようなものかも知れません。 皆のスケジュールが合わないとなかなか実現しませんが、両親が健在で参加できる間は、このような一族4世代の親睦会を続けて行きたいと思っています。

 一期一会(平成31年2月19日)

 東急ハーヴェストクラブは、ホテルの不動産所有権を複数のオーナーで所有する会員制リゾートホテルです。 別荘のような感覚で全国にあるホテルに宿泊できますので、友人や親族を誘って、近くにある京都鷹峯や有馬六彩をよく利用しています。 先日は、ホームグラウンドの南紀田辺から届いた無料招待券を利用して、長男家族と白浜のアドベンチャーワールドへ行ってきました。
 南紀田辺へ行くには以前は、西名阪と阪和道を利用していましたが、京奈和道が開通してから少し時間はかかりますが、 無料の高速道路を利用するようにしています。 待ち合わせの時間に十分間に合うように家を出たのですが、途中の橋本東インターで通行止めの掲示板が出ています。 車のナビ情報が古いため、京奈和道の全線は表示されておらず、したがって通行止めの区間が分かりません。 一般道を走り、次の橋本インターに向かうと、入口が閉鎖されており、その次の高野口インターも閉鎖されていました。 ネットで調べて、やっとその次の紀北かつらぎから乗ることができました。 交通整理員は配置されていましたが、わかりにくい規制で、私のほかにも何台もの車が入口でUターンしていました。 結局1時間ほど遅れてアドベンチャーワールドで合流し、先に昼食をとることにしましたが、お目当てのレストランは満席で何組も待たなければなりません。 近くのフードコートへ戻り、ちょうど空きかけの席を確保して待たずに食事をとることができました。
 昼食後、パンダ園に向かいましたが、ここも長蛇の列です。 すぐそばにサファリワールドを周るケニア号の乗り場があり、10分ほどの間隔で巡回していたので先にこれに乗ることにしました。 列車タイプの乗り物と放し飼いにされている動物たちを見て孫たちは興奮気味です。 戻ってくるとパンダ園の列は短くなっていましたので、Uターンを繰り返しながら親子のパンダを見学しましたが、 2頭ともぐっすり眠っており全く動きません。 色も写真で見るような白と黒の鮮やかなツートーンではなく、白い部分は汚れてほとんど茶色です。 最後に白クマとペンギンを見て駐車場に戻り、ホテルに向かいました。
 その日の夕食は、土曜日限定のバイキングです。 3歳になる男の子の孫は無料ですが、マグロを中心にほぼ一人前の量を食べていました。 翌朝は、息子たちは朝食バイキングでしたが、私たちと孫娘は、近くのコンビニで買ってきた別メニューにしました。 孫娘は口の周りをべとべとにしながら、納豆の海苔巻きとスティック状のパンを手づかみで平らげて行きます。 息子たちは手のかかる孫娘とは別行動だったため、久しぶりにゆっくりと朝食がとれたようです。 チェックアウトしてから広大な敷地にたくさんの遊具が備えられている新庄公園へ向かいました。公園の隣に梅園があり、満開の白梅が見事です。
 お昼近くまで遊び、昼食をとるため近くの「とれとれ市場」に向かいました。 何度も来たことがありますが、広い駐車場がこれほど埋まっている光景は見たことがありません。 中に入ってフードコートの長蛇の列を見た瞬間、ここでの食事をあきらめ、道路を挟んだ向かいの回転寿司店に入りました。 孫娘は海苔巻きを手づかみで食べ、茶碗蒸しの入った器を両手で持って飲もうとします。 ほとんどベビーエプロンのポケットにぼれてしまうので、手を添えようとすると、はねのけます。 つい2ヶ月ほど前にはスプーンを口元へ持っていくとかぶりつくように食べていましたが、自分で食べられるようになると手助けは余計なようです。 「一期一会」、私の差し出すスプーンで食べてくれたのは、あの時期だけしかできなかった経験のようです。

 お正月風景(平成31年1月19日)

 ロタウイルス感染症は、乳幼児をはじめ子どもに多い急性胃腸炎を引き起こす感染症で、2-3月にかけて最も多く発生します。 他のウイルス性胃腸炎にくらべて下痢や嘔吐の症状がはげしいことが多く、入院が必要となる小児急性胃腸炎の原因のうち50%を占めるとされています。 成人にも感染しますが、軽症ですんだり発症しなかったりする場合が多いようです。 治ったあとの免疫は不完全で、再び感染することもありますが、通常二度目は重症にはなりません。 尚、原因ウイルスであるロタウイルスは、10-100個程度でも体内に入れば感染するので、非常に感染力が強く、5歳までには大半の子どもがかかります。
 毎年元旦には大津の実家に集まってフグ鍋で新年を祝う宴を開いていましたが、両親が高齢で準備ができなくなったため、 昨年からは山科に住む妹の家でするようになりました。 今年もその予定をしていたのですが、前日に妹の隣の家に住む孫がロタウイルスに感染したため、急遽中止するとの連絡が入りました。 フグは既に注文してあり、キャンセルできないので実家へ届けるとのことです。 いつもは夜に行う宴会ですが、次男がその日に東京へ帰るため、昼間に行うことになりました。 妹たちが来られないため、参加者は両親と我々夫婦、それに長男家族と次男です。 昼過ぎに実家に着くと、妹が食材一式を届けてくれていました。 両親はすでに昼食を済ませていてフグは食べないとのことですが、てっさにフグの切り身やアラ、白子など大人5人には多すぎる量です。 家内と長男夫婦がてきぱきと準備してくれ、から揚げに焼き白子、フグ鍋から〆の雑炊までフグを堪能できました。 食事が始まって驚いたのは、もうすぐ3歳になる孫の食欲です。 てっさは初めて食べるお刺身だと思いますが、お皿2枚を1人で平らげました。 いつもは3万円ほどの分担金で済んでいましたが、今回の食材費5万円は1人で負担しなければなりません。正月早々きつい出費になりました。
 男の子の孫だけでなく孫娘の食欲もたいしたものです。 長男家族は年末から元旦まで帰省で家にいましたが、その間、孫娘の給仕は私が勤めました。 家内が用意するご飯や納豆、おやきなどすべての食材を平らげます。 ごはんにおかずを載せてスプーンで口元にもっていくとかぶりついてきます。 食事のメニューの中でも一番好きなものはいもの天ぷらのようで、手で掴んで口に持っていきます。 デザートのバナナ半分は縦に裂いて、またみかんは一袋を半分に切ってお皿に載せると、手で掴んで食べます。 口に入れずに遊びだしたらお腹がいっぱいになった合図で、泣き出して椅子から立ち上がり降りようとします。 どうやら一番言うことを聞いてくれるのは私だとわかっているようで、抱っこをせがみ、「チッ」と指で方向を指してそちらへ連れて行くように要求します。 玄関のドアを指さして外へ出る要求には、寒いので従わず2階へ上がるようにします。 踊り場の出窓に飾ってある植木鉢の花に触れるのも好きなようで、葉っぱをつまんでちぎるとき「プチッ」と声を出してやると 「ケラケラ」と笑いがかえってきます。また、興味のあるものには「アッ」と高い声で反応します。 いやなものには泣いて反応しますが、それも2段階あり、最も気に入らないものや特に機嫌が悪い時は「ギャン」泣きします。 2~3日付き合うだけでも大変なのに四六時中面倒を見ている母親の苦労がわかるような気がします。 大きくなれば遠ざけられると思いますが、求められている間はじいじと孫娘の親しい距離感を保っていきたいと思っています。

