餅ふみ2(平成29年3月2日)
大分県北東部に拳のように突き出た国東半島は、宇佐の八幡信仰と古代仏教とが融合した「神仏習合」が今も残る地です。
平安時代から中世にかけて半島には6つの郷が開け、山あいには天台宗と結び付いた65ヶ寺ともいわれる数多くの寺院が作られました。
これらは総称して六郷満山と呼ばれ、独特な仏教文化が花開きました。
宇佐神宮の次に訪れたのは六郷満山のなかで、満山を統括した西叡山高山寺の末寺の富貴寺です。
山門の両側に立つ石造りの仁王像は大人の背丈ほどで、巨大な木造の仁王像を見慣れている関西人にはなじみの薄い姿です。
雨の日は文化財保護のためお堂の扉が閉められ、中を見学できないかも知れないとガイドが心配していましたが、
雨上がりに訪れた時は幸いにも扉は開いていました。
住職の案内でお堂の中に入り、本尊の阿弥陀如来像の前に座って説明をお伺いすることができました。
風化が激しいのですが堂内には極楽浄土の世界を描いた壁画が施されています。
極彩色で描かれていたという調査結果から、忠実に再現されたCGのパネルで往時の美しさが伺えます。
富貴寺大堂は、戦時中B29の爆弾で屋根や扉が吹き飛んだりして、数多くの修理、部材の交換が行われました。
それでもなお国宝に指定されているのは、建物、壁画の価値がそれを上回るものだからとのことです。
昼食は、お寺の前にある土産物屋を兼ねた食堂で、大分名物団子汁が付く田舎定食を注文しました。
小皿に盛られた椎茸の佃煮を酒の肴に、地元の銘酒「西の関」のワンカップと共に美味しく頂きました。
次に訪れた真木大堂は、六郷満山本山本寺として最大の寺院であった馬城山伝乗寺が衰退したため、9体の本尊をこの一堂に集めたものです。
本尊阿弥陀如来坐像をはじめ木彫り日本一の不動明王立像、大威徳明王像他すべての仏像が国の重要文化財に指定されています。
中でも六面六臂六足の大威徳明王像が、六本の足で水牛にまたがっている姿は迫力があります。
今回の史跡巡りで最も楽しみにしていた次に向かう熊野磨崖仏は、そう簡単には近づけません。
麓の胎蔵寺でレンタルの杖を2本借りて山道を300m程登ると、鬼が一夜で築いたと伝えられる自然石の乱積石段が現れます。
熊野古道ウォークで石段には慣れていますが、ここから蹴上げが30cm以上もある石段を10分ほど登り続けなければなりません。
この石段を上ると、左側の巨大な岩壁に刻まれた大日如来と不動明王の磨崖仏が現れます。
高さ8m、右手に剣を持つ雄大な不動明王は、ねじれた左側の辮髪が胸のあたりまで垂れ、両眼球は突出して鼻は広く、牙を持って唇を噛んでいます。
憤怒の形相ではなく人間味のある慈悲の相を備えており、優しさが感じられます。
最後に訪れた両子寺では、山門に続く石段の両側に立つ2mを超える仁王像が迎えてくれます。
本堂の護摩堂の前には最澄の言葉「一隅を照らそう」と書かれた旗が掲げられており、天台宗の寺であることが分かります。
両子寺を最後にバスは別府を経由して大分へ向かいますが、途中の別府港で降ろしてもらいました。
フェリー乗り場には冷めたお弁当しかなかったため、温かい食材をコンビニで調達しフェリーに乗り込みました。
一等船室は海の見える窓が有り、2段ベッドが2つある個室で、2人で使うには十分な広さです。
部屋と比べるとそんなに広くはない風呂は大変な混みようです。乗船してすぐに行きましたが、脱衣場も洗い場も順番待ちです。
孫の成長を見るために博多に来るのを機会に、これまでに幾度となく九州の観光地を巡って来ました。
九州へは後何度来られるかはわかりませんが、これからも孫の成長と息子の転勤先を追いかけ、次はどこを拠点に観光できるのかが楽しみです。
餅ふみ1(平成29年2月16日)
初めての誕生日には、1歳まで成長したことを祝うと同時に、色々な行事があります。
「餅ふみ」では一升餅を大地になぞらえ、お餅の上に立たせ、「しっかり地に足をつけて歩いていけるように」とか
「一生を強く歩ききる足腰の強い人間になるように」などの願いを込めます。
「選び取り」は赤ちゃんの将来の職業または才能を占うもので、赤ちゃんの前にいくつかのアイテムを置き、
興味を示して手に取ったもので判定するといった行事です。
先日、孫の1歳の誕生日を祝うため、女房と2人で博多へ行ってきました。
前日40度近くの熱を出した孫は、すっかり元気を取り戻していましたが、大事を取って予定していた会場をキャンセルし、
息子の自宅で祝うことになりました。両方の祖父母を交えた祝いの宴の後、その行事が始まりました。
「餅ふみ」の後の「選び取り」で、孫が真っ先に手を出したのは筆でした。
しかし、その後電卓、お金、辞書に手を伸ばし、最後は地球儀に落ち着きました。母親の見立てでは「世界をまたにかける男」になるそうです。
夕方、孫たちと別れ、博多駅でお土産と平野屋の焼サバ鮨やお酒を仕入れ、特急電車で中津に向かいました。
その日宿泊するルートインホテルは、中津藩出身の偉人、福沢諭吉像が建つ駅前のロータリーを曲がってすぐの所にあります。
このホテルを選んだのは大浴場があることと、フェリーの乗車券とセットで6,000円の割引があるためです。
翌朝ホテルを出て国東半島史跡めぐりの観光バスに乗るため、再び電車で宇佐へ向かいました。
