熊野古道伊勢路ルート
第1回熊野古道伊勢路ルート【ツヅラト峠】(平成26年5月2日)
「熊野へ参るには紀伊路と伊勢路のどれ近しどれ遠し、広大慈悲の道なれば、紀伊路も伊勢路も遠からず。」
― 伊勢路は平安時代の歌謡集「梁塵秘抄」にもある主要ルートの一つです。
新聞の折り込みに「平成26年春スタート 語り部と行く熊野古道ウォーク伊勢路編」の案内を見つけ、申し込むことにしました。
関西各地からの日帰りバスツアーが企画されていますが、都合の良い日の奈良、大阪からのバスツアーは満席のため、
仕方なく京都からのツアーを申し込みました。その日が近づくにつれ、天気は雨の予報です。
別の日に延期してもらおうと連絡を取ったのですが、一旦キャンセル料を払って再度申し込みが必要とのことでしたので、
雨を覚悟で出かけることにしました。
近鉄竹田駅から出るバスは、中高年の男女でほぼ満席です。この日は関西各地から同じコースで10台ほどのバスが出ているとのことでした。
新名神、伊勢自動車道を通り、バスが着いた小公園で配られた早めのお弁当を食べてから歩き始めます。
語り部の方が所々で立ち止って説明をされますが、一人で扱える人数を超えており、よく聞き取れません。
伊勢側から標高357mの峠を登りきり、熊野灘を一望できるこのコース一番のスポットに着いても、あいにくの雨のためほとんど見えません。
紀伊側への下りは急斜面にカーブが連続します。「ツヅラト」はこの九十九折が語源だとのことです。
道中は、自然石を使った野面乱層積みと呼ばれる石垣が残り、一部は石畳の道が続きます。
一人しか通れない道幅のため長い列になり、歩くペースも違うため雨の中で立ち止ることも多く、イライラが募ります。
30人ほどの集団が幾つも一列で進むさまは、正に蟻の熊野詣です。
団体旅行は手軽ですが、自由に行動できないわずらわしさを感じます。次回からは女房と二人の気ままなウォーキングに戻るつもりです。
第2回熊野古道伊勢路ルート【女鬼峠・三瀬坂峠・荷坂峠】(平成28年3月2日)
初めての熊野古道ウォーク伊勢路はバスツアーでしたが、あいにくの雨降りとあまりにも多い参加者のため思うように進めず、
良い思い出にはなりませんでした。そこで今回からは天気の良い日を選んで女房と二人、気ままに車で行くことにしました。
名阪国道と伊勢自動車道を通るルートは一般道と比べて1時間程早く着きますが、急ぐ旅ではないため、行きは一般道、帰りは高速道を通ることにしました。
中和幹線で東に向かい、桜井から少し戻って国道166号線を通る予定でしたが、道が良いためそのまま榛原まで国道165号線を通り、
国道369号線に繋がる一般道を走ることにしました。しかし、この選択は後で後悔することになります。
美杉から国道369号線に変わる道をそのまま進むとだんだん道幅が狭くなり、大型車通行不可の看板を目にするようになって来ました。
ナビには行く手に曲がりくねった道が示されています。
引き返すにはかなり戻らなくてはならないため、前を走っている軽トラックについてそのまま進むことにしました。
暫くすると、余計なことをしなくてよいのに軽トラックが左に寄り、道を譲ってくれます。
仕方なくすれ違いが困難な山道の先頭を走って行くと対向車が来ます。
こちら側は2台、しかも向こうは登りですので、マナーからいえば道を譲るのは向こうの方ですが、ヘッドライトをつけて近づいてきます。
後ろの車はよほど親切な運転者なのかすでにバックし始めています。仕方がないので登りの急坂をバックして道を譲りました。
その後もつづら折れの狭い道が暫く続き、3時間半程かかってその日最初の目的地、女鬼峠の登り口に着きました。
女鬼峠は標高120m程の低い峠ですが、伊勢路で最初に越える峠です。千枚岩の岩盤を切り通した道には轍の跡が残っていて古道の歴史を感じます。
2km程の道のりを往復して車をとめた場所に戻り、次の目的地に向かいます。三瀬坂峠も標高250m程で高い峠ではありませんが、急な上り坂が続きます。