 芋ほり(平成30年11月1日)

 毎年我が家の夏の花壇を飾るのはセンニチコウです。 炎天下でもめげずに茎がよく枝分かれして茂り、球状の花を咲かせます。 色は紫紅、白、ピンク、オレンジなどがありますが、主に鮮やかな朱色のストロベリー・フィールズを植えています。 花びらはもたず、色づいているのは苞葉(ほうよう)と呼ばれる花の付け根に付く葉っぱです。 苞葉は乾燥させても色あせないので、ドライフラワーにも利用されます。 センニチコウは「千日紅」と書き、長い間色あせない性質に由来します。
 風邪をひいた父親からの避難と芋ほりを体験するため、先日孫たちが泊りがけでやって来ました。 庭に咲く「千日紅」の名前の由来を話していた時、母親が「Wはそろそろ生後1,000日くらいじゃない?」と調べたところ、その日が丁度1,000日目でした。 期せずして芋ほりは千日目の記念すべき行事になりました。
 孫を自転車に乗せ畑に着くと、畝に残っているのは芋の蔓の根元の部分だけで、すぐにスコップで掘れるようになっています。 一週間ほど前に近所の散髪屋さんに行った時、奥さんから料理に使うため芋のつるを分けてほしいと頼まれ、つると葉っぱを全部取り除きました。 芋のつると聞いていたので、2畝分のつるを刈り取りゴミ袋4つに詰めて持って行ったところ、 つるではなく、つる本体から分かれている葉の付け根の茎の部分を使うとのことです。 てっきりつるを使うものと思って葉っぱはほとんど外してしまいました。 畑に戻り、散らばった葉っぱを拾い集めて再びゴミ袋に詰めてお渡ししました。
 芋ほりの前に蚊の対策として畝の両端に支柱を立て、それに紐を張り、折った蚊取り線香を5つほどクリップで挟んで吊るしました。 風が強くなかなか火が付かないため両端をシンナーに浸けてから火をつけるようにしました。 スコップで掘った芋をつるから引きちぎるには力がいるため、孫には土の付いた芋を、水をためた大きなバケツに放り込む役を与えました。 水遊びが楽しいらしく何回も往復して芋を水の中に放り込んでいきます。 水洗いしてテーブルの上に並べた芋は、孫たちが自宅に帰るころには乾いていて、大きな紙袋3つ分になりました。
 畑に一緒に来て、母親の胸の中で寝てしまっていた孫娘ももうすぐ一歳の誕生日を迎えます。 誕生日プレゼントに依頼されたのは手作りの「ままごとキッチン」。 お母さんの真似事をしたり、お友達と一緒に遊んだりする「おままごと」につかうそうです。 ゴルフの帰りにニトリで組み立て式の小さな家具を見つけ、それをアレンジして作ることにしました。 小さい方の家具は天板をくりぬき、ステンレスのボールをはめこみシンクに見立て、隣に電磁調理器に見立てた黒いボードを固定しました。 一番のアイデアはそのつまみです。2つのつまみを回すと「天空の城ラピュタの主題歌」と「星に願いを」をオルゴールが奏でます。 背の高い方の家具の下の扉は透明なアクリル板に取替え、電子レンジに見立てました。 横開きのままですが、上下開きを連想させる取手も付けました。 その側面にはA4サイズの孫娘の写真を飾りました。 ハードケースに入った写真は入れ替え可能で、成長と共にファイルにストックできるようにしました。 コンロのつまみを回すとオルゴールが鳴るアイデアに我ながら感心していますが、もう一つ面白い仕掛けを加えて完成です。
 印象深い千日目の行事となった芋ほり、一歳の誕生日プレゼントのままごとキッチン。 育児に責任のある保護者ではなく成長を見守る守護者として、これからも孫に関わって行きたいと思っています。

 坐骨神経痛(平成30年6月19日)