宇佐駅前のバス停で大分から到着したバスに乗ると、乗客は我々を合わせても5人しかいません。
これで採算がとれるのか心配になります。乗車して間もなく最初の目的地、宇佐神宮に到着しました。
ガイドは定年退職された方のようでしたが、ベテランで要領を心得ておられます。
この後の史跡巡りの時もそうでしたが、要点を説明し、集合時間と場所を確認した後の行動は、参加者の自由に任されました。
宇佐神宮は全国に4万社あまりある八幡様の総本宮です。
八幡大神(応神天皇)・比売大神(八幡さまが現われる以前に地主神として祀られ崇敬されてきた古い神)
・神功皇后(応神天皇の御母)をご祭神にお祀りし、神亀2年(725年)に創建されました。
神橋を渡ると笠木と横木(島木)が反り返り、巨大な台石が地面に踏ん張っているあでやかな朱色の大鳥居が迫ってきます。
この鳥居は宇佐古来の形式をもつ鳥居として有名で、扁額はなく台輪を柱上に置いています。
扁額がないのは、名を掲げるまでもない別格のお宮であることを物語っているそうです。
また鳥居上部の横木と柱の結合部が、黒い台輪で結ばれているのは神仏習合であることを示す印ではないかとのことです。
境内は広大ですが、歩いていると空間的な広さが感じられません。
社叢の枝が参道にアーチをかけ、アーケードのように茂っているところもあります。
緑の回廊を抜けて西大門をくぐると、頭上が開けて目の前に壮麗な宇佐神宮上宮の社殿が現れます。
本殿の前には拝所となる壮麗な楼門があって、全景を眺めることは難しいのですが、楼門の隙間から八幡造の特徴を確認することができます。
ここでの参拝の作法は、一般的な「二拝二拍手一拝」ではなく「二拝四拍手一拝」です。
この拝礼作法は出雲大社と宇佐神宮でしか行われていません。
古来日本では貴人に対して拍手を打つ風習がり、柏手を多く打つのは、それほど尊いという意味があるそうです。
お伊勢参りをした西行は、その神々しさに胸を打たれ、「かたじけなさに涙こぼるる」と詠みました。
そこまでの感動はありませんでしたが、ただ浄げに存在する宇佐神宮に「二拝四拍手一拝」のお参りをして次の目的地へ向かいました。
熊本旅行(平成28年11月20日)
お盆の帰省で初めて我が家を訪れた孫は、ようやく寝返りが打てるようになったばかりでしたが、
最近はハイハイができ、いたずらが盛んになってきたようです。
日々の成長の様子は母親がアップしてくれるSNSの「mitene」で見ていますが、やはり会って確かめてみたいものです。
いつもは息子のマンションを訪ねて、昼食をともにして一緒にいる時間を作っていましたが、今回は熊本県菊池市にある同じホテルに泊まることにしました。
博多口から歩いて5分ほどの所にあるニッポンレンタカーでプリウスを借り、大分県の日田経由で熊本方面へ向かいます。
日田は古くから北部九州の各地を結ぶ交通の要衝として栄え、江戸時代は天領として、九州の政治・経済・文化の中心地として繁栄した町です。
当時の歴史的な町並みや伝統文化が、今なお受け継がれています。
最初に訪れた日田祇園山鉾会館は、石畳で舗装された細い道を進んだところにあります。
世界文化遺産に登録された祭の山鉾のリストに、京都の祇園祭などと並んで日田の祇園山鉾の名前を見つけ、訪れることにしていました。
毎年7月に行われる祇園祭に曳き出される5基の山鉾と見送りなどが展示されています。
幾重にも人形が重なり、10mを越える高さにもなる山鉾の豪華絢爛さに驚かされます。
次に訪れた咸宜園は、江戸時代後期に生まれた儒学者・廣瀬淡窓が開いた日本最大規模の私塾です。
「咸宜」とは、「すべてのことがよろしい」という意味で、門下生一人ひとりの意思や個性を尊重する教育理念を塾名に込めたそうです。
日田からは国道212号線を通り阿蘇神社へ向かいます。そこには何度もテレビで目にした痛々しい姿の社殿がありました。
楼門・拝殿が倒壊し、三つの神殿も大きく破損しています。ただ不思議なことに周りの古い民家で倒れている家は一軒もありません。
地震で被害を受け、さらに阿蘇山の噴火で灰を被り、神の加護は自身には届かなかったのかも知れません。
阿蘇神社から菊池までは1時間ほどの距離ですが、途中で大渋滞に捕まってしまいました。
地震で阿蘇大橋が落橋したため熊本方面へ向かう道は一本しかなく、しかも秋の行楽の車と重なり、阿蘇の外輪山を登る道は10km以上の渋滞です。
急な坂道を自転車に乗った若者が追い越していくほどののろのろ運転です。
ナビは大津経由で菊池へ行く道を案内していましたが、菊池を示す道路標識があり何台かの車はその道を通って行ったので、後ろについて行きました。
すると、ナビが「通行できない可能性があります」と繰り返し警告します。
なんとか近道をすることができましたが、距離優先の設定になっていたようで随分と狭い道を案内されました。
ホテルで孫たちと再会して一晩過ごした翌朝、孫と二人で散歩がてらに市民広場で開かれていた菊まつりを見学してきました。
行きはおとなしく乳母車に乗っていてくれたのですが、帰りはむずかり、片手で10kg近い孫を抱き、乳母車は押して戻りました。
