Tさん(令和6年5月7日)
Tさんと春日台カントリークラブのAクラスのコンペでご一緒するようになったのは、15年ほど前のことです。
その後、私が退会した後もゴルフの付き合いは続き、香芝ダイナミックゴルフ練習場主催のコンペでプレーしています。
Tさんのもう一つの趣味は料理。年に2回ほど家内と自宅に招待され、辛口の日本酒とワインにあうご自慢の料理でもてなして頂いています。
お返しの企画として、昨年梶賀の山小屋にご招待したのですが、奥さんが体調をくずされ、延期することになりました。先日その企画が1年ぶりに実現しました。
当日の朝9時に名阪国道を治田で降りたところにあるコンビニで待ち合わせ、初瀬街道を通り一志嬉野に向かいます。
この道は、当時都のあった飛鳥地方から伊勢神宮に至る道です。一志嬉野からは紀勢自動車道に乗り、宿泊先である尾鷲シーサイドビューに向かいます。
宿の駐車場で私の車に移ってもらい、梶賀に行きます。梶賀では地区の方たちと協力して改修したトイレを見学した後、長い階段を上って山小屋に着きました。
地区を紹介するビデオを見てくつろいでもらっている間に、庭に回ってバーベキューの準備です。
夜はホテルでの豪華な夕食が待っているため、軽めの昼食です。頂いたブリに塩をふりかけ、冷凍しておいた切り身をアルミホイルを敷いた鉄板の上にのせて焼きます。
付け合わせは、差し入れて頂いた子さばの「あぶり」と玉ねぎのサラダです。
バーベキュー終わってから駐車場に戻り、オンツツジが自生している曽根町の城山公園に向かいます。
今年は花が早かったようで咲いているのはわずかでした。次に向かったのは飛鳥神社です。
海辺のホテルのすぐ近くにあり、鎮守の森にあるクスノキは、巨樹巨木林調査で三重県第3位の巨木となっているそうです。
チェックインしてゆったりとお風呂に入った後はお楽しみの夕食です。
ゴルフ友達でもある大おかみのÅさんがいつものように鍋奉行を務めてくださり、天然のクエと伊勢エビを堪能しました。
翌朝はホテルのオーナーでもあるEさんの渡船に乗せてもらい、柱状節理が立ち並ぶ海岸線の見学です。
Tさんたちは船を磯に着ける操船技術にも感心していたようです。
下船してからホテルに戻り、隣接する空地の開発状況を見ていただいてから尾鷲に向かい、熊野古道センターを見学し、お土産の魚を買って帰りの途につきました。
途中伊賀で「義左衛門」の蔵元に寄り、Tさんは辛口の純米吟醸酒を2本仕入れられました。
次にお伺いするとき、旅の思い出を肴に味わいたいものです。
山桜(令和6年4月13日)
「願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月のころ」
西行の有名な和歌です。釈迦入滅の2月15日の満月のころに桜のもとで生涯を終えたいと祈願してこの歌を詠んだとされます。
尾鷲シーサイドビューに隣接する空き地にシーカヤックを置かせてもらえることがきっかけになり、その空き地の管理をまかされることになりました。
プライベートビーチや船を揚げるスロープもある、広さ2000坪の広大な土地です。
ゴルフ打ちっぱなしや使われなくなった観光船が陸揚げされている他は整備されていません。
最初に手を付けたのは、船を揚げるための機械の置いてあった小屋です。
シーカヤックはこの小屋の中に置いたのですが、床は抜け、台風で一部屋根がとばされたままで、しかも小屋全体が油にまみれてどうも使い勝手がよくありません。
そこで以前真珠の養殖業者使っていた小屋を利用することにしました。
この小屋も天井が抜け床は傷んでいますが、事務所として使っていた部屋は雨漏りもなく使えそうです。
流しや壊れた事務用のテーブルをかたずけ、そこに古い棚を積み上げて道具入れを作りました。
電動工具を使うため電源が必要ですが、電気はきていないので、ポータブル電源を使うことにしました。
1畳ほどのソーラーパネルで電動工具の電源はほぼ賄うことができます。
シーカヤックはこの小屋の屋外に保管することにし、小屋の修理は後回しにして荒れ地の整備に取り掛かっています。
海に面した石垣の上に山桜の大木があり、枝を海に広げています。
この桜を見て浮かんできたのが冒頭の和歌です。
ただその周りには大量のごみが埋まっています。
不法投棄されたテレビ4台と冷蔵庫1台はリサイクル券を買ってシルバーの人に頼んで処分しました。
その他雑木を何本も切りましたがまだ根の処分が残っています。
桜の咲くころに終えようと思っていましたが、花が終わってもまだゴミに埋もれたままです。
時間がかかってもそれらをかたずけてきれいなグリーンを造り、西行と同じような人生の終え方ができればと願っています
フリーテニス(令和6年3月12日)
フリーテニスは、テニスコートの9分の1のほどの平坦な場所で、テニスボールよりも小さなゴムボールを卓球のひと回り大きな木製ラケットで打ち合う競技です。
就職して造船所に勤めていた頃、昼休によくプレーしていました。
先日、町長選挙の不在者投票で町の文化センターへ行ったとき、フリーテニスサークルの会員募集のポスターを見つけました。
今やっている運動といえば、ゴルフや畑仕事などあまり体に負荷がかからないものなので、少し体を動かせるものを始めようと思って入会することにしました。