 坐骨神経は小指くらいの太さで、長さは平均で1メートル近くあり、からだの中で最も太く、最も長い神経と言われています。 坐骨神経痛とは、腰から足にかけて伸びている坐骨神経が、さまざまな原因によって圧迫・刺激されることであらわれる、 痛みやしびれなどの症状のことを指します。 もともと椎間板ヘルニアや脊柱管狭窄症などの腰の疾患が原因で起こる症候ですが、 お尻の奥にあるインナーマッスル、梨状筋と上双子筋の圧迫によっても起こることが少なくありません。
 この症状が最初に現れたのは昨年の秋、女房とカナダのプリンスエドワード島へ行った時です。 長時間のフライトでほとんど動かずにいたためか、右のお尻の奥に痛みを感じるようになりました。 常に痛いのではなく、洗面台で顔を洗う時など腰を曲げ、ある角度になると激痛が走ります。 帰国してからも痛みが取れないため、近くのK整形外科で診てもらいました。 この整形外科を最初に訪ねたのは、左足の親指の関節が腫れて痛みがあった時です。 痛風を疑っていたのですが、診断の結果は軟骨がすり減り関節が変形しているとのことでした。 スポーツか何かの動きで思い当たることはないかと聞かれた時、原因はゴルフだと分かりました。 スイングのフィニッシュでは左足の踵を上げて足先を中心に回転しますが、 親指に負荷がかかった状態で何度も同じ動作を続けていたため、関節が変形したようです。 ゴルフを始めたころの私のスイングに力強さはなく、ゴルフの師匠Hさんからは品を作るようなフィニッシュの姿を「花柳流」と呼ばれていました。 その極端に左足の親指をひねるフォームがよくなかったようで、長年圧迫され続けて変形したようです。 その後長時間歩く時などに痛みを感じますが、良くならないし、日常生活にもゴルフにも大して差しさわりがないのでそのままにしています。
 2度目に診察を受けたのは、震災後の東北旅行から帰って来た時です。 旅行中に首を回すと痛みを感じるようになったので、診てもらいました。 レントゲンを見ての診断結果は、首の軟骨がすり減っているとのことで、こちらの原因は老化です。 早速ネットで首を吊る器具を購入し、何度かマガジンラックをカウンターにして首を引っ張りました。 効果があったようで、いつの間にか痛みは出なくなりました。そして今回お尻の痛みで診てもらったのが3度目です。 レントゲン写真では、骨や関節に異常は見つかりません。 長時間の飛行で不自由な姿勢でいたことに起因する坐骨神経痛というのが診断結果で、貼り薬と鎮痛剤が処方されました。 しかし、その後も痛みが取れないので再び診てもらったところ、 大阪弁で「まだ治りまへんか。ほな、前の倍の薬をだしときますわ」と薬の量を増やしてくれただけでした。 他の整形外科と違いいつ行ってもたいした待ち時間もなく診てもらえるのですが、腕の方の評判はあまりよくないのかも知れません。
 その後半年ほどこの痛みと付き合ってきました。歩行には何の支障もないのですが、椅子から立ち上がる時やゴルフのパットの姿勢で痛みが出ます。 貼り薬では治らないので、ネットで見つけた治療法をいろいろ試してみました。 骨盤カイロ療法では、暑いのを我慢して使い捨てカイロ2枚をお尻に貼りました。 右足を結跏趺坐にして体を倒し、お尻の筋肉を伸ばすのもいいようです。 一番効果があったのは、モロゾフのプリンが入っていたガラスの容器にテニスボールを詰め、お尻の下に置いて刺激するマッサージです。 半年近く悩まされてきた坐骨神経痛ですが、様々な療法により梨状筋がほぐれたのか最近痛みを感じなくなってきました。
 60年以上使い続けてきた体には、老化よる様々な不具合が現れてきています。致命的な欠陥を出さずに後しばらく頑張ってくれと願っています。

 孫は来てよし帰ってよし(平成30年5月19日)

 シニアの孫育てに関する調査によると、孫の面倒を見ることがある人の内85%が「孫の面倒を見るのが好き」と答えたそうです。 孫の面倒を見ることを、多くのシニアが好意的に考えていることがわかります。 しかし、「孫はかわいいばかりじゃない」と孫育ての心得を、『「人生案内」孫は来てよし帰ってよし』で大日向先生が伝授されています。
 ゴールデンウィークの期間中我が家にも、この春大阪へ転勤になった長男家族がやって来ました。 孫との遊びの最初のメニューは絹さやの収穫です。 孫を畑に誘うと、以前採りに行ったブロッコリーの事を覚えていて「ブロッコリー採りに行く」と自転車の座席に座ります。 孫の力でも簡単にちぎれるので、実のなっている茎を手元に近づけてやると、引っ張って採ります。 しかし、孫にとってここでの一番の楽しみは、絹さや採りよりも水遊びです。 水桶に溜めてある水を、飽きずに柄杓で移し替えて遊んでいます。 しばらく一人で遊ばせておいて畑の雑草取りをしていると、刈り取った雑草を運んで水桶のところへ持って行き、中へ放り込み始めました。 それが面白いらしく何度も雑草を運んで中へ入れますので、水桶は雑草で一杯になりました。 後日取り出しましたが、水の中で腐敗した雑草の始末は大変でした。
 2日目は女房が作ったおにぎりやサンドイッチを持って、近くの馬見丘陵公園へピクニックです。 県営馬見丘陵公園は、広陵町と河合町の両町にまたがる、古墳群と、自然環境が残された地域にあります。 園内では四季折々の自然を満喫でき、春には桜やチューリップ、夏にはバラや花菖蒲、ヒマワリ、秋にはダリアやコスモスなど色とりどりの花が咲き誇ります。 シートを広げたのは、大型遊具や徒渉池(噴水)、大芝生広場などがある北エリアの桜の木の下です。 早速孫を誘って長い滑り台に挑戦します。床全面にローラーが取り付けてあるのでよく滑りますが、滑り終わるとお尻がかゆくなります。 お尻をかきながら何度も孫の滑り台につき合わされました。滑り台に飽きると噴水のある浅い池での水遊びです。 暑かったので水着や裸で噴水の中で遊ぶ子もいますが、孫は噴水の出口を手で押さえたり、石や葉っぱを落としたりして水辺で遊んでいました。 我が家にも慣れて来て、その日の夜は「おじいちゃんと寝る」というので一緒に布団に入りました。 しかし、興奮していたのか夜中の1時ごろに起き出して、「トーマス見る」と言いながらなかなか寝ません。 仕方なしに一階のテレビで機関車トーマスのビデオを見ていると母親が起きてきて、早く寝るように叱り始めました。 そのしかり方は筋が通っていて論理的です。監督責任者としての私が叱られている気になってきます。 最後に「お母さんと寝る」か「おじいちゃんと寝る」かの選択を迫り孫に判断させます。 泣きじゃくりながらの孫の返答は、期待とは違う「おじいちゃんと寝る」でした。 2階へつれて上がり、夫婦の寝室とは別のベッドで、ヒックヒックとまだ泣き止まない声を聴きながら寝ました。 3日目からは父親が合流したので孫の甘えの対象はおとうさんに移り、私がもっぱら面倒を見るのは下の孫娘になりました。 生後半年の孫娘はおとなしくてかわいく、「いやいや」を繰り返す魔の2歳児とは違います。
 ゴールデンウィークの一週間近くを我が家で過ごして長男家族は帰って行きました。 「帰ってよし」が実感できる静かな日常が戻ってきました。 しかし、しばらく会っていないとそろそろ「来てよし」を思うようになってきます。 畑のそら豆が収穫時期を迎え、庭のブルーベリーも熟し始めました。孫を迎えるイベントが整いつつあります。

 魔の2歳児(平成30年4月3日)