その日は山鹿に向かい、江戸時代から伝わる八千代座を見学してきました。修復を繰り返して現在でも歌舞伎や芝居が行われています。
案内してくれた小柄なおばさんは話しがうまく、大正ロマンの宿る芝居小屋の様々な仕掛けを説明してくれました。
山鹿を後にして最後に西南戦争の激戦を物語る史跡がある田原坂公園に向かいました。
ここで孫たちと別れ博多に戻りレンタカーを返しました。博多駅前の道路が陥没したのはその2日後のことです。
何とその場所はレンタカーを借りた店のすぐ横です。セブンイレブンの隣にある立体駐車場の出入口から出て陥没した箇所を通っています。
今後ニュースになるようなどんな事故にあうかわかりませんが、それに一番近い瞬間だったのかも知れません。
スーパーカート(平成28年7月18日)
孫の成長を見たいため、博多の息子の家を訪問してから九州各地を観光する旅は、今回で4度目になります。
息子家族と別れた後、割安な2枚つづりの回数券を利用して熊本へ向かいました。
お昼は沢山のお酒とご馳走を頂きましたので、熊本での夕食はホテルの部屋での軽い食事にしようと名物のからしレンコンを買いました。
そのからしレンコンの辛いこと。ゴルフ場の昼食であんかけ硬焼きソバにマスタードをたっぷりかけるのが好きな私でも食べきれません。
一口食べる度に鼻の奥にツーンとくる刺激をお酒で流し込みながら半分ほど頂きました。
翌朝、散歩がてらにホテル近くの熊本城へ行きましたが、テレビで見たとおりの無残な姿に出会いました。
柵があってお城の中へは入れませんが、近くに熊本城の歴史体験と食文化に出会う施設「城彩苑」がありました。
朝早いので店は閉まっていますが、敷地内へは入ることができます。しかし、一歩中に入ると警告音が鳴り響きました。
営業時間外は入れないとのことで、後で駆け付けた警備員に注意されましたが、看板ぐらいは出しておいてほしいものです。
ホテルに戻りレストランに入ると観光客やビジネス客とは思えない若い方が多く、震災のボランティアのように見受けられました。
市電に乗って熊本駅まで向かい、駅前でレンタカーを借り90kmほど離れた高千穂へ向かいます。
落橋した阿蘇大橋の状況を見たいため、行きは国道57号線を通り、大津から迂回路を通って阿蘇大橋の反対側に出ましたが、
帰りは地震の影響のない南寄りのルートを通りました。途中ブルーシートを被った家が目立ちます。
橋に通じる道路の真ん中には通行止めの看板が立っていましたが、道路の端に「茶庵とちのき営業中」の看板を見つけました。
その日の朝刊にこの店を紹介する「阿蘇大橋前の喫茶店、営業中」の記事が掲載されていました。
『地元出身の女性が経営する「茶庵とちのき」は阿蘇大橋の南1.5kmの国道沿いに1989年にオープン。
地元の小国杉を建物や店内の机などにふんだんに使い、窓から見る景色の良さで知られる。
橋を渡って来る東海大の学生や教員、観光客に人気だった。建物に地震の被害がなかったので、7月から再開した。
ただ、店の前の交差点に「通り抜けできません」と迂回を指示する看板が立っているため、車が通らない。
「営業中」の看板を立てたが、客は連日数人。窓から見える山も梅雨の大雨で土色の山肌が余計目立つようになった。
「他の道が通れない分看板の前を通る車の量は増えた。新しいお客さんも来るはず」と気長に構えている。』
その新しいお客さんになるべくお店に寄ったのですが、あいにくの定休日でした。
駐車場に車を止め、庭から見た眺めは記事の通りで、阿蘇大橋を押し流した土砂崩れの後が生々しく残っていました。
ここから国道325号線を通り高千穂へ向かいます。
高千穂では主な観光スポットの天岩戸神社、天安河原、高千穂神社、高千穂峡を足早に観光して、あまてらす鉄道のスーパーカートに乗りました。
平成17年に台風の影響で廃線になった旧高千穂鉄道の路線をオリジナルスーパーカートで隣の天岩戸駅を往復する観光列車です。
スーパーカートといっても2台の軽トラックを後ろ向きにつないで線路の上を走れるようにしたものです。
この時間の運行では、運転手と車掌の他に客は私と女房の2人だけです。
地震の前までは鉄橋の上で止って雄大な景色を眺めることができたのですが、地震の後は鉄橋の安全性が確保されていないため、鉄橋の手前で折り返します。
ガセットの回りに錆びはありますが、立派なトラス橋です。
自分は橋の専門家で大丈夫だと保証すると、明日から橋の上を渡る運転を再開するとの答えが返ってきました。
初節句(平成28年6月2日)
太宰府にある観世音寺は、天智天皇が、母君斉明天皇の冥福を祈るために発願されたもので、80年後の聖武天皇の時代に完成しました。
古くは九州の寺院の中心的存在で、たくさんのお堂が立ちならんでいましたが、現在は江戸時代初めに再建された講堂と金堂が残るのみで、
境内は樟の大樹に包まれています。昭和34年、仏像を災害から守るために正倉院風な収蔵庫が建設されました。
この中には平安時代から鎌倉時代にかけての仏像16体をはじめ、重要文化財の品々が収容されています。
孫の初節句のお祝いに博多に行くのを機に、女房とその母親、妹の4人で大宰府を訪れることにしました。
最初に訪ねた観世音寺は、奈良の仏像館に匹敵する規模の仏教芸術の殿堂で、5m前後の観音像がずらりと並ぶ姿には圧倒されます。
