台湾旅行(平成26年3月25日)
故宮博物院が全館リニューアルされ、特別開催された「大観-北宋書畫、汝窯、宋版図書特展」を女房と見に行ったのが初めての台湾旅行でした。
一日目の台北市内観光コースにも故宮博物院は入っていましたが、「北宋時代の作品をこれだけ一度には、おそらく二度と見られません。」
と紹介されていたため、二日目も丸一日かけて見て回りました。
青磁の最高級品として名高い汝窯の磁器は、美しいスカイブルーとうっすらとピンクがかった輝きが最大の特徴です。
汝窯が宮廷の御用窯だったのは、20年間という短い期間に限られているため、世界で70点も現存しない作品のうち
、故宮に収蔵されている21点全てが展示されていました。開館と同時に入ったため展示室にいるのは二人だけの贅沢な観賞でした
その後、長年台湾で橋梁の仕事をされてきた方に誘われて、波型鋼板ウェブ橋梁の現場視察に行ったのが二度目の台湾です。
終日フリーの日に地下鉄に乗り、淡水駅から車で10分程のところにある台湾淡水ゴルフクラブへアポなしで出かけました。
淡水河口と海の合流するところに位置する景色の美しいコースで、100年近い歴史があります。
台湾で唯一キャディーは全て男性で、私たちに付いた二人のキャディーもシングルクラスの腕を持ちプロを目指しているそうです。
今回は、ほとんどが台湾初めての女房の一族8人で高雄、台北4日間の観光旅行です。
桃園空港から乗った新幹線は日本の車輌とほぼ同じデザインで快適です。
亜熱帯から熱帯地域に位置する台湾では、気温の差が大きく、ダウンコートから半袖のTシャツまで乗客の服装は様々です。
台北市内の主な観光スポットは、前回の旅行ですでに見ているため、最終日は女房と二人別行動で十分と金瓜石を回り、
九分のレストランで合流ことにしました。
台北駅から電車に乗るのですが、券売機にお札を入れるところがなく切符の買い方が分かりません。
改札口にいた駅員に行き先を告げると、コインしか受け付けない券売機で切符を購入してくれ、列車の出発時刻とホームを教えてくれました。
ちなみにホームは、銀河鉄道を思わせる「月台」と書かれますが、在来線のホームにその雰囲気はなく電車の到着遅れが当たり前のようです。
各駅停車の電車を案内されたようで、30分で着くところを1時間半程かけて瑞芳駅に到着しました。
そこから平溪線に乗って十分へ行き、ランタン上げと十分瀑布を見て瑞芳に戻り、タクシーで金瓜石へ向かいます。
かつて金鉱で栄え、映画「悲情城市」の舞台にもなった町ですが、延々と続く石段を上り切った山の中腹に黄金神社の鳥居と柱が残っていました。
日本を発つ前にこの映画を見ておこうと思ったのですが、レンタルされていませんでしたので、ネットで中国語の字幕で見ました。
終戦の玉音放送が流れる中で赤ん坊が誕生するシーンから始まる映画は、新しい時代の始まりを暗示していますが、
それは「犬(日本)が去って、豚(中国国民党)が来た。」と例えられる新たな弾圧の歴史の始まりでした。
台湾は歴史的に日本との繋がりが深く、親日的な国です。
今回の旅行を機に少し中国語を勉強し、次回の訪問は単なる観光旅行以上のものにしたいと思っています。
釜山旅行4【釜山】(平成26年2月22日)
帰国の日の朝も6時にホテルを出発、雪の降る中おじさんたちは元気です。
お目当てのあわび粥の店が閉まっていたため、別の店でテンジャンチゲを注文、辛い味噌汁と目玉焼きの載ったご飯が出てきました。
頭から汗が噴き出すのをハンカチでぬぐいながら頂きました。
この日の行き先は梵魚寺、前日と同じ地下鉄1号線に乗り、終点の一つ手前で下車し、路線バスに乗り換え山を上って行きます。
梵魚寺は金井山の麓にある静かな禅宗のお寺です。