 「魔の2歳児」と言われる2歳の時期は、「第一次反抗期」「イヤイヤ期」とも言われ、自我の芽生えを迎えて自主性が出てきます。 何でも自分でやりたがったり、今まで大人しく従ってくれていたことにも拒絶しはじめます。 子供なりにその都度言いたいことがあるのでしょうが、 この時期は、まだうまく話せないので簡単な「イヤ」という言葉で大人に気持ちを伝えているのだそうです。
 長男の大阪への転勤が決まり、引っ越しのため前日から一家で我が家にやって来ました。 孫を外へ連れだし、家の前の公園で滑り台やブランコに誘いますが、「滑り台しない」「ブランコ乗らない」と早速イヤイヤを繰り返します。 気分を変えて畑にブロッコリーを取りに行こうと誘ったところ、「はい」と素直な返事が返ってきました。 以前絵本のブロッコリーを指さして「緑のブッコロリー」と言って笑い転げていましたが、 今は「ブロッコリー取りにゆく」と正しく言えるようになりました。 前回、畑へ連れて行った時は10分ほどの距離を歩いて行きましたが、ブロッコリーと大根を両手に持って帰る時にだっこをせがまれ往生しましたので、 今回は自転車で出かけました。 子供用のイスとヘルメットは、前日近くの自転車屋さんで買っておきました。 その他にも今回は孫のために食卓用の椅子を作りました。最初、低い椅子に継ぎ足す足を作ったのですが、思ったような形にはなりませんでした。 そこでカウンターで使うような木製の椅子を買ってきて、その座面に背もたれとひじ掛けをつけてクッションを置きました。 テーブルの高さに合うように足を切り、紐でテーブルに固定して安定して使えるようにしました。
 今、畑では菜の花が咲き始め、ブロッコリーも蕾が黄色く膨らんでいて収穫の最後の時期です。 まだ寒かった時は大きなブロッコリーが採れましたが、今は脇芽が伸びた茎に小さい蕾がいっぱいついています。 孫がブロッコリーの先端を握り、私がはさみでその茎を切ると、あたかも自分で摘み取った感覚で袋に入れます。 食べきれないほどたくさん採っても、「もっとブロッコリーとる」言って蕾をつまんで待っていますので、飽きるまでつき合います。 ここでの孫のもう一つの楽しみは水遊びです。畑の貯水タンクに溜めてある水を、柄杓で別のタンクへ濡れるのも気にせずに移し替えています。 畑でひとしきり遊んでからブロッコリーのいっぱい詰まった袋を前かごに載せて帰りますが、 下り坂のスピード感を楽しんでいる様子が青いヘルメットを通して伝わってきます。
 丁度家の前の公園の桜が満開でしたが、孫にその色を尋ねると「しろ」と答えが返ってきました。 まだ単語を知らないか、色の区別の範囲が広くピンクも白になるのかも知れません。 色に関する孫との会話で面白いエピソードがありました。 私は小さい時から色黒だったようで、そろばん塾でのあだ名は当時流行っていた黒いビニール人形の「だっこちゃん」でした。 今更後悔してもしようが無いのですが、若い頃は日に焼けた肌がかっこいいと思い、冬でもスキーで日焼けしていました。 今は日焼け止めを塗ってゴルフをしますが、それでも日焼けして地黒と相まって人より黒い方です。
孫は母方の祖父をジイジと呼びますが、先日来た時私は「黒いジイジ」と呼ばれました。 色で識別するのはたいしたものですが、2歳の子供のアドリブとは思えません。 母親に問いただしたところ私は無実ですとのことでした。 その話を聞いた母方のバアバが自分のことを白いバアバと呼ばせようと思ったところ、茶色いバアバと呼ばれたそうです。 2歳の孫の色彩感覚は案外確かなようです。

 新年会(平成30年1月16日)

 東急ハーベストクラブ京都鷹峯は、花札の「芒」のモデルになった鷹峯の山裾にある会員制リゾートホテルです。 四季折々に表情を変える庭園や、涼やかな紙谷川のせせらぎ、石畳の小径など、京都ならではの風情を堪能することができます。 ホテルのレストランを利用しない場合でも、食べ物を部屋に持ち込むことができ、各フロアーには電子レンジも備えられています。 利用料金も安く、奈良の自宅や実家の大津に近いため、友人や身内の者と年に何度も利用しています。
 高校の同級生有志の新年会が京都で開催されることになり、ここでの宿泊を予定していましたが、土曜日の当日は満室です。 キャンセル待ちで申し込んだところ、エレベーター裏の少し狭いツインが予約できました。 車をホテルの駐車場に置いて、バスと地下鉄を乗り継ぎ、烏丸御池で降りて会場となっている居酒屋『心心』に向かいまいした。 案内のメールを確認すると、店の場所は、烏丸通りから4筋東、六角通り上るとあります。 三条通りを東に進み六角通りとの交差点を探したのですが、なかなか見つかりません。 後で気が付いたのですが、京都の通り名の唄に「あね さん ろっかく たこ にしき」とあるように六角通りは三条通りの南に並行して走る通りです。 店のブログの地図で南北に走る柳馬場通りを見つけ、少し遅れましたが何とか乾杯に間に合いました。
 路地を入った京町屋を改修した店では、牡蠣や干物など伊勢志摩の魚介類が中心のメニューです。 飲み放題3時間のプランで、50年近く前の同窓生と楽しい時を過ごしました。 2次会は四条烏丸近くのワインバーで閉店近くまで飲んでから解散しました。 地下鉄で北大路バスターミナルへ着くとホテルの前を通る最終バスは出た後です。 仕方がないので近くを通るバスに乗ったのですが、寝てしまったのか終点の西賀茂車庫前で降りる羽目になりました。 マフラーを無くしたことに気付いたのは、所々に雪の残る道を30分ほど歩いてホテルに帰る時でした。
 翌朝部屋のカーテンを開けると一面の銀世界です。風呂に行く途中、レストランの前を抜けると外に出られます。 浴衣で通るのははばかられましたが、係りの人の了解を得て外に出ました。 鷹峯はすっぽりと雪に覆われていてきらきらと輝いています。 雪をかぶった竹や天然石の設えられた庭を眺めながら、ゆっくりと温泉に浸かって少し遅めにチェックアウトしました。
 その日、都道府県対抗女子駅伝が京都で開催されるため、それを見学しながら名所を訪ね、忘れたマフラーを取りに行こうと思っていました。 平野神社は平安遷都の際に大和国から移された古社で桜の名所です。小さな花弁の十月桜が咲いていましたが、寒空に桜は似合わない感じです。 第一中継地点がこの神社の裏に面した西大路通りにあるので、 コーヒーにウイスキーを入れて体を温めながら待っていると婦人警官が運転する2台の白バイが見えてきました。 その後に中学性ランナーの集団が続きますが、一区ではそれほど差が開かないため、短い時間に全てのランナーがタスキを繋いで行きました。 若いランナー達と紙のメガホンを持って私の横で一生懸命声援する幼い子供の姿に、熱い物が感じられます。 2時間ほど歩いて昨日の店に行くと閉まっていましたので、寺町や錦市場をぶらぶらして再び店に戻ったのですが、やはり閉まっています。 どうやら日曜日は休みのようです。翌日店に電話しましたが忘れ物は無いとのことです。 もしかして2次会の店で忘れたのかも知れないと思い、電話したところ預かっていると返事です。 普段何気ない気持ちで身に付けていましたが、縁の深いマフラーになりました。