収蔵庫内は我々4人だけで、2階に上るとタイミングよくスピーカーから説明が流れてきました。
居並ぶ古い仏たちの盛時がしのばれる丁寧な解説で、ゆったりと仏様に対面する時間を持てました。
九州国立博物館は観世音寺から車で5分ほどの所にあります。
100年以上の歴史を有する東京、京都、奈良の3つの国立博物館が美術系博物館であるのに対して、九州国立博物館は歴史系博物館としての特色があります。
旧石器時代から近世末期までの日本文化の形成をアジア史的観点から捉える展示がされています。
国際競技の可能なサッカー場がらくらく一面すっぽり入るほどの、とても迫力のある蒲鉾型の建物です。
特別展「始皇帝と大兵馬俑」が開催されており、始皇帝陵の地下坑から出土した2輛の銅車馬が展示されていました。
始皇帝は皇帝の権威を誇示し、各地域の視察および祭祀の実施などを目的とした天下巡遊をこの馬車に乗って行っていますが、
第4回巡遊の途中で亡くなります。
始皇帝の死が天下騒乱の引き金になることを恐れた宦官の趙高は、死臭をごまかすため大量の魚を積んだ車を伴走させ、
始皇帝がさも生きているような振る舞いを続けます。
そして正統な後継者である始皇帝の長子を自殺に追いやり、自分の意のままになる別の子を二世皇帝とし権勢をつかみます。
出土した2輛の銅車馬は始皇帝の霊魂を載せた車とその先導役の車であると考えられていますが、何やら嫌なにおいが漂う錯覚に襲われます。
九州国立博物館から山を下る長いエスカレータに乗り大宰府天満宮へお参りし、咲き始めた菖蒲園の傍の休憩所で名物の梅ヶ枝餅を頂きました。
その日の宿は佐賀県の古湯温泉にある鶴霊泉です。
ここの温泉は源泉が湧き出してくる岩盤の上に砂が敷き詰められていて、その砂を介して足元に湯が沸きあがってくる珍しい温泉です。
伝説によれば、秦の始皇帝の命令で、日本に不老長寿の薬を探しに来た徐福が発見したとされます。
翌日、博多に戻り息子家族の住む千早へ向かいました。孫とはお宮参り以来2か月ぶりの対面です。
最初目を合わせた時は人見知りのためか泣かれましたが、その内慣れてきたのかおとなしく抱かせてくれました。
生まれた時の3倍の体重になっており、重さを感じます。機嫌がよくなると耳元で歌うように話しかけてくれます。
3時間程一緒に過ごし、少しむずがり始めたのを機に息子宅を後にしました。
孫が生まれてから観光とセットで2か月に1回のペースで博多に来ています。
次回は、地震で被害を受けた熊本に対してささやかな支援ができればと思い、
最大70%の割引が魅力的な九州観光支援旅行券を使って熊本に行こうと思っています。
お宮参り(平成28年3月28日)
初孫のお宮参りが筥崎宮で行われるのを機に、博多と長崎へ行って来ました。
昼前に博多に着き、NHKの番組を見て行ってみたいと思っていた糸島の牡蠣小屋へ向かいます。
博多から乗った地下鉄は新しい車両で、次の駅名がドアの上のディスプレーに漢字、かな、英語、中国語、韓国語で表示されます。
ハングルの読めない女房に母音と子音の組み合わせを解説しながら、40分程で肥前前原駅に着きました。
この車内学習で自分の名前くらいは読めるようになったようです。
駅からタクシーに乗り岐志漁港に着くと、温室の様なビニールテント張りの牡蠣小屋が10棟ばかり並んでいて、入口で店員が盛んに客を呼び込んでいます。
番組で放送されていた牡蠣のアヒージョを出す店を訪ねたのですが、あいにくお休みのため、他に一軒あったその料理を出す店に入りました。
客は20人程で、炭火のコンロを囲むテーブルがたくさん並んでいて、その一つに案内されました。先ずは壁に掛かっている真っ赤なジャンパーを羽織ります。
これは牡蠣を焼いている時に口が空いて飛び出る汁から服を守るためのものです。
平たい方を下に向けて焼き始めると暫くして口が空きますが、中には勢いよく汁を飛ばす牡蠣もあります。
上半身は守れますが下半身は無防備でズボンが汚れてしまいました。よく考えるとこの防衛方法は非効率的です。
発射されたミサイルは着弾直前で防ぐのではなく発射直前で防ぐべきです。
そのためにはコンロをロの字型のステンレスで囲えば済みます。東北の方では確か、鉄板の上でステンレスのフードを被せて焼いていました。
ここでその発想がないのは、防衛意識の違いからではないかとつまらない想像をしながら、焼きたての牡蠣を美味しく頂きました。
アヒージョはニンニクを入れたオリーブ油に魚貝や野菜などの具材を加えて煮込んだ小皿料理です。
焼いたパンに牡蠣のアヒージョを載せて頂きました。
博多に戻り、特急かもめに乗り、有明海の干潟や諫早湾の水門を眺めながら2時間程で長崎に着きました。
長崎での夜の観光は予定していませんでしたが、長崎が世界新三大夜景の一つに選ばれたことを知り、夜景見学に行くことにしました。
予約が必要な無料巡回バスは満席だったため、観光バスでのツアーに参加しました。
発車の時刻までは1時間程ありましたので、復元工事中で無料開放されていた出島を見学してきました。
ライトアップされた建物群の中で、夜の観光客は我々二人だけです。
ポンぺに医学を学んだ松本良順や伊之助が活躍した幕末に思いをはせながら狭い屋敷群を見て歩きました。