本堂は国宝に指定され、極彩色の柱なども原形のまま保存されているので、韓国の寺としてはひなびた感じがします。
仁王門の代わりに二体ずつの極彩色の四天王が見下ろす四天王門があります。
朝早く雪の降る中、観光客は我々だけで、伽藍は雪に覆われて静かに佇んでいます。
日本では鎌倉時代に仏教が多様化しましたが、韓国では前日の仏国寺も含め、禅宗が主流のようです。
この日の昼食は、Y君が韓国語を習っていた時のP先生の案内で海鮮鍋です。
待ち合わせのロッテホテルへ来られたP先生は釜山大学の研究員で、名刺を見た時に思わず「いいお名前ですね」と言った通りの美しくて賢い方です。
釜山で初めて、女性と食事を共にするためおじさんたちは興奮気味で、いろいろ質問します。
その中で、「日本人は韓国人のように親しくなってもベタベタした関係を好まず、相手との適当な距離を大切にする。
韓国と日本では人との距離感の取り方が違う。」とおっしゃっていたのが印象に残りました。
拓殖大教授の呉善花さんがある本に書かれていましたが、表面がザラザラして暗い色の陶磁器は韓国人の美意識から見ていいものとは思われないそうです。
P先生は日本人の美意識を理解されて陶磁器がお好きなようで、Y君が持参したプレゼントを気に入って頂いたようです。
今回の旅行を通して、良き韓国を発見し、同時に良き日本、良き仲間を発見できたことが、
日韓関係の溝を埋める何かの縁になればと願って、このシリーズを終えます。
釜山旅行3【慶州】(平成26年2月21日)
3日目も朝6時、日本と時差のない韓国ではまだ夜が明けないうちにホテルを出発しました。
週末の朝、若者の街西面はカラオケ店から大音量の音楽が流れ、ゴミが道路に散乱しています。
朝食は豚骨スープにご飯を入れたテジクッパプ、薄味なため塩、醤油、キムチで味を調えますが、豚骨系が苦手なのであまり好きにはなれない味です。
店はオールナイトで遊んだ若者でごった返しています。
この日の行き先は慶州、地下鉄1号線で終点の老圃へ行き、そこから高速バスで1時間ほどの距離にあります。
慶州から路線バスで仏国寺へ行き、そこで石窟庵行きのシャトルバスに乗り換えます。
山を登るに従って雪が深くなり、終点の駐車場からは15分ほど雪道を歩きます。
石窟庵は花崗岩を組んでドームを築き、上から土をかぶせた人工石窟です。
丸い主室に安置されている本尊の釈迦如来像の周りには四天王や菩薩のレリーフが配置され、その精緻さと美しさは新羅仏教美術の最高峰と言われています。
補修工事のためガラス越しに部分的にしか見えないのが残念ですが、きれいなお釈迦様です。
シャトルバスで仏国寺まで戻り、門の前で記念写真を撮ろうとしていた時、「撮ってあげましょう。」とおじさんが話しかけて来ました。
外国人は有料とのことでしたので、チケットを買って入ろうとするとそのおじさんがチケットを切り、寺の案内を申し出てきました。
てっきり係りの人かと思っていたら、門前で食堂とお土産屋を経営しているとのことです。
食事は別に予定していたため断りましたが、あまりに丁寧に説明して頂いたため、買う予定のなかったアメジストのアクセサリーを求めました。
国立慶州博物館前でバスを降り、南川沿いに2kmほど歩いて予定していた韓定食の店に向かいます。
ヨソックンは貴族の屋敷を使用した高級韓定食のレストランです。ここで本物の両班伝統料理を堪能してきました。
この日歩いた距離は10kmほど、健脚の2人は半月城を通って再び徒歩で、その他の3人はタクシーで戻り、博物館の中で合流しました。
バスターミナルで慶州名物のファンナムパン(薄皮饅頭)を買ってバスに乗り、釜山に戻った時はすでに日は落ちていました。
昼食が遅い時間でしかもフルコースであったため、晩御飯は軽めの麺類で済ませ、釜山最後の夜にしては部屋での宴会もささやかなものになりました。