 てっちり(平成30年1月8日)

 フグは縄文時代から食べられていたといわれていますが、江戸時代にフグの毒でたくさんの武家が亡くなったため、フグ食禁止令が出されました。 そんな中でも庶民の間では、よく食べられており、庶民の味として愛されていたようです。 このフグを主役とした鍋料理は、肉厚でぷりぷりとしたフグの豊かな味わいが、他の材料や調味料によって引き立てられる贅沢な料理で、 大阪では「てっちり」と呼ばれています。 フグは強烈な毒をもっており、それに"あたると死んでしまう"ことから、「鉄砲」と呼ばれていました。 また、昆布だしや熱湯で煮ながらポン酢や醤油に薬味を加えて食べる鍋のことを「ちり」といいます。 「てっちり」の語源はこの「鉄砲」と「ちり」にあるそうです。
 いつの頃からか実家に帰省する元日の夜の宴は「てっちり」を囲むようになりました。 親子3代で始まったこの習慣は、孫が加わるようになり今では親子4代の大人数になっています。 両親が90歳を超えてその準備が負担になってきたため、今年は京都山科にある妹の家で行うことになりました。 上の息子は昨年末に生まれた2人目の子供がまだ小さいため帰省できず、下の息子もハワイでお正月を過ごすため、今年は女房と2人だけの参加です。 京阪四宮駅近くの駐車場に車を止め、妹の家へ向かいました。 妹の家は、浄土真宗中興の祖である蓮如上人が隠居所を設けて住いした、山科本願寺南殿跡のすぐ傍にあります。 中世には山科本願寺を中心に防御施設を備えた城郭宗教都市として栄えましたが、 今は御坊道の道標が建つ狭く曲がりくねった道に住宅が並ぶ街並みになっています。
 妹が用意してくれたフグは4匹で、大きな白子がついています。 白子を全部鍋に入れるのはもったいないため、幾つかを焼白子にするように頼みました。 股関節の専門医の姪がメスを包丁に持ち替え、レシピを調べて作ってくれました。 てっさ、空揚げ、焼白子、鍋、雑炊とフグを堪能した後タクシーを呼んでもらい、大津の実家で両親を下ろし、駅前のホテルにチェックインしました。
 翌日の朝は実家に寄って白みそ仕立てのお雑煮を頂いた後、京阪電車で四宮へ向かいました。 乗車した上栄町は無人駅のため、券売機の代わりに置いてある発券機で乗車証明書を受取ります。 京都三条と大津を結ぶ京阪線は、昔の東海道に沿って進む曲がりくねった路線です。 途中、「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」の百人一首で知られる蝉丸を祀る神社の前を通り、逢坂山のトンネルを潜ります。 逢坂山は京都に上るためには必ず通らなければならない交通の要衝でした。 ブラタモリ流の解説では比叡山はその逢坂山を見下ろす位置関係にあります。 信長にとって逢坂山を自由に行き来するためには比叡山の焼き打ちがどうしても必要だったそうです。
 四宮で下車し、小銭のいっぱい入ったお盆を持って立っていた駅員に精算してもらい、改札を出ました。 駐車場を出て三条通と並行に走る狭い道を京都に向かって進むと、毘沙門堂へ行く道に出会います。 大学の同級生が就職した会社の保養施設が近くにあり、同窓会で何度も訪れたことがあります。 懐かしさも手伝って初詣のお参りをすることにして毘沙門堂に向かいました。 途中道が狭くて車のすれ違いができない箇所では、何人もの交通整理の方が立っています。 お堂の前の名物の枝垂れ桜は、この季節花も葉もなく枝だけが垂れ下がっています。 お参りして駐車場から出る時も交通整理の方に丁寧に誘導して頂きました。 少ないお賽銭では人件費の足しにもならないのを申し訳なく思いながら家に向かいました。

 葉っぱ(平成29年12月19日)

 もう季節は終わりましたが、今年はプリンスエドワード島を始め、国内外で紅葉を見る機会がありました。 モミジやイチョウの紅葉もきれいですが、私が好きなのは「楓(フウ)」です。 主幹がはっきりとしていて、円錐形の美しい樹形をしています。 あるゴルフ場のコースでは芝の緑を背景にした、燃えるような紅葉の美しさに目を見晴らされたことがありました。 フウの仲間はよくカエデと間違われます。葉の形が似ているだけでなく、秋になると美しく紅葉しますし、 おまけに「楓」という漢字はカエデと読ませますから、間違えても仕方がない気もします。 葉が対生するか互生するかの違いがあり、また果実の形が、 カエデでは翼のついたプロペラ型のものであるのに対しフウの仲間は丸い集合果なので両者の区別は容易です。 フウの仲間は世界に3~4種類あるようですが、日本でふつうに見掛けるのは中国中南部、台湾原産のタイワンフウと 北アメリカ、メキシコ原産のモミジバフウ(アメリカフウ)の2種類だけのようです。 この両者を区別するのは簡単で、モミジバフウでは葉の切れ込みの数が5~7と多く、 カナダの国旗にも描かれているように全体の形はカエデの葉を大きくした感じです。一方、タイワンフウの葉は3つに切れ込んでいます。
 このフウの葉っぱをこよなく愛する者がいます。孫のWです。 11月にWに妹ができたのでお祝いに博多へ行った時、公園の滑り台で滑った後はこの葉っぱを集めて来て「ないない」と言って、 しまっておくように頼まれました。葉っぱに好き嫌いがあるようで、大きくて傷のないきれいな葉っぱがお好みのようです。 その後、産院に母親と孫娘を見舞った時、父親が赤ちゃんを抱くとやきもちを焼いてぐずるので病院の外へ連れだし葉っぱを探しました。 近くに公園がなかったので、民家の庭に生えていた小さな木のスペード形の葉っぱを渡すと、気に入ってもらえたようです。 一か月後、お宮参りのため再び博多を訪問した時、紅葉している街路樹からちぎった黄色と赤色の葉っぱを入れたクリアファイルをプレゼントしました。 最初のページには麦わら帽子をかぶり、両手に枯草を握りしめたWの写真が入っています。 写真には「前身から醸し出される農夫感の理由は、麦わら帽子かはたまた手にした枯草か」との母親のコメントが入っています。 写真を指さして自分の名前を呼び、クリアファイルをめくって葉っぱを眺めて気に入ってくれているようです。 過日、ドアノブに葉っぱを差し込んで鍵を開けようとするWの写真が家族アルバムの「Mitene」にアップされていました。 Wにとって葉っぱは何にでも変わる魔法の杖の様な存在のようです。