夜景見学ツアーのバスはいくつかのホテルで観光客を乗せて稲佐山へ向かいます。
展望台は螺旋のスロープになっていて、屋内から見る夜景を序章としてクライマックスの屋外展望台へ導く演出がされています。
世界新三大夜景とうたわれるだけの価値のある大パノラマが眼下に広がります。
長崎湾を跨ぐ女神大橋は、橋下に大型船を通すため脚が長くその名にふさわしい姿でライトアップされています。
翌日、定期観光バスで長崎市内の名所、旧跡を巡った後博多に戻り、最初に入社した造船会社の先輩夫妻と夕食を共にしました。
同じ会社にいた時の付き合いはほとんどなかったのですが、委員会活動でご一緒することがあり、
大分工場の見学会でホスト役を務められた時は、初めてフグの胆を食べさせて頂きました。
翌日は、筥崎宮前の写真館での写真撮影とお宮参りです。
無理やり起こされた孫は、眠そうでしたが、ガラガラの音で目を開けたタイミングをとらえて写されていました。
お宮参りを済ませ、料亭での祝いの席で、ひと月経って重くなった孫を抱き、記念写真の中央に収まりました。
次は初節句、これからも何かと機会を設けて博多に通うのが楽しみです。
福岡・佐賀【その2】(平成27年12月1日)
2日目の宿泊地フォレストイン伊万里はその名の通り森の中にたたずむ閑静なホテルです。
広いエントランスに入ると、電飾で飾られたいくつものクリスマスツリーが光り輝いています。
ロビーの壁面には壁いっぱいに桜の大木が伊万里焼のタイルで描かれています。
ただ、広いロビーでそれを眺める客は我々2人だけでロビーは閑散としています。
荷物を持つ女性と案内の男性の2人に4階の客室まで案内してもらいましたが、サービスの良さよりも客の少なさが感じられます。
部屋は12畳程の和室で、テーブルに置かれたお茶とお菓子の隣に本が置かれていました。タイトルは「賢バカになっちゃいけないよ」。
著者は比叡山の千日回峰行を2度も達成された大阿闍梨の酒井雄哉さんです。
フロントの壁にも直筆の「書」が飾られていましたので、このホテルとなんかのご縁があったのかも知れません。
『今の人は色々なことを知っている。知っているけれども実践がついていかずに上手くいかない。それが「賢バカ」。
頭で考えて計算だけは働くけど体や心はついていけなくて行き詰る。
どんなことでもすぐに計算してこれは損、これは得と、すぐに物事を考える。そういう人間にならないように。』というのがテーマのようです。
この「賢バカ」のタイトルで思い出したのは、以前何かのコラムで読んだ「あほ」と「かしこ」の組み合わせです。
人間はこの「あほ」と「かしこ」の組み合わせで「かしこ・かしこ」「かしこ・あほ」「あほ・かしこ」「あほ・あほ」4つのタイプに分かれるそうです。
外見上の印象が前で実態が後の言葉です。
酒井さんはアホを演じられる賢い人になりなさいと言っておられるのでしょうが、人はそんなに確かな存在ではありません。
時々自分自身の中にアホそうなアホに出会うことがあります。
翌朝ホテルを出発して唐津へ向かいました。唐津城の駐車場に車を止め城内橋を渡ると祭りばやしが聞こえてきます。
その日は「唐津くんち」のお祭りで曳山が町を練り歩きます。
何年か前に呼子へ「イカ」を食べに行った時、唐津の曳山展示場に立ち寄ったのですが定休日で見られませんでした。この日はその動く曳山が見られます。
唐津の曳山は「一閑張(いっかんばり)」と呼ばれる工法で、木組み・粘土の原型や木型の上に和紙を数百回貼り重ね、麻布を貼り、幾種類もの漆で塗りあげ、金銀を施して仕上げたものです。江戸時代の町火消装束を今に伝えるいなせな法被姿の引き子たちが、鉦、笛、太鼓の囃子につれてある時は走り、ある所ではゆるく引き回ります。同じ京都の祇園祭の影響を受けたとはいえ、商家の旦那衆が主体の大津祭の優雅さとは少し趣が違います。
祭神の唐津神社にお参りしてから、お旅所のある西の浜へ向かいました。お旅所の中央には砂が敷き詰められており、その周りに人垣ができています。
少し時間が早かったので、座っている人のすぐ後ろに立つことができ、引き込みの全景を見物できました
。引き込みは重さ2~4トンもある曳山が、深い轍ができる砂地で力強く方向転換して所定の位置に停止します。
曳山が揃うにつれてより近くで見物するため前に座っていた人たちが移動を始め、見物の人垣が崩れていきます。
人垣が前に立ち見えにくくなったのを機にその場を離れました。
博多に戻りいつものように椒房庵の明太子をお土産に、やま中の焼サバずしをお弁当に買い求め、博多を後にしました。
次の博多訪問予定は2月の初め、初孫との対面が楽しみです。
福岡・佐賀【その1】(平成27年11月17日)
妊娠中の息子の嫁の様子伺いを兼ねて博多へ行って来ました。博多は息子の結婚式以来1年ぶりの訪問です。
昼頃に博多駅に着き、海の中道にある水族館を見物してから息子たちのマンションを訪ねました。
60平米ほどの広さで天井も高く、若い夫婦にとっては快適な様子です。
お腹の子は順調に育っているようで、超音波を使ったエコー写真を見せてもらいました。鮮明ではありませんが輪郭は分かります。