釜山旅行2【晋州】(平成26年2月20日)
2日目、朝6時にホテルのロビー集合の予定でしたが、同室の2人がなかなか降りて来ません。
前日遅くまで飲んでいたので気になって電話したところ、起きたばかりの声が返ってきました。
この日は西部バスターミナルのある沙上まで地下鉄で行き、そこから高速バスで2時間ほどの距離にある晋州へ向かいます。
朝食はバスターミナル前のうどん屋で、キムチうどんとおにぎりのセットを注文しました。
「おにぎり」や練り物がメインの「おでん」はそのまま韓国語になっています。
晋州の観光スポット晋州城は、外敵からの侵略を防ぐために三国時代に造られた城で、最初土城でしたが、
1379年に日本からの侵略に備え石城に改修されました。
1592年10月、2万の豊臣軍に対抗して金時敏将軍が率いる3,800人の軍人と城民が戦い、勝利を収めます。
これが壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の三大勝利と言われている「晋州大捷」です。
翌年6月には10万の豊臣軍が再び侵略し、7万の民/官/軍が抵抗して戦いましたが、全員殉国した悲運の場所でもあります。
晋州城の中にある国立晋州博物館では、日本では教科書で少ししか触れない文禄・慶長の役の実状と歴史的な意味を
11のテーマに分けて解かりやすく展示されています。
再建されカラフルに彩色された城内の建造物の中で、義妓祠は小さい建物ですが、印象的です。
壬辰倭乱当時、日本の武将を抱きかかえて南江に身を投げて殉難した妓生ノンゲの魂を称えるために建てられた祠で、
美しいノンゲの肖像画が掲げられています。
昼食は晋州名物のウナギ料理です。南江沿いに何軒も並んでいる店の前には呼び込みのおばちゃんが立っています。
サナギやキムチ、何種類もの前菜の後に、醤油ダレ味とコチュジャンベースのヤンニョム味の2種類のウナギの蒲焼が運ばれてきました。
苣と大葉の上にウナギと薬味を一緒に載せ、巻いて食べます。ビール、マッコリと焼酎でこの日も昼から宴会です。
釜山に戻ってから地下鉄でチャガルチ駅近くのスーパーハナロマートへ行き、お土産の食品を買い求めました。
農協直営のため、食品の鮮度や安全性に信頼がおけ、品数も豊富です。
このあたりへ来たのは20年ぶりです。釜山国際ホテルの支配人だったFさんの案内で、チャガルチ市場で食事をしたり、
国際マートでメガネを作ったりしましたが、その当時と様子はあまり変わっていません。
ホテルへ帰って暫く休んでから近くのサムギョプサルの専門店へ行きました。
スライスした豚の三枚肉をしっかり焼き、タレにつけて食べると「マシッソヨ」。
満席で40分近く待たされましたが、待った甲斐がありました。
釜山旅行1【金海】(平成26年2月19日)
初めての韓国との出会は40年以上も前、アメリカバーモント州ブラットルボローにある語学学校です。
韓国人女性のオコと知り合い、アジア人留学生が主催したオリエンタルパーティーでは、華やかなチマチョゴリを着てホステス役を務めてくれました。
ホームステイ先のオハイオから、ワシントンDCに行った時に再会し、賑やかな桜祭のパレードとポトマック河畔での異国の花見を楽しんできました。
帰国後、昭和50年1月にソウルの彼女の家へ行ったのが、初めての韓国旅行です。
就職が決まった前年の夏に予定していたのですが、朴正煕大統領の夫人が在日韓国人によって射殺された事件があり、ビザの期限ぎりぎりまで延期しました。
母親とアメリカで医者をしている兄を含む5人の家族の他にお手伝いさんがいる裕福な家庭で、一週間ほどお世話になりました。
社会人になってからは、国際会議、韓国の橋梁メーカーへの技術営業、社員旅行等で何度かソウルや釜山、馬山、済州島に行く機会がありました。