指定された時間に町の体育館に行くと、コートを半分に区切ってフリーテニスとバウンドテニスのサークルが開かれていました。
バウンドテニスは、テニスのラケットより一回り小さいグリップの短いラケットを使い、よりテニスに近いスポーツです。
男性と女性の会員はほぼ半々ですが、フリーテニスのサークルは全員女性です。
少しためらいましたが、入会することにしました。40年ぶりのフリーテニスでしたが、感覚はすぐに戻りました。
ただ、当時ボールはもっと弾んでいたように思いますし体もよく動きました。ネット近くに落ちて拾えると思ったボールが拾えません。
普段とったことのない体制でアキレス腱を伸ばしすぎました。プレーしている時は感じませんでしたが、終わってからアキレスけんが痛みだしました。
翌日は小型船舶免許更新のため、大阪に行かなければなりません。思うように歩けずびっこを引いて天満橋に向い、講習を受けてきましました。
昼食は天王寺のあべのハルカスの地下でとるつもりでしたが、天満橋駅まで痛みをこらえながら歩いていると、
大阪歯科大学病院の前に安くておいしそうなカキフライ定食の看板が出ていました。
患者も乗ってくるエレベータで最上階へ行き、造幣局を見下ろせるレストランで昼食をとりました。
桜の頃にはお花見もできそうな場所です。
人生100年の時代、残された期間をゴルフだけでは埋めきれません。
週一回の会社勤め、畑仕事、梶賀での2地域居住にフリーテニスが加わりました。
「LIFE SHIFT(ライフ・シフト)」という本で複数の仕事を組み合わせて働くポートフォリオワーカーが紹介されています。
複数の仕事ではなく一つの仕事と複数の遊びを組み合わせるライフスタイルを続けて行ければと思っています。
公衆トイレの改修(令和6年2月10日)
昨年末、梶賀町の区長さんから、駐車場にある公衆トイレの改修を依頼されました。
完成はハラソ祭りのある今年1月初め。施工は町民の有志が手伝うので、私がボランティアで設計と監督を行う条件です。
工事は約10日ほどかかるので、ほぼ毎週末梶賀へ通わなければなりません。
80万円ほどかかる改修に必要な便器などの資材は、楽天やコメリで調達しました。
公衆トイレは築40年ほどのRC構造。コンクリートの劣化はあまり見当たりませんが、開口部が多く、雨の吹き込みで化粧合板はぼろぼろになっています。
また3つある個室の和式便器の位置が極端に壁に接しており、使い勝手が悪く悪臭もひどいものです。
改修計画では2つある小便器を簡易水洗に取り替え、3つある個室は2つにして1つはユニバーサルデザインのトイレにすることにしました。
工事初日の外壁塗装には10人ほどの住民が参加されました。午前中に建物全体の高圧洗浄を終えると、区長さんから弁当の差し入れがありました。
午後から、用意した塗料や刷毛で塗装を始め、お天気も良かったので、一日で外壁と内壁、それに屋根の塗装が終わりました。
2日目は開口部に波板を取り付ける作業と天井板を張る作業です。作業が進むにつれ参加者の技量や性格が分かってきます。
コンクリートの穴あけや工具を使った作業は得意なのですが、指示した通りにしない方。
依頼していない余計な作業を勝手にする方。地味な掃除や片付けが得意な方。
自分は不器用なことを知っていて常にアシスタントとして動く方。毎回顔を出すものの消極的に手伝う方。
積極的に作業を引き受けるものの技量が伴っていない方。
これら住民の方と一緒になって述べ10日ほどかかって改修を終えました。
私一人で施工した方が早くてきれいにできることもありますが、ボランティアで参加してくれている方に文句も言えません。
住民が自らの手で改修することに意義があるので、私はアドバイザー役でいました。
そんな中で意外な驚きもありました。手は早いが手戻りの多いKさんが、トイレのマスコットのクジラの絵を丁寧にマスキングをして仕上げてくれました。
設計や施工で悔いの残るところもいろいろありますが、よそ者が地元で認められるきっかけになったイベントでもありました。
熊野古道紀伊路「その4」(令和6年1月12日)
毎年誕生日月に送られて来る招待券を利用して熊野古道伊勢路を歩き、東急ハーベスト南紀田辺に泊まります。
伊勢路で残すのは最後の一区間だけですが、家内のスケジュールの都合で早い時間に家を出ることができなかったため、
今回は熊野古道紀伊路の短い区間を歩いて来ました。
このルートは世界遺産には認定されていませんが、熊野古道のブームで新しくパンフレットも作られたようです。
湯浅駅に着いたのは予定していた電車に乗る30分ほど前で、駅前には飲食店らしきものが見当たりません。
少し引き返しコンビニで昼食を買いましたが、何かの施設だと思っていた旧駅舎が食堂になっていてここで食事ができたようです。
和歌山方面行きの電車に乗り、紀伊宮原駅で降りました。
有吉佐和子の小説「有田川」の舞台となり、万葉集にも詠まれた「糸我の里」からっこのコースは始まりますが、
予備知識を仕入れて来なかったため、日本第一稲荷として知られる「糸我稲荷神社」などはスルーしてしまいました。
山路を歩くのではないと伝えたため家内は普段の靴を履いてきてしまい、糸我峠を登るのはこたえたようです。