車を止めてある所に戻るにはこの峠も往復しなければなりません。この日の宿泊は賢島カントリークラブの前にある東急ハーベストの提携ホテルです。
部屋番号は奇遇にもその日の月日と同じ番号、結婚記念日と同じ番号です。近くのスーパーで買った食材とお酒で三十数回目の記念日を祝いました。
翌日は海岸沿いの一般道を走り、次の目的地荷坂峠へ向かいます。
紀伊長嶋駅前のスーパーの駐車場に車を止め、電車で梅ケ谷駅まで戻りそこから歩き始めます。
国道沿いの緩やかな上り坂を登って行くと見覚えのある峠の駐車場に出ました。
前回のバスツアーでツヅラト峠に行った時、荷坂峠のルートを案内され説明を受けた所です。
荷坂峠は紀州藩の街道整備に伴って紀伊の国の玄関口となった所で、所々江戸時代の急な道と明治時代の緩やかな道が交差します。
紀伊長島の町の近くに下りてくると、松の内を過ぎているのに家々の門口に「笑門」と墨書きした門符が付いた注連飾りが掲げてあるのが目につきます。
後で調べたところでは次の様な理由があるそうです。
『その昔、この地を訪れたスサノオノミコトに、貧しいながらも慈悲深い蘇民将来が一夜の宿を貸した。
ミコトは旅立つ時、今後は門符を門口にかけておけば、子孫代々疫病から免れると言い残した。
その後、蘇民の子孫である証拠として門符を掲げ、無病息災を願い一年間かけたままで過ごすうようになった。』
家内安全の祈りを込めた「厄除け」の門符かも知れませんが、季節外れの正月飾りの様な気がしてなりませんでした。
第3回熊野古道伊勢路ルート【始神峠・熊谷道】(平成28年4月25日)
雨が続けば1区間だけにしようと思っていましたが、3月19日は午前中に雨が上がり、賢島泊で2区間の伊勢路を歩いてきました。 前回は紀伊半島を横断する北寄りの一般道を通ってひどい目にあいましたが、 今回は道路が整備されている南寄りの国道166号線を通り目的地に向かいました。 三野瀬駅近くの桜広場に車を止め、紀北町紀伊長島地区と海山区の境に位置する始神峠を目指します。 行きは少しきつい江戸道で峠まで向かい、帰りは明治道を通って桜広場に戻ります。 峠の展望台からは紀伊の松島と呼ばれる熊野灘に浮かぶ島々を一望できます。 伊勢路のガイドブックの表紙を飾るほどの優美な景色が広がっています。 見事な石積が残る明治道を歩いている時、にわかに物音がして野生の鹿が一頭、目の前を横切り急な斜面を駆け上がって行きました。 桜の広場に戻り、賢島のホテルで一泊して、翌日は紀伊長島駅前に車を止めて市内から歩き始めました。 長嶋神社の大楠を見学してから古い家並みの残る魚町を通り、国道42号の歩道を歩いて加田教会のバス停付近から古道に入ります。 古道に入ると、一石峠の登り口にあるお地蔵様の所で写真を撮っている家族連れのグループと出会いました。 このグループとはその後道を間違えて引き返してきた時に何度か出会いましたが、道端で売っているみかんを買って頬張っている写真を撮ったりして楽しそうです。 紀伊の松島を一望できるサボ鼻展望台で古里海岸を眺めてから先に進もうとしたところ、崖崩れ防止ネットが貼られた崖が崩れていて道が埋まっています。 仕方なく少し引き返して国道沿いの人道トンネルを通り、熊谷道登り口から三浦峠に向かいました。 同じ名前でも前回小辺路ルートで越えた標高1000mの三浦峠とは違い、ここの三浦峠は標高113mです。 世界遺産に指定されている熊谷道を電車の時間を気にしながら少し速足で三野瀬まで歩き、予定していたよりも一本早い電車に乗り紀伊長島に戻りました。
第4回熊野古道伊勢路ルート【馬越峠】(平成28年4月25日)
伊勢路を歩く区間も回を重ねるに従ってだんだん南下してきました。始神峠を歩いて一週間後、日帰りで馬越峠を歩いてきました。
6時前に家を出て国道169号線を通り、吉野、上北山村を経て尾鷲を目指します。これまでの紀伊半島横断と違い縦断です。