最初の頃は文字が読めなくて、ハングルに酔ったような感じでしたが、文化や食事の面での違和感はなく、昭和の日本にタイムスリップしたような感覚でした。
今回の釜山旅行は、何度も個人旅行している韓国通の同級生Y君の企画に4人が手を上げて実現しました。
2月7日に関空を発つときは曇り空でしたが、エアープサンで着いた金海空港はあいにくの雨です。
最初の目的地は、金官伽耶を建国した首露王の王陵です。
ニュートラムの様な軽鉄道に乗り、最寄りの金海首露駅で下車しましたが、小さい駅でコインロッカーがありません。
仕方なく傘を差し、荷物をゴロゴロ引いて歩き始めました。
その時、「ナンミョウホウレンゲイキョウ」と叫びながら寄って来たおばさんがいます。
見ると宗教新聞の束を抱えています。こんなところで日蓮宗系の宗教の勧誘を受けるとは思いませんでした。
頼んでもいないのに道案内をしてくれましたが、雨の中、重い荷物を引きながら歩く5人のおじさんと
題目を唱えながら先導するおばさんの姿はどのように映ったでしょうか。
首露王陵の近くに大成洞古博物館がありますが、国の文化政策によりこの手の施設は基本的に無料です。
金海市の職員で日本語の流暢な女性の案内で、丁寧に館内を案内して頂いた後、紹介されたレストランに向かいました。
平日の5時前で、客は我々だけです。猛威を振るっている鳥インフルエンザが気にはなりましたが、名物の鴨鍋を注文しました。
何種類もの前菜とメイン料理に飲物はビール、マッコリに焼酎。このアルコールの組み合わせが、韓国での食事の定番になりました。
シンガポール旅行3【観光】(平成25年10月2日)
ガーデンズ・バイザベイはマリーナベイ・サンズに隣接する広大な敷地の公園で、その中にフラワードームとクラウドフォレストがあります。
フラワードームは普通の熱帯植物園の感じですが、クラウドフォレストは迫力があります。
ドームの中心に7階建のビルの高さほどの岩山があり、そこから滝が流れ落ちています。
滝壺に面している入口を入ると、水しぶきと風圧を感じます。
エレベーターで最上階まで上がり、螺旋状の通路をゆっくり下りながら、熱帯雨林で見られるカラフルな植物を観賞できます。
2日目の夜に行ったナイトサファリ園は、およそ2,500頭の夜行性動物が生息する夜間のみ開園している動物園です。
トラムに乗っている40分ほどの間、ヒマラヤ丘陵から東南アジア、アフリカのジャングル地帯までの様々な動物たちの自然の姿が間近で見られます。
翌日はシンガポール植物園へ女房と二人で地下鉄に乗って行きました。
お目当ては世界最大規模の国立蘭園。赤道から1度しか離れていない場所に位置するシンガポールの気候は、蘭の栽培に適しているそうです。
途中でスコールに会いシェルターで1時間ほど雨宿りしましたが、後から来たマレー系の女の子たちの食べて、喋って、笑ってのやかましいこと、
大阪のおばちゃんもかなわない位です。
帰国は桂川を氾濫させた台風上陸の日と重なり心配しましたが、運よく台風を避けた時間帯に福岡、成田、関空へ無事到着しました。
(写真をクリックするとアルバムが開きます。)
シンガポール旅行2【食事】(平成25年9月30日)
シンガポール旅行1【橋】(平成25年9月27日)
ホテルは3棟の建物が屋上にある空中庭園で繋がったマリーナベイ・サンズ。
すぐにはチェックインできないため、休憩する部屋に案内されましたが、相部屋でゆっくりできないので、上の息子と周辺の散策を始めました。
彼は、翌週シンガポールで開催されるF1のレース会場に興奮気味でしたが、私が興味をひかれたのは建物や橋です。
地震の心配がないため、建築家が自由にデザインするようで、どれを見ても斬新です。