 シャボン玉(平成29年9月5日)

 季節が夏から秋に移ろうとしていますが、今年の我が家の夏はいつもとは違った風景が展開されました。 昨年のお盆のころはまだやっと寝返りができる状態でしたが、今年はしっかりとした足取りで駆け回るまでに成長した孫が帰ってきました。 孫を喜ばせてやろうと事前に準備したのは、花火とシャボン玉、それに虫取り網です。
 帰ってきた日の夕方、ガレージに椅子を並べ、蚊取り線香、水を入れたバケツを用意して花火の準備ができました。 手に持つタイプのものに火をつけ、勢いよく炎が噴き出すと孫はそれを掴みに行こうとします。 危ないので2本ほど火をつけただけで花火は終わりました。
 大学時代の友人Sは飾らない性格で、人の心をとらえる天性の明るさを持っています。 彼は自分の孫や近所の子供たちとよくシャボン玉を飛ばして遊んでいますが、市販のものでは物足りず、 色々工夫して大きなシャボン玉ができる液と道具を作りました。 孫と一緒に飛ばしてみたいので、液の作り方と飛ばし方を尋ねたところ、1Lほどの液と手作りの道具を2つ進呈してくれました。 1つは虫取り網を利用したもので、網の部分を外して輪にロープが通してあります。 もう1つは2本の棒の先をロープで繋いだもので、ロープの途中にU字になるように短いロープが3つついています。 家の前で小さなたらいに甘い香りのする液を入れ、試しに飛ばしてみました。 虫取り網を利用した道具は、輪になった部分がたらいより大きく液をつけることができません。 こちらはあきらめ、2本棒の道具のロープを液につけ、風を切るように動かしてみました。 するとU字型の輪から大きなシャボン玉が幾つも飛び出します。 これはうまくいきましたが、ロープ同士を両面テープで止めてあったため、何度か飛ばしているうちに剥がれてきました。 大きすぎる輪は小さくし、U字型のロープはホチキスで留め直し、準備は整いました。 家の前の公園でサマーフェスティバルが行われる日の夕方、姪の子供も加わってシャボン玉を飛ばしていると フェスティバルに来た大勢の子供たちが集まってきました。 大きなシャボン玉が珍しいと見えて、道具を手に取って自分で遊ぶ子もいます。 孫はまだ自分で飛ばすことはできず、飛ばされたシャボン玉を追いかけて遊んでいました。
 家の前の公園には大きな桜の木が何本かあり、盛んにセミが鳴いています。 ネジで繋げるアルミのパイプを3本繋いで、先端に針金で小さな輪を作り網目のナイロンの袋を取り付け、長さ2mほどの虫取り網を作りました。 セミは簡単に取れましたが、籠に入れたセミの鳴き声を怖がって泣き出してしまいました。 準備した花火、シャボン玉、虫取り網は1歳半の孫にはすこし早すぎたようでうす。
 最も喜んでくれた遊びは階段を使ったボール遊びです。 踊り場にボールを投げ上げ、そこから階段を弾んで下りてくるボールがお気に入りのようです。 自分で投げると2段ほどしか上がらないので、ボールを渡してもっと上に投げるように催促します。 その時の言葉が「あいー」です。イントネーションによって「お願い」にも、「いや」にもなるようです。 もう1つ話せる言葉に「タッチ」があります。別れる際に「タッチ」といって手を合わせてきます。 人見知りの激しかったころと比べ、今回は誰に対しても人見知りがありません。 保育園へ入って人との接触に慣れたようで、人は人の中にあって育っていくようです。 2世代離れた距離感でこれからも成長を見守って行くのが楽しみです。

 いちご狩り(平成29年6月4日)

 ミクシィが公開している「家族アルバムみてね」は、スマホで撮影された写真や動画を、家族間で共有できるアプリです。 ミクシィ創業者が、娘さんの写真を親と共有する際に困った経験から開発したとのことです。 孫の1歳の誕生祝いに博多へ行った時は、まだハイハイのレベルでしたが、よちよち歩きを始めた姿が「みてね」にアップされているのを見て、 会いに行ってきました。今回の訪問も観光を兼ね、北九州市の市内観光を行ってから宗像市にあるホテルで息子家族と合流することにしました。 今回利用した新幹線の割引チケットは、早特きっぷよりさらに3,000円ほど安い切符です。 ただ、乗車できるひかりの本数が少なく、朝早くか夜遅い列車しかないため、往きの新幹線だけを利用することにしました。 格安チケットのためなのでしょうか、グリーンの指定席は一番前の席で、頻繁に開閉するドアが気になります。
 小倉でレンタカーを借りて、最初に訪れたのは門司港です。 一帯は門司港駅を筆頭に、旧門司税関、旧門司三井倶楽部など、かつての趣を残す建造物が立ち並び、当時の風情が感じられます。 海に向かって歩いているとタイミングよくブルーウィング門司跳ね橋が跳ね上がり始めました。 この橋は水面に対し60度の角度に跳ね上がる全長約108mの日本最大級の歩行者専用はね橋です。 渡りませんでしたが、橋が閉じて最初に渡ったカップルは一生結ばれると言われ、「恋人の聖地」にも選定されているそうです。 明治45年に税関庁舎として建設された旧門司税関は、ネオルネッサンス調を取り入れて修復・復元され、吹き抜けのエントランスホールが特徴的です。 ジュディ・オングの木版画作品展が開催されていて、作品のコピーが販売されていました。 ダイナミックな構図と繊細な彫り、メリハリの利いた色のコントラストで日本の風景美が表現されています。 若い頃カラオケでよく歌いましたが、芸術家として日展で入選するなどの輝かしい実績を残しているとは知りませんでした。 小倉に戻り、次に訪れたのは小倉城です。 細川忠興公が築城した城で、4階と5階の間にひさしがなく、5階が4階よりも大きくなっている「唐造り」が特徴です。 丁度昼時でしたが、晩御飯のご馳走を期待して天守閣を見上げるベンチでの昼食はアイスクリームにしました。 隣接する「北九州市立松本清張記念館」を見学した後、響灘緑地(グリーンパーク)へ向かいました。 ここは 北九州市若松区の頓田貯水池を中心とした市内最大の広域公園です。 駐車場に車を止め、広大な芝生広場を突っ切ってローズガーデンへ向かいます。 3年おきに開かれている「世界バラ会連合世界大会」で選出された殿堂入りのバラや、世界の王室、皇室由来のバラなど、 個性豊かな姿のバラが広大な庭園に咲き乱れています。 この後、黒崎よさこい祭り見学や北九州市街と若戸大橋を一望できる皿倉山へ登る予定でしたが、約束の時間が迫ってきていたのでパスし、 ホテルに向かいました。 「御宿はなわらび」は広大な敷地に中庭を巡るように離れ風の個室立ち並んでいます。 レストランだけでも利用できる宿で、店を訪れた有名人の写真がフロントに飾ってあります。 3ヶ月ぶりに対面した孫は、人見知りのためかお土産のおもちゃを手渡したとたんに泣き出してしまいました。 翌日訪れたいちご園では、名前が書かれた2列の棚のイチゴが食べ放題です。 列を挟んでいちご棚の下から顔かを出した孫に小さめのイチゴを差し出すと、パクついてきます。 人見知りの解消にはおもちゃより、食べ物が効果的なようです。