3時間半ほどで車を止めておく大曽根浦駅に着くと予定していたのですが、途中の朝食でゆっくりし過ぎたため、
2時間に一本しかない電車に間に合いそうもありません。
予定を変更して出発する相賀駅の近くに車を止め、歩き終わってから電車に乗ることにしました。
その日はお天気も良く桜も見頃です。銚子川を渡り、しばらくすると国道沿いに種まき権兵衛の防護壁が現れました。
所々に権兵衛にまつわる逸話のシーンがレリーフで飾られています。「権兵衛が種まきゃカラスがほぜくる」の俗謡で知られる権兵衛さん。
畑仕事では今ひとつでも、鉄砲の腕前は名人級だった権兵衛さんが、大蛇を退治したお話です。
道の駅海山を越えてすぐに峠の登り口にかかると自然石が折り重なるように敷き詰められた石畳道が始まります。
途中に、子供の夜泣き封じの伝承があるお地蔵さまが祀られています。
2か月になる孫の夜泣き封じをお願いすべく手を合わせました。
先日放送されたNHKの番組によると、夜泣きは体内時計がまだ形成されていない時期に起こるそうです。
お腹の中では昼と夜の区別がないため、体内時計は形成されず生まれてからも昼と夜の区別がつかないため、夜泣きをするとのことです。
脳の発達を待つしかないのですが、お地蔵さまにすがらざるを得ない気持ちも分かるような気がします。
石畳の道は4kmほど続きますが、平坦な道ならいざ知らず、木の文化の日本にあって、
これだけの高低差のある道によくも敷き詰めたものだと先人の努力に驚かされます。
熊野古道で最も美しいといわれるこの石畳とヒノキの林が見どころで伊勢路の中でも最も人気の高い峠道です。
そのためか平日にも関わらず小さな子供連れや多くの人と出会いました。
尾鷲の町へ抜けて尾鷲駅近くの地元の魚が食べられる魚市場でお昼にするつもりでしたが、駅に着くと丁度良い時間に相賀へ向かう電車が来ます。
当初は昼食後もう少し歩いて次の駅まで行くつもりでしたが、予定を変更して戻ることにしました。
楽しみにしていた新鮮な魚の代わりに、紀伊長嶋駅近くの手打ちうどん屋さんに寄ることにしました。
前回はうどんを注文してから隣のおじさんが食べていた天丼がおいしそうで心残りになっていました。
それはかつ丼のように揚げたエビフライを卵でとじたもので、小さなかけうどんも付いています。
念願だった天丼に満足して帰りの途に着きました。
第5回熊野古道伊勢路ルート【三木峠・羽後峠】(平成28年12月4日)
毎週土曜日の6時から放送される『人生の楽園』は、様々なセカンドライフを紹介しながら新しい生き方を提案する番組です。
4月の放送で三重県尾鷲市九鬼町にある町唯一の食堂が紹介されました。お店の名前は網干場(あばば)。
目の前に広がる海を見ながら、のんびりとランチをいただけます。
シーズンになるとブリも提供される、ボリューム満点のお造り定食は絶品との評判です。
今年のゴールデンウィークに熊野古道伊勢路ルートの八鬼山越えを歩いた時、さくらの森公園から眼下に九鬼の町を見て、
次のコースでのランチは網干場と決めていました。
あれから半年後の11月の半ば、朝早くに家を出て国道168号線を南下して再び三重県に向かいました。
川上村に入り大滝ダムを過ぎると、ダム湖に架かるコンクリート斜張橋の白屋大橋が優美な姿で迫ってきます。
この橋を見るたびに、現役の頃付き合いのあったH氏のことが思い出されます。
この橋の設計に関与され、博士号を取得してその資格を活かすことなく定年を待たずに退職された方です。
今は卓球と囲碁三昧のリタイアー生活を満喫されているとのことです。
上北山村まではトンネルと橋が続く快適な道路を走りますが、役場を過ぎるあたりから貯水池を回るカーブが延々と続きます。
3時間ほどかけて今回歩くコースの終点になる賀田に着き、駅近くの公園に車を止めました。
電車の時間が迫っていたため、近くのパン屋で買ったパンと肉まんを頬張り、急いで駅に向かいました。
賀田から電車に乗り、一駅離れた三木里まで戻ります。