マリーナベイの入口に架かる歩道橋は遺伝子を思わせるような2重螺旋構造のステンレス製です。
橋とスカート姿の女性は下から見るのが良いと橋梁工学の授業で教わりましたが、この橋はどこから見ても曲線の塊で、
ふくよかな女性らしい色気は感じられませんでした。
プリンスエドワード島(平成29年11月18日)
プリンスエドワード島のシャーロットタウンに着いたのは夜の11時近くです。
女性ガイドの方が小さな空港に迎えに来ていて、ホテルまで送ってくれました。
もうレストランは閉まっているため、おにぎりの夜食を用意してくれていたのが何よりのご馳走でした。
B&Bタイプの小さなホテルはレストランの上の階に客室があります。
メルヘンチックなこぎれいな部屋の壁には赤毛のアンの絵が飾ってあります。
シャワーを浴びようとバスルームに入った時に女房の悲鳴が聞こえてきました。
ナイアガラのワイナリーで買ったワインが1本割れていて、トランクの中の物が赤く染まっています。
プチプチのある緩衝材にくるんでいたのですが、ビンの底がスパット切ったように割れています。
衝撃が加わったのではなく気圧によって底が抜けたようで、ガラスのかけらはありません。
もったいないので半分残っていたワインはコップに移し、注意しながら飲みました。
翌日は我々2人だけの専用車で、専任ガイドが案内する島内観光です。
おじさんとおばさんを撮影するには不釣り合いな高級カメラでバチバチと撮影してくれます。
ナイアガラの時と同じように、新婚カップルのためのオプションのようです。
地元の人が集うファーマーズマーケットから始まり、東部地区の秋色の風景を案内してもらいました。
赤毛のアン時代のままに保存されたオーウエル歴史村では、壁や屋根に木片を鎧上に貼り合わせた家が点在し、家畜小屋では豚や鶏が飼われています。
23号線沿いの背の低いブルーベリー畑は紅葉しています。
プリンスエドワード島は愛媛県ほどの大きさですが、カナダのジャガイモの3割近くを生産していて、大型のジャガイモ運搬車をよく見かけました。
広大なりんご畑ではりのご狩もしましたが、3個ほど取って持っていくとお代はいらないといわれました。
その後ロシニョールワイナリーへ行き、試飲して2本ほど買い求めました。昼食は漁港近くのレストランでのシーフードです。
レストランにはサイクリストのにぎやかなおばさんたちも来ていました。
この島はなだらかな丘が中心で高い山はなく、廃線になった線路を利用して島全土を結ぶサイクリングコースが整備されています。
きれいに小石を敷いて整備されたコンフェデレーション・トレイルと呼ばれるこのコースは、総延長357kmにおよぶそうです。
ツアーから帰った後島名物のロブスターのレストランへ行き、外の看板を見てテイクアウトできるかを調べていたら、
食事を終えたおばさんが出て来て日本語で「こんにちは!」と話しかけてきました。
友達から勧められてこのレストランへ来たが、ロブスターをパンで挟んだロブスターロールが美味しかったとのことです。
このおばさんとはその後ロブスターを販売している店や教会で再会し、「よくお会いしますね」と言って別れました。
翌日は日本人の観光客を集めたツアーに参加し、赤毛のアンの作者のモンゴメリーに関係する観光地を訪問しました。
翌朝早く島を離れ、トロントから羽田へ向かいますが、かなりの乗り継ぎ時間を空港で過ごしました。
空港内のオープンのレストランは注文しなくても長い時間席に着いていることができます。
注文する場合は各席に備え付けられた端末を操作し、支払いは端末にクレジットカードを入れて暗証番号を入力するだけです。
自動販売機にもクレジットカードの読み取り装置が付けられています。日本でのキャッシュレス化の遅れを感じる一面でした。