担当の産科医に絵心があり、写真の顔の部分に目鼻立ちやまつ毛が書き加えられ、キューピーさんのように描かれていて親しみがわきます。
下半身を映した写真で性別も確認できました。
マンションで別れ、博多のホテルにチェックインした後、夕食を予約している料理店まで小雨の中を歩いて出かけました。
京都や大阪などと違って、博多の街の道路は碁盤の目のようになっていません。
地図で大体の方角は分かっていたのですが、途中どっちの道を行こうかと迷うことがありました。こんな時、女房はすぐ人に道を尋ねます。
一緒に旅行に行くといつも感じることですが、私はよほど困った状態にならない限り人に道を聞くことがありません。
宗派の違いによるのかも知れません。女房の実家は他力本願の浄土宗で阿弥陀如来に導かれますが、私の方は曹洞宗で自力本願がモットーです。
天神近くの料理店「くーた」は、民家を改装した和食のレストランです。
息子の嫁の両親と妹さんを交えた食事会は、孫の誕生を待つ楽しみも加わり終始和やかな雰囲気で進みました。
前夜の雨が上がり、翌日は快晴です。博多駅前でレンタカーを借り、ナビで目的地を吉野ヶ里に設定して都市高速に入ると、渋滞でほとんど進みません。
渋滞の状況をラジオで聞こうと思ってスイッチを探しますが、スイッチが見当たりません。
女房が車の取扱説明書で調べたところ、この車にはオーディオ機器が付いてないとのことです。
ただし、車のスピーカーに接続するジャックは付いており、スマホを接続すれば聞くことができます。
女房がフリーのラジコをダウンロードしようとしましたが、上手く行きません。
仕方がないので渋滞で止まっている合間に、ハンドルを握りながら操作して何とかラジオを聴けるようになりました。
複数の車が絡んだ交通事故のため鳥栖を越えるまで1時間くらい渋滞の中にいました。
吉野ヶ里の広大な古墳公園を見物してから佐賀城に向かいました。
佐賀城は度重なる火災で焼失、再建を繰り返し今では本丸の門である鯱の門と続き櫓と石垣を残すのみとなっています。
本丸跡は天保期の本丸御殿の遺構を保護しながら歴史館として復元されています。
司馬遼太郎の歴史小説「歳月」に登場する、幕末から明治にかけて佐賀藩が輩出した偉人たちの業績などが展示されています。
江藤新平の現代の佐賀での評価をボランティアガイドの方に尋ねたところ、歴史好きの観光客と思われたのかなかなか放してもらえません。
「天皇を中心とした立憲君主制は大久保利通によって主導されたが、政敵で敗れた江藤新平がこの国をデザインしておれば、
日本はまた違った形になっていたかもしれない。」と郷土が生んだ偉人に誇りを持って語っておられました。
次に向かったバルーンフェスティバルの会場では、風が強いため空中はもちろん、河川敷でも一機もバルーンは見られませんでした。
見物に来ていた子供が持っていた小さな風船を見ただけで会場を後にし、西日に向かってその日の宿泊地の伊万里へ向かいました。
別府(平成27年1月17日)
湯布院で泊まった宿「梅園」は、客室が一軒ずつの独立した平屋になっています。
レストランや風呂に行くときは分厚い「どてら」を着て下駄をはいて出かけます。広い露天風呂からは冠雪した由布岳が見えます。
九州の山は、風化のスパンが違うのでしょうか、関西のなだらかな山肌と比べるとシャープで荒々しく感じられます。
翌日、女房達とは別府の地獄めぐりの途中で別れ、最初に就職したM造船時代の先輩にお会いするため、別府駅に向かいました。
20年ぶりにお会いしたUさんは、髪こそ白くなっていましたが、水泳で鍛えたスリムな体型を保っておられました。
別府湾の見渡せるホテルでの昼食の後、別府市内を案内して頂きました。
Uさんが製作を担当されたグローバルタワーは、別府公園中央部の海抜0m地点を中心とする、直径1kmの巨大な仮想の球の一部をあらわしています。
芸術的な構造物でその巨大な球を思い描くのには想像力が必要なようです。地上100mの展望デッキから360度のパノラマが広がっています。
Uさんは私が橋梁エンジニアーとしての第一歩を踏み出した時、最初に橋造りについて教わった方です。
私がM造船を辞めてからUさんは、鉄構関係の部署に移られましたが、転職されたいきさつを知ったのは1995年、
毎日新聞の特集『日本の課長(転勤族やめた)』の記事でした。記事の一部を転載します。
『転職。日本のサラリーマン社会では、かつてマイナスのイメージがあったが、もはや珍しくない。
M造船鉄構工場課長のUさん(当時46歳)は24年間務めた会社を退職、新しい職場に移る。
Uさんのケースが少しばかり変わっているのは、別府市の課長職、つまり地方公務員への転身という点だ。
団塊世代のごく普通の会社人間で、仕事に不満はなく、転職は考えたこともなかったUさんは、
別府市が民間企業の管理職経験者を公募という記事に目をとめた。
ふと「受けてみようかなと」との思いと、「大変な倍率だろうし、どうせ通りはしない」が交差した。
有名企業の社員を含め全国から34人が応募した試験に臨み、「転勤が続いたので、そろそろ落ち着き、地域にかかわる仕事をしたい」と動機を話した。
奥さんから職場への電話で合格を知ったが、喜びに浸る暇はなかった。市はすぐにマスコミに発表するという。急いで上司に報告。