峠を越えたあたりで猪に出くわしましたが、向こうの方から逃げて行きました。
落ちてあった鉄パイプを拾って、コンクリートで舗装された道を引きずって音を立てながら里に下りてきました。
湯浅駅前の道町通りは醤油発祥の地として栄えた昔の雰囲気が漂い、往時の賑わいが偲ばれます。
大学受験に失敗した春に紀伊半島一周の自転車旅行で湯浅に来たことがあります。
暗くなって野宿するところを探していた時、パンを買った店で隣の神社の社に泊まることを告げました。
そこでシュラフに入って休んでいると近所の方が来て家に泊まれてと勧めてくれました。
その神社を探しながら駅に向かいましたが見つかりませんでした。
50年以上も前のことですが、晩御飯で頂いた豆ごはんの味が思い出されます。
南海日日新聞(令和5年12月8日)
12月5日付の南海日日新聞に掲載された記事を転載します。
この工事に関わるようになって、地元の方からお寿司や干物、お刺身をたびたび頂くようになりました。
【地元住民で回収作業(梶賀漁港の公衆トイレ)】
尾鷲市梶賀町の住民が梶賀漁港の公衆トイレの回収に取り組んでいる。
来年1月8日のハラソ祭りにはトイレを一新して来訪者を迎える。
梶賀区によると、現在のトイレは約40年前に当時の梶賀漁港が整備した汲み取り式。
15年ほど前から老朽化が著しくなり今年8月、元所有者の三重外湾漁協が使用を中止した。
区は市や県に補修を要望したが、実現の見通しがたたないことから、「自分たちで直そう」と決めた。
改修は11月から始め、毎週土、日曜日に60~80代の10人ほどが集まる。
梶賀町と奈良県三郷町で2拠点生活をしている1級建築士の島崎良雄さん(72)が設計、作業内容を支持し、
全員で進めている。島崎さんを含め作業は全てボランティア。材料費の70万円は地区が負担する。
作業は高圧洗浄機でコンクリートの外壁に付いた汚れを落として新たに塗装。
仕切りや便器の配置、大便器を和式から様式にするなど全体をユニバーサルデザインとし、
新たに設ける多目的トイレは性的少数者(LGBTなど)に配慮した男女兼用、簡易水洗トイレに生まれ変わる。
榎本富男区長(70)は「長年の懸案をみんなの力で解消しようと決め、少しずつだが全員で楽しくやっている。難しい作業は大工さんがボランティアで来てくれるし、地区のみんなが完成を楽しみにしてくれている。工事は計画通りに進んでいる」と笑顔で話した。
作業の様子や取り組みは新設した地区のホームページ「梶賀ハラソ」で順次公表している。
ハンドレッド会(令和5年11月3日)
ハンドレッド会は、滋賀県立膳所高等学校昭和44年卒業生のゴルフ同好会です。
真夏と真冬を除き、毎月3~4組の参加者で滋賀県のゴルフ場でプレーしています。
回を重ね、60回記念大会は三重県の白山ビレッジゴルフコースで行い、
プレー後は尾鷲で天然のクエの味わう予定を立て、私がその段取りをすることになりました。
白山ビレッジカントリーコースのQUEENコースは、日本女子オープンが開催されたゴルフ場で、
外国人にも人気のコースで、中国語や韓国語が飛び交っています。
快晴無風の絶好のコンディションで、早いグリーンでしたが前半は調子が良くボギーが3つとバーディーがひとつの38で回って来ました。
昼食は外国人が多いためかタブレットによる注文です。
海鮮丼と芋焼酎のロックを注文したのですが、注文を間違ったようで、水割りの焼酎と海鮮丼が2つも運ばれてきました。
もちろん海鮮丼の方は取り消してもらいましたが、同じようなトラブルがしょっちゅうあるそうで、システムにも問題があるようです。
そんなトラブルもあったせいか後半は50の大たたきで、かろうじて80台を保てました。
プレーが終わってから尾鷲市曽根町にあるシーサイドビューホテルに向かいます。
私一人先にゴルフ場を出て、尾鷲にある海鮮市場「おとと」で翌日のバーベキューの食材を仕入れようとしましたが、
5時を過ぎており、目当てのホタテや牡蠣は並んでいませんでした。
仕方がないのでスーパーで焼きそばや牡蠣やホタテのむき身を仕入れてクーラーボックスに詰め込みました。
ホテルに着くと後から出たゴルフ組の連中と、宴会と宿泊だけに参加する4人の女性も電車とバスを乗り継いで着いていました。
6時半からおじさん6人、おばさん6人のにぎやかな宴会が始まりました。
今回の宴会のメインは東紀州産天然クエのコースです。
親しくしている大女将のもてなしで盛り上がり、クエのフルコースを堪能して頂いたようです。
翌日、私はバーベキューの準備のために乗船しませんでしたが、朝5時過ぎにホテルを出て梶賀に向かい、
大女将の旦那さんが操船する渡船に乗せてもらっての遊覧です。
あいにくの曇り空で日の出は見られなかったようですが、磯に渡る釣り人や、楯ヶ﨑の柱状節理を見て満足して帰ってきました。
10時過ぎに再び梶賀に集合して煩悩の数ほどの階段を上り一行がかじか荘に来られました。
近所の漁師に頼んでおいた伊勢エビや海産物中心のバーベキューを楽しんで頂き、準備に奔走した第60回記念大会が終わりました。
土木鋼構造診断士(令和5年10月24日)
左の写真に示すトラス橋の下横構ガセットプレートに変形が生じた原因として、最も適当なものはどれか。