ワンマンカーと書かれていたホームの乗車位置から乗り、ブラインドが下ろされた運転席から出てきた乗務員から切符を購入しました。
運転席側に運転手と車掌がいるのもおかしいので、この電車はワンマンカーかどうかと女房と詮索しているうちに三木里駅に着きました。
リュックを担いで降りようとすると、前に座っていた外人さんがポールを忘れていると注意してくれました。
ワンマンカーかどうかを確かめようと運転席に気をとられていて、危うく忘れるところでした。
ホームに降りて振り返ると、運転席側に運転手と車掌が乗車していました。
前回この三木里駅まで歩いた時は、前日の雨の影響で石畳の道が所々川のようになっていて、中には30m近く川の中を進むような箇所もありました。
このコースは伊勢路第一の難所といわれ、かつては山賊やオオカミが出没して巡礼者を苦しめたそうです。
そのためかいたるところで行倒れ巡礼碑に出会いました。
今回のコースは標高100m程度の三木峠と羽後峠を越えるコースで、歩行時間は3時間ほどです。
車を止めた公園へは昼頃に着き、九鬼まで海岸沿いの道を戻ります。
網干場は海のすぐ横を通る道に面しており、その道路に客の車が何台か止まっています。
ガードレールがないため、運転を誤れば海に転落します。
海は青く澄んでいてブルーの熱帯魚が泳いでいます。
店に入ると海側の大きな窓を通して、池の様に穏やかに広がる海が見え、対岸の山の緑とのコントラストがきれいです。
その窓際にあるカウンターは日差しが強く差し込んでいるため、少し離れたテーブル席に座りました。
メニューにあった刺身定食とフライ定食を女房と別々に注文し、勧められたヨコワとアオリイカの握りも追加しました。
期待をふくらませて待っていたのですが、出てきた料理に少しがっかりさせられました。
刺身は新鮮ですがかなり薄く切られており、トビウオのフライも大味でした。
最もひどかったのはしょうがの甘酢漬けで何やら変な味がします。女房も似たような印象を抱いたようでした。
テレビではあんなにおいしそうに映っていたのに、実態とは違うようです。
ただ、九鬼の海の景色だけは本物のご馳走でした。
第6回熊野古道伊勢路ルート【曽根次郎坂・太郎坂】(平成28年12月16日)
8時頃に42号線との交差点を通過すれば、8時35分発の電車に間に合うと思っていました。
しかし、予定よりも30分遅れて家を出たため、車を飛ばしに飛ばしてその交差点を通過したのは8時15分を過ぎていました。
残りの距離は約20km。間に合わないかも知れないと思いながら、新鹿(あたしか)の町に着いたのは、電車の発車時刻の5分前でした。
ナビが駅までの道を案内してくれず、駅に通じる細い道を見つけて駅に着いたのは発車の2分前。
乗り遅れた場合はコースを反対に歩いて電車で帰ってくることも考えていましたが、何とか予定していた電車に乗ることができました。
2駅戻った賀田駅から歩き始めて最初に立ち寄った飛鳥神社境内には、亜熱帯性と温帯性の植物が混生しています。
なかでも楠は樹齢1000年以上、高さ30メートルにもおよぶ巨木です。
近くに小学校の跡地を利用した資料館があり、唐破風の屋根をもつ玄関の傍に二宮金次郎の石像を見つけました。
昭和の初期にタイムスリップしたような雰囲気が漂っています。
墓地の横を通るところから始まる曽根次郎坂・太郎坂の石畳の道は、雨の多いこの地方の気候のため、一面にこけが生えています。
途中、今まで見たこともない大きな青色のミミズに驚かされました。
後で調べたところ、シーボルトが持ち帰った標本によって記載されたことからシーボルトミミズというそうです。
西日本の山林に生息するミミズで、体が大きく青紫色の光沢を持ち、地表に出てくることがよくあるようです。
大きくて目立つため各地で方言名も存在し、和歌山県ではカンタロウと呼ばれています。
平日のため、今回は他に歩いている人には出会わないと思っていたら、後ろから追いかけて来る鈴の音が聞こえてきます。