周囲の顔には、ただ驚きが張り付いていた。
Uさんは入社後、本社の橋梁設計課を経て、大阪の工場へ移動。以後鉄構畑一筋に歩んだ。
結婚後大阪市南部に中古マンションを購入して、大阪に定住するつもりだった。しかし造船業界は80年代大不況に。
Uさんは資格を持っていれば強いと一念発起して一級建築士の資格を取得した。80年代の終わりからバブルに乗った空前の建築ブームが始まった。
非造船部門の拡大を目指すM造船は建築用鉄構事業を強化するため、千葉事業所に精鋭を集めた。
皮肉にも不況の中で得た一級建築士の資格が、Uさんに転勤を強いることになった。
こうなれば、ずっと千葉で暮らそう公団の戸建て住宅を申し込んだが、抽選には3回はずれた。
そうこうするうちに、鉄鋼部門の成長を見込んだ会社は、大分事業所に世界最大級の鉄構工場建設を決定。
福岡県甘木市出身で鉄構のエキスパートとなっていたUさんに再び転勤命令が出た。
40代前半で戸建ての家を持つというプランを立てていたUさんは、今度こそはとの思いで大阪のマンションを売り、
大分市郊外の敷地400平米の土地に大都市では夢のような家を建てた。ここは自然に恵まれ人情味豊かで通勤地獄にも無縁。
「もう転勤したくない」と思っていた。その思いをさらに募らせたのが、新聞で見た別府市の課長職の公募。
「落ち着いて暮らせて地域にも貢献できるのでは」。年収は百万円程減りそうだが、気にはしていない。
「あの記事を読まなければ、間違いなく定年まで勤めていた。本当に平凡な会社人間なのです」と強調するUさん。
期待と不安が交差する日々を送りながらも、腹はくくっている。』
Uさんは定年まで別府市役所に勤められ、今も大分市でスポーツ好きの奥さんと元気に暮らしておられます。
別府駅で再会を約してお別れしましたが、同じ時間を共有した当時を語り合えた懐かしいひと時でした。
臼杵(平成27年1月6日)
昨年末、息子の結婚式で博多に来たのを機に湯布院でもう一泊することにしました。
宿のチェックインまでは時間があるため、少し足を延ばして臼杵の石仏を見に行きました。
臼杵石仏は、凝灰岩の岩壁に刻まれた60余体の磨崖仏群です。平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫られたといわれていますが、
誰がどのような目的で造営したのか、はっきりとしたことは分かっておらず、今もなお多くの謎に包まれています。
昭和55年から14年間に及ぶ保存修理工事が行われ、平成7年に臼杵磨崖仏4郡59体が、磨崖仏では全国初、
彫刻においても九州初の国宝に指定されました。
中でも古園石仏中尊の大日如来像は、切れ長の目に引き締まった口元が極めて端正で、気品にあふれる表情を作っています。
以前は、落ちた仏頭が台座の上に安置されていましたが、保存のための修復に合わせて仏頭も昔日の見事な姿に復元されました。
これらの石仏を見ていると、奈良、京都は『木』を中心とした文化ですが、大分は『石』の文化のように思えます。
木彫りとみまがうばかりの見事な彫刻技術と仏の数は、他に類がなく、国内外で文化遺産として高い評価を得ているそうです。
臼杵を訪れたのは今回で二度目です。
ある委員会で、最初に勤めていた造船会社の大分工場を見学の後、先輩だったEさんの案内で天然フグを食べに行ったのが最初の臼杵訪問です。
他府県では禁止されていますが、大分県と山口県は条例でフグの胆を提供することが許可されています。
タレにこれを溶かすと油がパーと散ります。このタレに"てっさ"をつけて食べると最高の味です。
お決まりの鍋から雑炊までのフルコースを堪能しました。
後日会社でこのことを報告すると「出張でそんないい目をするとはどんな委員会だ。『何をやっても委員会』か。」とやっかみ半分の非難に会いました。
私が大分の工場と係わるようになったのは、30代の初めに設計部門へ移動してからです。
最初に設計を担当した『名神橋』が大分工場で製作され、その検査に何度か立ち会ったのがきっかけです。
京滋バイパスが瀬田インターで名神高速道路を跨ぐ橋で、東京に向かって大津インターを過ぎてしばらく行くと道路を塞ぐように見えてきます。
建築限界ギリギリに架かっているため、橋の下すれすれを潜るような感じがするのですぐ分かります。
施主の道路公団との設計打ち合わせは経験が浅いため、薄氷を踏む思いでしたが、何とか設計承認され、工場で橋を仮組立して検査することになりました。
その時になって公団側の担当課長が交代され、業界では鬼と恐れられるシビアーな方が来られましたが、検査は無事終わりました。
しかしその時、指摘された訳ではありませんが、橋の端部のダイアフラムを見ていて少し違和感を覚えました。
後で設計書を再検討してみると、水平補剛材が足りません。塗装前に取り付けてもらい事なきを得ました。
大分工場は当初造船工場として計画されましたが、造船不況により鉄構部門を中心とした工場に計画変更されました。
造船ドックとして埋め立てられた敷地は広大で、工場建設後の余った敷地にはゴルフ場が作られていました。
そのゴルフ場も近々閉鎖され、跡地にメガソーラーの建設が計画されています。