1)地震 2)疲労 3)腐食 4)火災 答えは1)地震です。
こんな簡単な問題ばかりではないのですが、午前中の試験では主に鋼橋に関する4択問題が50問出題されます。
先日、土木鋼構造診断士の試験を受けてきました。
土木鋼構造診断士とは、土木鋼構造物に関する幅広い知見と経験を有し、様々な劣化・損傷に対し、
適切な点検、診断、対策の立案、指導等ができる専門技術者です。
そんなに難しい試験ではないだろうと高をくくっていましたが、
午後の3時間半の試験で専門問題と経験論文を500字詰めの原稿用紙8枚も書かなければなりません。
技術士試験並みのハードさであることがわかりましたので、それなりの準備をしてきました。
専門問題では次の問題を選択しました。
【A】既設鋼構造物の腐食事例を1つ挙げ、腐食部位と腐食状態を簡潔に述べるとともに、
あなたが性能を評価するうえで重要と考える測定項目を2つ挙げ、測定項目ごとに重要と考えた理由と有効な計測技術を述べよ。
【B】重防食塗装と当て板補強についてそれぞれの内容を説明しなさい。
また、補修設計について書いた経験論文の一部は次のような内容です。
『本業務は、県道に架かるコンクリート橋と鋼床版桁の側道橋について長寿命化を目的とした調査を行い、
関連基準に基づいて補修設計を行うものである。
私は本業務の管理技術者として契約図書に基づき、技術上の管理を行った。
補修設計に先立ち、「自治体版点検要領」に基づく点検を実施し、劣化・損傷状況を把握した。
また、必要な調査を実施し、補修設計のための資料とした。
これらを基に劣化損傷部位の補修工法の比較検討を行い、工事に必要となる図面を作成し数量計算を行い、概算工事費を算出した。また、施工計画として施工計画図や概略工程表を作成した。
調査は徒歩で梯子を使って行い、鋼床版鈑桁、下部工の寸法調査、RCレーダーによる配筋調査、
コンクリート調査、塗膜調査、舗装厚調査を実施した。その調査結果を基に以下の補修工法を採用した。
①塗膜除去工法
橋梁の規模や経済性を考慮して「湿式+ブリトルブラスター工法」を採用した。
この工法は、重装備な防護工も不要で、作業者、周辺環境にやさしい工法である。
また、厚労省通達の鉛粉塵対策に則して素地調整1種を確保出来る。
②鋼部材の補修
桁間側の支点上リブは、桁遊間からの土砂、雨水の流れ落ちによる腐食、減肉、欠損が生じていた。
同じ厚さのプレートを直に折り曲げ、下フランジとリブをつなげるようにHTBで取付けた。
主桁下フランジの断面欠損、減肉個所はフラットバーを両面に当て、HTBで取付けた。
またウェブの減肉個所はアングルを当て板にしてHTBで接合した。』
専門問題の【A】の回答に不安はあるのですが、それ以外は合格点が取れていると思います。
記憶力が衰え始めたこの齢で試験を受けるのはきついのですが、ボケ防止にはなったように思います。
一木会(令和5年9月10日)
「おじさんたちの井戸端会議(一木会)」がスタートしたのは、今から18年前阪神が優勝し、私が会社統合の後リストラされた年です。
今は亡き元社長のFさんを中心に気の合う仲間が集い、飲み食いしながら、おじさんたちが関心を持っているテーマを、
井戸端会議のように語り合ってきました。
家庭や職場のような強いつながりではなく、利害関係のない弱い関係だからこれまで続いてきたように思います。
メンバーのMさんが健康上の理由で退会されることになり、発足以来のメンバーは私一人になってしまいました。
また一つ弱いけど大切なつながりが消えていくようなさみしさを感じます。
先日の一木会の話題は「ネガティブ・ケイパビリティ」でした。
直ぐに答えを出さず、迷ったり、悩んだりする「モヤモヤする力」が大切だという考え方です。
「AI時代」を生き抜く術としてクローズアップ現代で取り上げられていたテーマです。
先日の会では、Mさんの退会をきっかけに少し運営形態を見直すことになり、出席された方の賛同を得ました。
毎月の開催ではなく、原則3,6,9,12月の年4回の開催とします。
内容は充実し、京都鷹峯や尾鷲でのイベントを提案していきたいと考えています。
これまでの飲み食いに使った金額は200万円以上、人生にほんの少し、心休まる時間を持てたのではないでしょうか。
≪酒の肴になった話題≫
<どうする原発><奈良の社寺を歩く><人工膝関節><チャットGTP>
<人新生の資本論><人生100年時代の行動戦略><自転車島巡り>
<土木設計エキスパートシステム><頭にガツンと一撃><事故報告>
<橋屋の人生><コロナの時代を読む><これからの道路について>
<デジタル・レーニン主義><ネオサピエンス><ハイコンセプトの時代>
<新しい日本人論><“ヨタヘロ期”を楽しく明るく生きるには>
<核融合発電><耐震補強工事><天皇について><消えた電灯>
<信用」が中国人を変える><北九州橋巡り><宅地崩壊>
<NEXCO西日本イノベーションズ><ケアンズ旅行><量子コンピュータ>
<縄文人はどこから来たか><ディープラーニングの開発事例>他
ゴルフのトラブル(令和5年8月8日)
シプレカントリークラブの最終9番は、389ヤードのミドルホール。
ティーショットをミスして残り200ヤード、乗らない距離ではありませんが左に外すと池が待っています。