時差12時間、飛行時間12時間をかけて羽田に戻り、国内線乗り換えの時間に東京に住む息子と食事をして伊丹に戻り、2度目の新婚旅行を終えました。
モントリオール(平成29年11月7日)
トロントから次の目的地のモントリオールまでは2時間半のフライトです。
現地のガイドの方が空港まで迎えに来てくれていて、車の中でモントリオールの町についての話を伺う機会がありました。
モントリオールは、カナダではオンタリオ州のトロントに次ぎ人口・経済規模で第2の都市です。
住民の大半がフランス系カナダ人を中心にしたヨーロッパ系で、都市圏の住民の7割弱が第1言語をフランス語としているそうです。
1967年にモントリオール万国博覧会、1976年にモントリオールオリンピックが開催されました。
かつてはカナダ最大の都市だったのですが、1970年に生じたイギリス資本を標的とした社会混乱、
およびその後のフランス語単一公用語化に伴い、多くの企業の本拠地がトロントへと移ったそうです。
実はモントリオールを訪れるのは今回が初めてではありません。今から45年前に一度来たことがあります。
当時アメリカバーモント州ブラッテルボローにあるユネスコが後援する国際研修スクールで3ヶ月ほどの英語教育を受けていました。
世界各国から生徒が集まっている中で、特に親しかったのは同じ寮にいたメキシコ人のマリオです。
彼と同じメキシコ人のぺぺ、それにコロンビア人のマルコを加え、週末にレンタカーを借りてモントリオールへ行きました。
雪の積もっている建物や万博会場跡地、植物園へ行った様子が当時の写真に写っています。
その中で今でも鮮明に覚えているのはノートルダム大聖堂に入った時の光景です。
カトリックの教会に入るのは初めての経験だったのですが、天井から降り注ぐまばゆいばかりの光に圧倒されてしまいました。
マリオに帽子を取れと言われて我に返ったようです。
ホテルにチェックインしてから歩いて10分ほどの距離にあるノートルダム寺院に向かいました。
周りの建物の記憶はほとんどありませんでしたが、中に入った瞬間のあのまばゆい光景だけは変わらないものでした。
ただ、光の色は黄金色だと記憶していたのですが、今回の印象では青っぽく見えました。
左の写真をクリックするとアルバムが開きますが、45年を隔てた大聖堂の写真も掲載してあります。
2日間乗り降り自由の2階建てバスツアーをネットで予約しておいたので、大聖堂近くのバス停を探したのですが、場所がよくわかりません。
15分間隔で運行しているので、何台か観光バスが停車している公園でしばらく待っていると特色のある真っ赤な2階建てバスがやって来ました。
チケットの予約券を見せると乗れたので2階席に座りましたが、寒いのでしばらくして1階に下りました。
バスは2時間ほどでルートを1周するため1日目はガイドの観光案内を聞くだけで、どこにも降りずに元のバス停に帰るつもりでいましたが、
始発のバスセンターで全員下ろされてしまいました。
バスの運行時間を過ぎているため、次のバスに乗り換えることができません。
仕方なくダウンタウンを30分ほどホテルまで歩いて帰りました。
途中チャイナタウンで肉饅とエビ餃子をテイクアウトし、その日のディナーはホテルの部屋でナイアガラワインと飲茶です。
翌日もバスに乗り、ポワンタカリエール博物館、モントリオール美術館、聖ジョセフ礼拝堂などで途中下車して見学し、
ボン・スクールマーケットのイタリア料理店でピザとワインの少し遅めのランチを取りました。
その日の夜にプリンスエドワード島に移動するのですが、迎えの車が渋滞のため30分ほど遅れて来たのと、
セキュリティーチェックの長蛇の列のため、飛行機に乗るまでずいぶん時間がかかりました。
1km近くロープが張ってあるところを見るとこの大渋滞は常態化しているようです。