 畑仕事(平成29年5月17日)

 信貴山千日回峰と称して裏山の朝護孫子寺へ往復10kmのお参りを続けていましたが、他にすることが多くなり、200回ほどで中断したままです。 その運動不足の解消にはなりませんが、歩いて10分ほどの距離にある畑に毎週通っています。 昨年、隣のおばさんから譲り受けて30坪ほどの大きさになった畑は、半年ほどかかってようやく整備が終わりました。 水桶を集めた個所の隣にパイプでフレームを組み、クワ、スコップなどの道具や支柱を立てて収納できるようにし、 その横には大工仕事で使っていた作業台を据えました。 風雨にさらされるため、天板をグレーのビニールシートでカバーし、長靴や肥料をその下に保管しています。 濡れてはいけないものは密閉できる大きなプラスティックの箱の中に入れています。 雨が降ると水のたまる共同の池がありますが、直ぐに枯れてしまうため、プライベートに井戸も掘りました。 畑は山の斜面を切り崩したところにあり、土は粘土質です。 古い水桶の口と底を切って円筒形にし、それを井戸に埋め込み周りの土が崩れないようにしました。 さらに底の部分を掘り下げ、1.5mほどの深さにしました。 大雨の後は地面近くまで水がたまり、池の水が枯れてもしばらくはその井戸の水が使えるので、柄杓を置き共同で使ってもらえるようにしています。 西側の斜面は、鉄パイプやアルミサッシの枠を切ったものを地面に打ち込み、ブリキの戸板や波板で土留されていました。 そこには防草のため古い絨毯が埋められていましたが、それを突き破って芒が生い茂り、防草の役割を果たしていませんでした。 そこで、芒を刈り、ガラクタを全部掘り出して処分しました。 以前大工をしていた方が、リフォームで出た廃材を持ち込んでその工事をしたとのことですが、 こんなずさんな仕事をする大工に家の建築を頼む気にはなれません。 大きなゴミ袋10個ほどのごみと、サッシの枠組みやパイプを処分してきれいになった法面には、昨年植えたタラの木が大きく葉を広げています。 柿の木、ゆず、すだちと一緒に、今はスギナが生い茂っていますが、苗を育てているキバナコスモスと千日紅を植え、お花畑を作る予定です。 段差が1.5mほどあるため、掘り出した石やブロックを打ち込んだパイプで固定し、上り下りのための階段も作りました。 道具立て、作業台、井戸、階段、防草シートを張った通路などこれですべてのインフラが整いました。
 あまり手をかけていなかったにも関わらず、作物に関してはそれなりの収穫がありました。 掘った穴が浅かったため随分と短いできでしたが、30株ほど植えた大根はどれも太く育ちました。 同じく30株の白菜もそれなりに大きくなり、収穫が遅れて花が咲くまでに育ちました。 最も成績の良かったのはブロッコリーです。店で売っているのと遜色がないほどの大きさに育ちました。 我が家だけでは食べきれず、あっちこっちに配りまわりましたが、柔らかくておいしいと好評でした。 今の時期は手入れしていないそら豆が生い茂っています。 ゴルフの帰りにI君に畑まで来て収穫してもらっていますが、お孫さんに好評のようです。 ただし、玉ねぎは不作でした。球が大きくならず卵型のままで、大きなエシャロットのようです。 秋に植えたジャガイモが葉を茂らせていて、トウモロコシの芽も大きくなってきており、これからの収穫が楽しみです。
 写真はブロッコリーや大根が詰まった段ボール箱を博多に送った時、孫が開けている様子を写したものです。 こんなに喜んでもらえるのなら畑仕事にも精が出ます。

 年末年始(平成29年1月5日)