前の組がホールアウトするのを待って打ったボールは右に大きくそれ、カート方向へ。
フォアーと大声をかけましたが、クラブをしまっていた前の組の方へ飛んでいきました。
何もなければカートはそのまま走って行きますが、止まったままです。
先を歩いていたTさんが急いで来るように合図しているので、ただ事ではないと思い走り出しました。
クラブをしまっていた方の二の腕にボールあたったようです。
関節や骨を外れていたのでそれ程痛がってはおられず冷静にされていましたが、
同じ組の2人の方がかなり興奮して非難の言葉を浴びせてきました。
不思議と冷静に3人の性格とケガが軽いことを判断していましたが、態度は平身低頭、平謝りに徹していました。
ホールアウトしてから競技主催者の香芝ダイナミックゴルフやゴルフ場に状況説明をして、
あらためて被害に遭われた方にお会いしましたが、
皮膚が赤くなっているだけで腫れはなく打撲だけで骨には異常がなさそうだと冷静に応対して頂きました。
翌日、ソーメンとセットになった菓子折りを買ってコンペを主催したゴルフ練習場に行き、
当日対応してくれた方に託して来ました。
次のコンペの時、トイレの洗面を使っていると声をかけて来た人がおられました。
「先日は気をつかわせてしまったようですね。」ボールを当てた男性でした。
再び不始末を詫びましたが、大した怪我でもなかったので気にされてない様子で、こちらの心遣いに気をつかっておられました。
40年以上ゴルフをしていますが、ボールを当てられたことも当てたこともありませんでした。
あれからは慎重なプレーに徹するようになり、前の組との安全な距離を保つようにしています。
あと何年プレーできるか分かりませんが、人に迷惑を掛けないゴルフを心がけるようにします。
地域デビュー(令和5年7月7日)
地域の秋祭りでは子供たちがだんじりに乗り、お囃子を奏でながら町内を回ります。
開発された住宅地のため、だんじりは古くから伝わるものではなく、住民たちの手で作ったものです。
興味があるわけではないのですが、以前から一つ気になっていたことがありました。
お囃子が一曲しかなく、しかも単調なのです。
太鼓は「トントコトンのトントン」、鐘は「カンカカカンのカンカン」。このリズムが延々と繰り返されます。
先日、町内のイベント協力サポーターの募集があり、お囃子に祇園ばやしを教えてあげようと参加を申し込みました。
第1回会合が自治会館であり、会長の趣旨説明のあと集まった10人ほどのサポーターが自己紹介することになりました。
私の番に来て、「この町内に住んで30年以上になるが、地域との繋がりはほとんどなく知っているのは散髪屋さんだけだ」と話し始めたところ、
顔見知りのおばさんが割って入ってきました。
「そんなことないでしょう。私とあなたの先祖は滋賀県の朽木村の出身で・・・」自己紹介にクレームをつけられたのは初めてのことです。
おばさんの話を遮って自己紹介を終えましたが、なかなか常識では理解しがたい方のようです。
私の次に自己紹介された80歳台のおじいさんはもっとすごい方でした。
自治会でこれまで経験した活動を15分ほどしゃべり続けます。
とんでもないサポーターの会に入ってしまったと後悔しています。
先日もう一つの地域デビューがありました。
梶賀で区長をされている方から頼まれ、梶賀町のホームページを作ることになりました。
そのたたき台ができたので役員や婦人部の方たちを交えての検討会がありました。
皆さんスマホに映し出される自分たちの町のアルバムやスライドショーに感心しておられました。
第2回の打合せはかじか荘の山小屋で行うことになり、ビールや松坂牛、焼きそばなどの食材をもって長い階段を上って来られました。
海や山の緑を眺めながらロケットストーブで調理したバーベキューを皆さん楽しんでおられました。
こちらでは家のリフォームを手伝ったり、ホームページを作成したりと地域に溶け込んで活動して「棟梁」と呼ばれています。
町の変な方たちとつき合うより、田舎の生活の方が合っているのかも知れません。
PS
フォロアーのご要望により文章を短くしました。
(梶賀町のホームページ)
ロケットストーブ(令和5年6月8日)
ロケットストーブは、少量の燃料で強い火力を生み出すことができる燃焼効率の高いストーブです。
まつぼっくりや枝などの身近な材料を使って高火力が得られることから、キャンプでの使用はもちろん、非常時の備えとしても役立ちます。
薪ストーブが長時間、穏やかな火がゆらゆらと燃え続ける構造であるのに対し、ロケットストーブはその名の通り、勢いよく激しい火が燃える構造のストーブです。
もう30年近く前のことになりますが、春日台カントリークラブのメンバーで「やきとり大吉」などにグリラーを納入している会社の社長さんから、
バーベキュー用のコンロを頂いたことがあります。
毎年、庭のチューリップが咲くころに、それを使ってバーベキューパーティーをしていました。
炭を使うタイプのコンロでしたが後始末が面倒なため、火力にはコールマンのガソリンストーブを使っていました。
梶賀の山小屋に錦鯉の泳ぐ池を見ながら食事ができる施設ができたので、
物置で眠っていたそのコンロを引っ張り出してきてロケットストーブに改良してよみがえらせることにしました。