造船工場から鉄構工場へ、そしてゴルフ場から大規模発電施設へと土地利用形態が変わって行く様は、正に諸行無常の経済の変遷を見るような気がします。
黒川温泉(平成25年12月17日)
12月の初め、女房の一族6人で新幹線とレンタカーを利用して、黒川温泉、博多、呼子をめぐる2泊3日の旅行に行ってきました。
博多でレンタカーを借り、最初に向かったのはラーメン屋の「だるま」。
開店時間より少し早く着いたため店の中に入れてもらえず、軒先で雨の中傘をさして15分程待たされました。
壁に芸能人のサインがべたべたと貼ってあり、有名人おすすめの店のようですが、店先で待たされて不愉快な思いをしたためか、
大してうまいとは思えませんでした。
黒川温泉は、阿蘇外輪山に位置する山あいのひなびた湯治場で、田の原川の渓谷の両側に24軒のこぢんまりとした和風旅館が建ち並んでいます。
収容人数は少なく、歓楽的要素や派手な看板を廃して統一的な町並みを形成しているため、落ち着いた雰囲気を見せています。
すべての旅館の露天風呂に自由に入ることのでき、「街全体が一つの宿、通りは廊下、旅館は客室」がキャッチフレーズになっています。
初日の宿「いこい旅館」では狭い一方通行の道を挟んだ離れ「風坊」に案内されました。
真ん中に段差のある12畳の部屋が二間続き、上の部屋には囲炉裏風のテーブルがあり、部屋付きの露天風呂もあります。
手形を購入すれば他の旅館の露天風呂にも入れますが、何種類もあるこの旅館内の露天風呂だけで充分でした。
翌日、地図情報の古いナビの案内で道を間違えながら阿蘇山へ向かいました。阿蘇駅で昼食の後、古いのはナビだけでなかったことに気づかされました。
バッテリーがあがってしまってエンジンがかかりません。
替わりの車の手配を待っていても時間がかかりすぎますので、駐車中の車に片っ端からブースターケーブルを持っているか聞いて回ったところ、
幸運にも借りることができ、エンジンがかかりました。
博多でガソリン代はサービスで別の車に替えてもらいましたが、それにしてもちょっとお粗末なレンタカー屋さんです。
この日はM水産の博多支社に勤めている息子を交えての夕食です。
支社長から紹介してもらった中央区舞鶴にある「旬魚季菜凪」は対馬直送の穴子が名物の店で、穴子の刺身から始まる海鮮料理を堪能しました。
キープしてあるお酒を飲んでもよいと言われていて出てきた焼酎が「魔王」と「佐藤」。この日は締めの屋台までかなりの酒量になりました。
3日目の目的地は佐賀県の呼子。呼子と言えば職業柄すぐに呼子大橋を思い浮かべるのですが、ここはケンサキイカが名物だそうです。
海中レストラン「呼子萬坊」へは海に架かる桟橋を渡って入ります。
海面下の店内はいけすを囲む席になっていて、二日酔いであまり食べられませんでしたが、イカの刺身から天ぷらまでのイカコースを楽しんできました。
屋久島 (2011年5月5日~8日)
5月の連休を利用して屋久島へ行ってきました。
6日の朝4時にホテルが準備してくれた朝昼のお弁当を持ってガイドの車に乗り込みました。外はまだ真っ暗で雨模様のあいにくの天気です。
途中で同じパーティーの参加者4人をピックアップし、登山者専用バスに乗り換え荒川登山口に着いた頃には本降りの雨です。
登山口の小さな待合室はカラフルなレインコートの登山客であふれて入れず、軒下で朝食をとり出発です。
荒川登山口から小杉谷事業所跡までの約4kmは、トロッコ道を歩きます。川のように水が流れている線路の間を進みますが、
枕木の間隔が歩幅と合わずとても歩きにくい道です。
小杉谷からの約5kmもトロッコ道ですが、枕木の上に杉板で歩廊が作られてあり、枕木の上よりも楽に歩けます。
途中、数少ないトイレの長い列に並んで用を済ませ、大株歩道入口から本格的な登山です。急傾斜の斜面を2km程登っていきます。
毎朝10階の事務所まで階段を上って足腰を鍛えていましたが、この足場の悪い雨の登山道は半端ではありません。
1時間程登ってようやくたどり着いた縄文杉での記念写真がこれです。
縄文杉の樹齢はお釈迦さまと同じ2,500歳位だそうです。能の敦盛に「人間50年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。」と謡われていますが、
六道で人間より上の天の寿命でも500歳です。それよりも遥かに長寿で菩薩のような縄文杉と出会えた感動を胸に下山の途につきました。
往復22km、11時間の歩行は幼いころ雨の中で遊んだピッチピッチチャップチャップランランランの世界ではなかったですが、
久しぶりに自然に溶け込んだ時間でした。
翌日はレンタカーで島内を一周しました。島には様々な花が咲いています。 【上】「ニオイバンマツリ」はいい香りがします。 【右】「マムシグサ」は蛇が鎌首を持ち上げたような姿です。実には毒があります。 【左】「ノボタン」は国道の脇に咲き乱れています。 【右】「センダン」栴檀は双葉より芳し。 屋久島最後の日は空港近くの民宿に泊まりました。61歳のご主人は京大卒の脱サラで屋久島の魅力に取りつかれて5年前に移住されたそうです。 私の夢はハワイ島への移住ですが、ちょっと手が届きそうにありません。島の焼酎を飲みながら話を聞くうちに屋久島ならいけそうな気になってきました。