そのスピードは尋常ではありません。振り向くと半ズボン姿の青年が、ポールを使うことなく石畳みの道を飛ぶように駈けて来て追い越して行きました。
最初の峠を越え、古道から少し離れた太郎坂広場で昼食をとりました。
ここから望む二木島湾は絶景で、湾とその周辺を覆う山とのコントラストがなんとも神秘的です。
年末年始は湾の入り口の間の水平線に日の出を見ることができ、これを写すために大勢のカメラマンが訪れるそうです。
二木島からはさらに二木島峠・逢神坂峠を越え、3時頃に車を止めた新鹿に着き、南紀田辺へ向かいました。
前回は新宮経由の海岸沿いの道を走りましたが、今回は少し距離の短い山道を通ります。
2時間ほどかけて上富田に着き、いつものAコープで晩御飯のおかずを買って、東急ハーベスト南紀田辺へ向かいました。
翌日は自宅へ帰る途中の堺で高速を降りて、生前大変お世話になったFさんのお墓にお参りするつもりでした。
お墓は泉北自動車教習所の隣にあるのですが、教習所の名前を間違えてナビに入れたため、かなり遠回りすることになってしまいました。
Fさんの奥さんの案内で一木会のメンバーと一緒にお墓参りをして、奥さんを近くのご自宅までお送りしたのは一年前です。
お参りを済ませ、何回もおじゃましたことのあるその家へ向かいましたが、道を間違えるはずはないのに家が見当たりません。
別の通りも見てみましたが、やはり見つかりません。
最初の道に戻りそれらしい場所をゆっくりと進むと、2区画更地になった場所に新しい家が建っていました。
広い敷地を2つに分けて販売され、その一方に家が建ったようです。
「人も家も生まれては消える泡沫(うたかた)の様なものだ」と鴨長明が方丈記に書いています。
諸行無常、変わらないものは何もないようです。
第7回熊野古道伊勢路【波田須の道・大吹峠道・観音道】(令和元年12月19日)
徐福は今から2,200年ほど前、中国を統一した秦の始皇帝に仕え、その命により東方海上の三神山にあるという不老不死の霊薬を求めて3,000人の童男童女を引き連れ、熊野に渡来したと伝えられています。
徐福一行は、この地に自生する「天台烏薬」という薬木を発見しましたが、気候温暖、風光明媚、更には土地の人々の暖かい友情に触れ、
この地を永住の地と定め、土地を拓き、農耕、漁法、捕鯨、紙すき等の技術を伝えたと言われています。
3年ぶりに再会する熊野古道伊勢路は、この徐福上陸伝説のある波田須の道からのスタートです。
5時に家を出て国道169号線を南下し、紀勢線の大泊駅には電車に乗る時刻の30分前、8時に着きました。
車の中で朝食をとり、トレッキングの服装に着替えプラットホームで待っていると熊野方面からの電車が到着しました。
途中の波田須駅から同じようなスタイルの同年配の夫婦が乗ってこられ、私たちと同じ新鹿駅で降りられました。
どうやら伊勢路の同じルートを歩かれるようです。
駅から海岸沿いに国道を歩き、波田須トンネルの手前で国道を離れ狭い道を進むと、波田須の道で唯一世界遺産に指定されている鎌倉期の石畳に道に出ます。
石の一つ一つが重厚で大きく、江戸時代の石畳とははっきり区別がつきます。
波田須神社のところで国道を横断して徐福神社へ向かいます。
小さな祠を包むように大きな楠が立っていて、傍には徐福が求めた不老不死の薬といわれる「天台烏薬」の木が茂っています。
天台烏薬は徐福によって熊野で発見されたと伝えられますが、もともとは中国の原産で、日本には亨保年間に渡来したとされる説が一般的なようです。
「天台烏薬」を服用したところで不老不死が得られるはずもありませんが、腎臓病・リウマチなどに効果があり、活性酸素消去作用にもすぐれているそうです。
次に向かう大吹峠の登り口の所はちょっとした公園になっていて、駐車場ときれいなトイレがあり、ここで少し休憩してから峠道に入りました。
熊野古道には珍しく竹林が広がる竹林の古道です。峠のすぐ手前で、猪や鹿から田畑を守るために江戸時代に築かれた猪垣を横切ります。