ネットで耐火レンガを使ったロケットストーブの作り方を調べると、そのほとんどが地面に直接レンガを積み上げていくもので使い勝手が悪そうです。
そこで単管パイプを組んで、高さが90cmのところに調理台と鉄板がセットできるようにしました。
長さは2mで左半分がロケットストーブ、右半分が調理台です。
ロケットストーブの底になる部分にはコンクリートブロックを並べ、その空洞に単管パイプを2本通して固定します。
側面もコンクリートブロックで囲い、上下の凹部を単管パイプで挟み込んで空間を作り、耐火レンガを積み上げます。
上部はアングルを2本渡して耐火レンガと孔の開いた矩形のコンクリートブロックで覆い、その中にコンロ背面に取り付けた煙突を通しました。
最初に燃焼試験をしたときは、ストーブの上に置いた鉄板の下面の隙間から煙が出てうまくいかなかったので、その隙間を少し径の小さい単管パイプで覆いました。
するとストーブのまきは勢いよく燃えて、炎が煙突に吸い込まれるように流れ出しました。
鉄板は熱せられその上に落した水は一瞬にして踊る水滴となって蒸発するようになりました。
このストーブを使ったパーティーの最初の参加予定者は「一木会」の連中です。
尾鷲シーサイドビューに泊まり、クエ料理を堪能した翌日に計画していましたが、あいにくの土砂降りの雨のため、屋内でのパーティーになってしまいました。
次に招待したのは地域おこし協力隊関係者の方々です。
その日も雨模様で、尾鷲市内に迎えに行ったときはひどい雨でしたが、梶賀に着いてから暫くは雨もやみ、
降ってもタープで覆ったロケットストーブとテーブルに支障のない程度でした。
最初に作った料理はホタルイカのソテーです。
薪をくべて熱くした鉄板の上にアルミシートの鍋を載せ、ホタルイカと酒、マヨネーズを合わせると、火力が強いのですぐにいい香りがしてきます。
ビールのつまみは、畑で採ってきた新鮮なソラマメを茹でてマヨネーズをつけて食べるシンプルなものです。
メインディッシュは伊勢エビです。
半分に切って鉄板のアルミシートの上に並べお酒をかけて焼くだけで、一人一匹を堪能しました。
野趣あふれる料理とお酒を楽しみながら、緑に囲まれた海の見える高台での非日常の時間が流れていきます。
持って来て頂いた手土産のワインや日本酒が無くなるまで宴会は5時間ほど続き、
一日5本の尾鷲行きの最終バスが出る5時過ぎに、客人たちは長い階段を下りて帰って行かれました。
ゴルフとクエ(令和5年5月3日)
ホームページのリニューアルに力を入れ過ぎたためかブログの作成がおろそかになり、4月初めの更新が一回飛んでしまいました。
今月の話題は「ゴルフとクエ」です。
おじさん達の井戸端会議「一木会」の4月例会は、一泊二日尾鷲での開催です。
一日目は、雨と曇りがコロコロ変わり、二日目は強い雨の予報でしたが、延期するとスケジュール調整が面倒なため決行することにしました。
参加者は7名、内ゴルフ組は5名で、大阪から新名神と伊勢自動車道で来るIさんの便を優先し、一志嬉野インター近くのセブンスリーゴルフ場を予約しました。
奈良から行く4名は家の近くのスーパーの駐車場で合流し、車2台で向かいます。
奈良から尾鷲へ行くルートは3つあります。
国道169号を通り、吉野から上北山村を経由するルートはきついカーブの続く山道ですが、距離は150kmほどで、一番近いルートです。
名阪国道で亀山ジャンクションから伊勢道を経由するルートは、距離が200kmほどの一番長いルートですが、時間的には一番早いルートです。
これまでこのどちらかのルートを利用していましたが、名阪国道の治田インターで下りて国道165号線を東へ進み一志嬉野から伊勢自動車に乗るルートを最近は利用しています。
距離は亀山ジャンクションを経由するルートより10kmほど短くなりますが、一般道のため時間的には変わりません。ただし高速料金が少し安くなります。
セブンスリーゴルフ場の1番ホールはフェアーウェイ左に白い色のバンカーと赤い色のバンカーがあり、右には小さい池があります。
M君のティーショットは右にスライスしてその池に入りました。しかし近づいてみると水の上に白いボールが浮いているように見えます。
池だと思っていたのは水色のカラーバンカーでした。
距離の長いコースで最終ホールのパー4ではティーショットを250ヤードほど飛ばさないと、セカンド地点から打ち下ろしていくグリーンが見えません。
飛距離の伸びない高齢者にとってはハードなコースでした。
ゴルフが終わって一志嬉野インターから尾鷲に向かいます。
途中「おとと」で翌日のバーベキューのための食材を仕入れ、熊野古道センターに立ち寄ったあと尾鷲シーサイドビューに着きました。
通された部屋は3階角部屋で海が一望できます。浴場の大きなガラス窓からも同じ風景が見られます。
壁紙の模様やアルコーブに置かれた植物など建物のちょっとしたところにオーナーの奥さんの好みが伺えます。
夕食はクエコースと伊勢エビコースに分かれましたが、食べきれないほどの料理をそれぞれ分け合って両方を堪能しました。
クエも伊勢エビも近くの海でとれた新鮮なもので、特にクエは漁師や釣り人が釣ってきたものを買い上げ、生け簀に入れてありますので年中食べられるそうです。