 博多から帰省する長男家族を新大阪駅で迎えるところから、我家の年末年始の行事が始まりました。 駅前は送迎の車で混みあっていてなかなか駐車場から出られず、京都へ向かう新御堂筋線も渋滞していました。 その日はキャンセル待ちで予約が取れた東急ハーベスト京都鷹峯で宿泊です。 孫はチャイルドシートが苦手らしく、乗せた瞬間から泣き始め、なかなか泣き止みそうもありません。 しばらくあやしていた母親も手に負えなくなったらしく、どんなに泣いても気にしないという手段をとるようになったようです。 勢いよく泣くためにはかなりの肺活量が必要です。「ギャー・・・」と泣いたあと息継ぎまで呼吸が止まります。 次の瞬間一気に息を吸い込み、再び大声で泣き始めます。こちらは我慢しているしか仕方がないのですが、母親は落ち着いたものです。 とんとんしながら「息をしなさい」とあやしていました。 車から降り、和室と洋室、それにリビングが付いたファミリータイプの広い部屋に着くと落ち着きを取り戻したようです。 いつもの様に近くの回転寿司店とスーパーへ寿司と総菜を買い出しに行き、 持参したワインとゴルフ仲間のI君が年末に届けてくれた奈良の地酒でファミリー忘年会です。 4合瓶2本を息子と2人で空け、少し飲み過ぎたようです。
 翌日は自宅に戻る途中、腹帯を納めるため帯解寺に寄りました。 帯解寺は安産祈願の寺として知られ、美智子皇后、雅子皇太子妃をはじめ、秋篠宮などの皇族がこの寺で安産祈願を行っています。 すれ違いができないような狭い道にお参りの車が続き、20台ほど止められる駐車場は満杯です。 駐車場の奥に、その日は休みで空いていたお寺の工事事務所の駐車場を見つけ、車を止めることができました。 帯解寺を出て自宅に戻る前に畑に寄り、食べごろのブロッコリーを収穫しました。 自分が育てたものを食べてもらえるのは嬉しいもので、早速孫のご飯の食材になりました。 その日の夜は、かに道楽で女房一族の忘年会です。 人見知りの始まった孫は大泣きでしたが、宴会が始まるころには寝てしまい、しばらくは落ち着いてカニを堪能することができました。
 翌日は法隆寺カントリークラブで息子2人とゴルフです。 大晦日の営業のためロッカーと風呂は使えず、家からゴルフのスタイルで出かけました。 レストランは開いていますが、何種類ものメニューを用意できないため、昼食はバイキング形式です。 成績はともかくお天気にも恵まれ、親子3人での楽しいラウンドでした。
 元旦は再び女房の実家に集まり、年始の挨拶の後おせちとお雑煮をいただき、午後から大津にある私の実家へ向かいました。 名神と京滋バイパスが渋滞していたため、伏見から阪神高速京都線に乗り、山科で降りて国道一号線経由で大津へ向かいました。 ここで東京から来た次男の嫁も加わり、父方一族の新年会です。 毎年恒例のフグ料理と広島の知り合いから贈ってもらった剣菱の熟成酒を堪能しました。 孫も大勢の環境に少し慣れて来た様子で、曾祖父と曾祖母にあやされて機嫌よく遊んでいました。 その日は大津駅近くにあるビジネスホテルに泊まりましたが、ベッドが1つしかないツインタイプの和室で、赤ん坊がいる家族には便利な部屋でした。 翌朝、再び実家を訪れた後、午前中に博多へ帰る長男家族を大津駅に送り、次男夫婦と自宅に戻りました。 次男夫婦が女房の実家へ新年の挨拶を終えてから、その日の夕方東京へ帰る2人を王寺駅へ送り、一連の行事が終わりました。
 元日に風邪をひいていたため、今年の初詣のお参りはいつもの信貴山朝護孫子寺ではなく、実家の傍にある天孫神社でした。 神様に特にお願いすることはありませんが、このように穏やかな年末年始をこれからも迎えられるように見守って頂けたらと思っています。

 晩酌(平成28年11月3日)

 日本酒は、同じ銘柄でもたくさんの種類がありますが、基本的には「特定名称酒」と「普通酒」に分類されます。 特定名称酒はさらに原料、製造方法などの違いによって「純米大吟醸酒」、「大吟醸酒」、「純米吟醸酒」、「吟醸酒」、 「特別純米酒」、「純米酒」、「特別本醸造酒」、「本醸造酒」の8種類に分かれます。 お米は芯に近づくほど、でんぷんが強くなります。そのため日本酒はお米の表面の部分を削ってしまい、芯に近い良い部分だけ使います。 3割以上精白(精米歩合70%以下に)した白米を原料にして造ったのが「本醸造酒」、 4割削ると「吟醸酒」、半分以上削ったものは「大吟醸酒」になります。 日本酒は米と水で造られますが、米と水以外の「醸造アルコール」が添加されている種類もあります。 アルコールを少し添加するだけで香りがより華やかになることや、味わいを調節するという役割を持っています。 米と水だけで造られている日本酒には「純米」の名称が付きます。また、製法に特別な工夫のあるものには「特別」の名が付きます。 日本酒の甘い、辛いの目安となる数値に、水に対する酒の比重を示す「日本酒度」と有機酸の量を表す「酸度」があります。 「日本酒度」は(+)が辛口、(-)が甘口で、「酸度」は数値が大きくなるに従い、淡麗から濃淳に変わります。 この組み合わせによって淡麗甘口・辛口、濃淳甘口・辛口や中味などの日本酒の味が決まります。
 大阪阿波座にある酒卸問屋の島田商店から、銘柄はお任せで毎月3本の特定名称酒が届きます。 それら晩酌で飲むお酒の他に、旅行に行った時や外食時に飲んだお酒の銘柄をまとめたのがこのブログの「酒蔵」のコーナーです。 これまでに約160の酒蔵の250銘柄のお酒を飲んできました。 これだけいろいろな種類の日本酒を飲んでいると、微妙な味の違いまで分かるようになり、好みの味も決まってきます。 日本酒好きのゴルフ仲間のTさんは、同じ日本酒でも日本酒度が高い辛口のお酒を注文されます。 酒度+8の高知県司牡丹酒造の「酒船中八策」や+20の山形県亀の井酒造の「くどき上手」などがお好きな銘柄です。 私は日本酒度よりも酸度にこだわりがある方で、酸度1.7以上の濃淳な味が好みです。 また、5年以上かけてじっくりと長期熟成させた古酒も好きです。濃厚な芳香と甘みが華やかに調和し、豊潤な旨みが味わえます。 どちらかと言えば料理よりも酒の方が主役で、メザシや豆腐などの単純な味の肴をあてに飲む種類の酒です。
 この種のジャンルの銘柄の中で一番の好みは、石川県の菊姫合資会社の酒です。 白山信仰の総本山である加賀国一ノ宮「白山比咩(しらやまひめ)神社」の御祭神「菊理媛(くくりひめ)」を名前の由来に持つ酒です。 この銘柄と最初に出会ったのは20年以上も前、島田商店の利き酒コーナーです。 「原酒」と書かれた赤いラベルが印象的で、酒のアドバイスをしてくれる馴染みの店員さんの 「決して高級で洗練された酒ではないが、酒の味の分かる人が好む酒です。」との説明を覚えています。 先日、島田商店から送られてきた酒の中に菊姫の純米酒がありましたので、博多に住む息子に荷物を送る時、一緒に送ってやりました。 息子よりも孫の方がそれを気に入ったようで、母親が片付けても、片付けても引っ張り出して来て遊ぶそうです。 寝転がってその一升瓶と戯れている写真がSNSの家族アルバム「mitene」にアップされていました。 息子の晩酌の姿をまねたのではないようで、「父はこんな飲み方してないのに・・」とコメントされていました。 大きくなってどんな酒飲みになるのか楽しみです。