海外を旅行していつも感じる、「やはり日本の方がいいな」と思える一コマでした。
ナイアガラの滝(平成29年10月23日)
「赤毛のアン」の島、プリンスエドワード島へ行きたいと女房から提案があったのは半年ほど前のことです。
名前は知っていましたが、本は読んだことがなかったので、丁度その頃上映されていた映画を見てきました。
「赤毛のアン」がタイトルだと思っていたのですが、原作のタイトルは「緑の切妻屋根のアン」で、日本語に翻訳して出版されるときに変更されたそうです。
ネットで予約しておいた伊丹空港近くの駐車場に車を預け、羽田経由で最初に観光するナイアガラ近くのトロントへ行きます。飛行時間は約12時間。
太平洋を横切るのかと思っていましたが、飛行機は北の方へ飛び、千島列島を北上してカムチャッカ、アンカレッジ経由でトロントへ向かいます。
機内食は3食出されどれも美味しいのですが、動かないのであまりお腹が空きません。
旅行では食べ過ぎて胃の調子がおかしくなることがよくありますが、今回も例外ではありませんでした。
飛行機の食事ではいつも小瓶の赤ワインを2本頼みます。
2本目をインド人のパーサーに頼んだのですが、忘れたのか無視されたのか最後まで届きませんでした。
トロントはオンタリオ湖の北西に位置するカナダ最大の都市です。
トロントから日本人旅行客を集めてナイアガラまで車で移動しますが、我々の便が早く着いたのとカナダ国内を旅行している人の便が遅れたので、
空港でかなり待たされました。
小銭が欲しかったので、セブンイレブンでコーヒーを買いましたが、日本のコンビニの美味しいコーヒーと違い、量が多く味はもうひとつでした。
1時間半ほどかけてナイアガラに向かいますが、片側5車線の広い高速道路では時速120km以上でもそれほどのスピード感はありません。
途中帰宅ラッシュで渋滞している区間では、2人以上乗車している車の優先レーンを通りスムーズに通過できました。
エリー湖とオンタリオ湖を結ぶナイアガラ川は航行不能のため、ウェランド運河が建設されました。
その建設にイタリア人労働者が係わった関係で町にはイタリア人移民が多いそうです。
ナイアガラでの宿泊は滝のすぐ傍にあるシェラトンホテルで、ライトアップされたアメリカ滝とカナダ滝が部屋の窓から見られます。
夕食はビュフェ形式のディナーで、バウチャーを手渡すと滝の見える席に案内してくれました。
翌日はイギリスの赤い2階建バスを改良したバスに乗り観光ツアーです。
ツアーガイドは若い日本人女性で、説明、客の扱い、運転手とのコミュニケーションも慣れたものです。
このツアーでは各地で彼女の様な日本人ガイドにお世話になりましたが、海外に1人で来て働いている姿に力強さを感じます。
テーブルロックはカナダ滝のすぐ横にあり、滝の水が落ち込むのが間近に見えます。
ナイアガラクルーズでは合羽を着て船に乗り、滝の近くまで行きます。
水しぶきが土砂降りの雨の様に降り注ぎ、迫力は満点で、荘厳で神聖な日本の滝とはスケールが違います。
ワールプールは滝の下流にできた淀みで、川がそこから直角に曲がるため水が渦を巻いています。その大きさは鳴門の渦潮以上です。
最後にワイナリーを訪れ、試飲してナイアガラワインを4本買いました。
ここではアイスワインが有名ですが、値段が高く、甘くて食事には合わないため普通の辛口にしました。
ツアーの最後に私たち夫婦だけに、ハネムーンでここに来たというナイアガラ市長のサイン入りの証明書が手渡されました。
そういえば部屋に果物のバスケットが届けられていたりして、間違って新婚プランになっていたようです。
パートナーは変わりませんが2度目のハネムーンになりました。
(写真をクリックするとアルバムが開きます。)