グレが泳ぐ生け簀の底に大きなクエの姿が見えました。
翌日は土砂降りの雨のため、オーナーにお願いしていた船での遊覧は中止です。
梶賀に着いて小降りになるタイミングを見計らって車を降り、煩悩の数ほどの長い階段を上ってかじか荘に着きました。
予定していた庭でのバーベキューはできず、家の中での宴会になりました。
時間を持て余しぎみのため、前の住人が置いて行った麻雀パイを使って麻雀大会を始めました。
一畳の掘り炬燵に2つ乗せているテーブルの1つを床の位置まで下ろし、その上に座布団を敷き即席の麻雀卓ができました。
何年振りかの麻雀で学生時代に戻ったような感覚です。新しい事にはなかなか馴染めませんが古いことならすぐに再開できるようです。
熱海桜(令和5年3月9日)
早咲きの河津桜の便りが聞かれますが、最近は河津町の他にもたくさんの名所があるようです。
先日、梶賀からの帰りに三重県の清流銚子川沿いの「種まき権兵衛の里」に立ち寄ると、河津町の桜に匹敵するほどの規模で濃いピンクの花が満開でした。
この川で何年か前にまだ幼かった孫たちと水遊びをしたことが思い出されます。
その河津桜よりも更に早く咲く熱海桜があることをテレビのニュースが伝えていました。
明治初期にイタリア人の手によってレモンやナツメヤシと共に、熱海に伝わったと言われています。
開花時期が非常に早いのが特徴で、沖縄の寒緋桜とほぼ同時期の1月に開花し、熱海を訪れる人々に少し早い春を感じさせてくれるそうです。
千葉に住む7歳になった孫の誕生日会に招待されたのを機に、この桜を見に行くことにしました。
孫たちに会うのは5歳になった孫娘の誕生日会の日以来3ヶ月ぶりで、昨年の夏に生まれた3番目の孫娘も随分重く感じられるようになっていました。
孫娘の伴奏でハッピーバースデイの歌の後ケーキをいただき3時ごろ孫たちと別れました。
いつもの様に東京駅の大丸地下食糧品店でワインとオードブルそれに穴子ずしを買い求め、新幹線で熱海に向かいます。
シャトルバスで東急ハーベスト熱海に着く早々湿式のサウナに入り、海に浮かぶ初島を見ながらゆっくり温泉に浸かりました。
翌日も朝早くから温泉に向かい露天風呂から海を眺めていると、東の雲が明るく輝き水平線から太陽が昇ってきました。
水平線から昇る太陽を生で見るのは初めての経験です。
早々にチェックアウトしてシャトルバスで海岸線に近い道を熱海駅に向かいます。
前回来た時は路線バスで山側の道を通り、源頼朝と北条政子が結ばれたと伝えられる伊豆山神社にお参りし、
途中土石流の被害に遭った場所も通りました。
駅でコインロッカーに荷物を預けて熱海梅園行きのバスに乗り込みます。
貫一・お宮の銅像がある公園沿いの海岸線を通り急な坂を上ると20分ほどで熱海梅林に着きました。
ここを訪れるのは河津桜を見に来た時以来2度目です。
明治19年に開園した熱海梅園は、樹齢百年を越える梅の古木をはじめたくさんの梅が順番に開花していくそうですが、この日はまだ満開の梅は観られません。
丁度お祭り期間中で園内には足湯や飲食出店・土産店もオープンしています。
前回は義母も一緒だったため上の方までは行けませんでしたが、今回は滝のある一番高い所まで上ってきました。
「てるてる坊主」「肩たたき」「シャボン玉」などの作曲家、中山晋平の別荘や
韓国の大統領が梅園を訪れたことを記念して再現された韓国庭園などを見てきました。
熱海梅林を出てからは下りの道を熱海駅まで歩きます。
途中、樹齢2000年を超える大楠がある来宮神社に立ち寄りました。
コンクリートで固めた手術跡のある大楠の周りには根を痛めないように回廊が作られています。
一回りすると寿命が一年延びると云われていますが、そのことを知らなかったので一回しか回りませんでした。
神社を出てからもひたすら坂道を下って行くと市役所があり、そのそばを流れる糸川沿い熱海桜が咲いています。
右岸側を下り左岸側を上って眺める200mほどの川沿いの桜は丁度満開で、色は河津桜に近い濃いピンクです。
ここから熱海駅までは逆に上りの道が20分ほど続きます。
駅前のいつもの店でお寿司とワインを仕入れ、こだまのグリーン車でゆったりとして帰ってきました。
ナニワイバラ(令和5年2月9日)
ナニワイバラは白い花を咲かせるツル性のバラで、原産地は中国南部や台湾です。
名前の由来は江戸時代にさかのぼります。大阪難波の植木商人がよく中国から輸入していたため、この名前が付けられたそうです。
5月頃、ゴルフ練習場近くの家のガレージを覆うように咲き乱れているのを見ていましたが、名前は知りませんでした。
昨年の暮れ、尾鷲でゴルフ同好会を主催しておられるAさんからこの苗木を頂きました。
ナニワイバラのツルはフェンスやアーチに絡むことはなく、まっすぐ枝を伸ばす特徴があります。
ツルを誘引してやれば石垣を覆うように大きく広がりますので、何年か先には梶賀の中古住宅が白い雲の上に浮かぶような風景が見られるかも知れません。
Aさんが主催するゴルフ同好会の一つは、毎月第2火曜日に開催されますので、梶賀から奈良へ帰る日に合わせるようにしています。
伊勢道の一志嬉野インター近くのゴルフ場で開催されることが多いのですが、一志ゴルフ倶楽部、一志温泉コース、三重白山ゴルフクラブ、白山ビレッジゴルフクラブ等
よく似た名前のゴルフ場があり、これまでに2度間違えたことがあります。
プライベートな会にしては大きな集まりで、毎回8組程度の参加者があります。
ルールは厳しくノータッチでOKパットなしです。
昨年の12月、風の強い寒い日に三重フェニックスでご一緒したのは男性二人と女性一人。
女性の方は飛距離こそ伸びませんが、真っ直ぐ確実に飛ばされます。
時々大たたきをしてスコアーが分からなくなることがあるようで、一つ少ないと思われるスコアーを申告されますが、こちらも正確に数えたわけでもないので申告通りにカートのナビに入力していました。
二人の男性は釣仲間らしく、その内の一人60歳代の方は、ドライバーの飛距離が240ヤードを越えるロングヒッターで、私のナイスショットを軽々とオーバーしていきます。
一緒にラウンドしているとグリーン周りまでは大体同じ打数で来ますので、スコアーの差は寄せとパットで決まります。
相手のスコアーは正確にはチェックしてはいませんが、自分のスコアーと比べて感覚で分かります。
午前中のプレーでボギーと言われたとき「ダボじゃなかった?」と思ったホールがありましたが、「まあいいか」と申告通りに入力しました。
午後の1番目のパー4のホールでは、同じように2打でグリーン周りまで来て私は3オン2パットの5、その方はグリーン周りでザックリして4オン2パットの6。
ホールアウト直後に「ボギー」と申告されました。
勘違いしているのかも知れませんが、私には確信犯のように思えてきました。
正そうかと思いましたが、その時も「まあいいか」とそのままにしました。
その後は自分のゴルフに集中できなくなり、散々な成績で終わりました。
プレー後の成績発表ではその方が優勝、2位は同じく一緒にラウンドした女性の方でした。
春日台カントリークラブのメンバーだったころ、Aクラス月例のコンペでスコアーをごまかすので有名な方がおられました。
その人の手口は大胆です。
アテストが終わり席を離れた後、一人残り自分のスコアーを書き直します。
皆からは「消しゴムさん」と綽名されていました。
このブログで何回か取り上げたことがありますが、「18年付き合うよりも18ホールプレーする方がその人のことがよく分かる」というイギリスのことわざがあります。
これまで初対面の方とラウンドする機会は何度もありましたが、ほとんどの方は人生経験も豊富で次もご一緒したいと思う方ばかりでした。
今回は残念な方と出会ってしまったようです。
SoftBridge遊生庵
ドメイン名「softbridge.net」を登録しブログを立ち上げたのは、2013年頃です。
携帯はまだガラケーが主流でしたが、その後のスマホの普及でブログもスマホ対応が一般的になってきました。
そこでホームページをリニューアルすることにしました。
新しい名前は『SoftBridge遊生庵』です。
梁塵秘抄の「遊びをせんとや生まれけむ」と「生き物と遊ぶ」と云う意味を込めました。
ヘッダーのスライドショーは『十牛図』です。
逃げ出した牛を探し求める牧人の様子を段階的に描いた十枚の絵で、禅の悟りにいたる道筋を表しています。
いつまでも煩悩から逃れられないわが身を思い、この画を選びました。
長寿化が進み、「人生100年時代」と言われるようになりました。
従来は、学校に通って教育を受け、就職して定年まで働き、引退後はのんびり過ごすという3ステージの生き方が主流でした。
しかし、100年人生では、3ステージに代わりマルチステージが主流になるそうです。
一人ひとりが違った働き方を見出し、人生のイベントの順序もそれぞれ違い、自分にとって理想的な人生を追い求めていくことになります。
古希を越えた年齢で新たなステージは限られていますが、この時期を生きる知恵として教えてもらった3つの「ショク」を実践しています。
一つ目の「食」は言うまでもなく食べることです。
家の近くで畑を借り、野菜を作っています。
最初はうらなりの作物しかできませんでしたが、おが屑と米ぬかを混ぜて醗酵させた上に苗を植えると、立派な作物が採れるようになりました。
食卓にはいつも新鮮な季節の野菜が上ります。
二つ目の「職」は働くことです。
縁あって3年ほど前から、大津にある設計コンサルタントに週1回出勤しています。
大津駅から歩いて通う途中、氏神の天孫神社にお参りし、空き家になっている実家の郵便受を確かめて会社に向かいます。
橋梁の補修、補強や撤去など、これまでの経験と資格を活かせ、社会と繋がっていられることはありがたいと思っています。
三つ目の「触」はコミュニケーションです。
社内外でご縁のあった方や、気の合う高校や大学の同級生たちとゴルフで交流を続けています。
第1木曜日に天満橋の貸会議室で行う「一木会」は、持ち回りで提供される話題を肴に、
飲みながら意見交換する「おじさん達の井戸端会議」です。
尾鷲市の南端に位置する梶賀町に中古住宅を購入して、定期的に訪れる2地域居住という新しいステージでは、
釣り、シーカヤックやゴルフを通じて地元の方や移住者たちとの交流も盛んです。
デジタルな触れ合いとしては、もう10年近くこのブログを続けています。
これからも新しいステージでの出来事を記録していきたいと思っています。