獣の侵入を防ぐだけのためによくもこれだけ大量の石を積んだものだと昔の人の労力に感心させられます。
石畳が敷き詰められた峠道を下り、目前に広がる大泊湾の白い砂浜を見ながら大泊駅に戻って来ました。
駅に続く道にはオレンジ色の花をつけたアロエが群生していて、温暖な気候が感じられます。
次の観音道の登り口までは車で移動して、車の中からかなりの落差のある清滝を見ながら昼食をとりました。
観音道は、道の傍らに西国33所の観音石像が立ち並ぶ古道で、観音信仰が盛んな時代は大吹峠を通らず、観音道が良く使われていたそうです。
かつて観音様の命日には多くの人が参り、お寿司やおはぎを売る店も出て大変な賑わいだったそうですが、ひっそりと石像がただ済む苔むした道になっています。
山の上の比音山清水寺跡には坂上田村麻呂が黄金の千手観音像を納めたという洞窟がありますが、今は地元有志の方が置いた新しい観音像が祀られています。
同じ電車に乗って来られたご夫婦とここで再会して少し話をする機会がありました。
愛知県から来て車を波田須の駅前に止めていて、猪垣道を通って波田須へ戻るそうで、観音道を引き返す我々とはここで別れました。
登り口まで降りて来で、車で2時間ほどの距離にある東急ハーベスト南紀田辺へ向かいました。
ホテルでは誕生日券を使った一泊二食付きのサービスを利用して温泉とクリスマスディナー楽しむことができました。
このサービスを利用する伊勢路ウォークは家内との毎年の年末行事になりそうです。
第8回熊野古道伊勢路【松本峠道】(令和3年1月7日)
国指定名勝天然記念物「鬼ヶ城」は、海風蝕と数回の大地震で隆起した凝灰岩が作り出した奇景が約1kmにわたって続く名勝です。
鬼と恐れられた海賊多我丸を、坂上田村麻呂が沖に浮かぶ魔見ヶ島から矢を放って征伐したという伝説が残っています。
1年ぶりの熊野古道伊勢路は、熊野古道のルートではありませんが、『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部として世界遺産登録されている「鬼ヶ城」からのスタートです。
朝6時に家を出て国道169号線を南下し、9時過ぎに鬼ヶ城センターに着きました。
年末の平日でコロナの影響もあり、観光で来ている車はまばらです。
早速トレッキングシューズに履き替え、海岸線の遊歩道を歩き始めました。
駐車場から千畳敷までは整備された道ですが、そこから先は足場の悪い狭い道で、手摺はありますが海側は断崖です。
鬼の風呂桶、神楽岩、潮吹、飛渡り、鬼の見張場、鬼の洗濯場など、その険しさを象徴するかのように名付けられた大自然が作り出す洞窟や絶壁が続きます。
七里御浜の海岸線が見える反対側の入り口近くで引き返しましたが、途中釣道具を持った人に出会いました。
「グレですか」と尋ねたところ「青物です」との答えが返ってきました。
駐車場から簡単に降りて磯に近づける漁場で、足元から水深があるためカンパチやワラサが狙えるようです。
鬼ヶ城を後にして熊野市駅に向かいました。
駅前の駐車場に車を止め、駅に着いて時刻表を確かめると、予定していた10:54発の上りの電車がありません。
どうやらダイヤ改正前の時刻表でスケジュールを立てていたようです。
仕方がないのでタクシーで松本峠登り口に向かいました。
峠の真下を通る旧道の狭いトンネルを抜け、登り口から少し離れた駐車スペースのある所で車を降りると、向こうから熊避けのための鈴を一杯つけたハイキングスタイルおじさんが近づいて来ました。
どうやら同じルートで松本峠道を歩くようです。
こんな喧しい鈴の音を聞きながら趣のある石畳の階段を一緒に登るのはかなわないので、急いで登り始めました。
側面が見事な石垣で固められた苔むした石畳が峠まで続きます。
竹林に囲まれた峠では、建ったその日に妖怪と間違えられて鉄砲傷をつけられてしまったという、大きなお地蔵様が出迎えてくれます。
峠からルートを外れ10分ほど東へ歩くと東屋に着きます。
熊野速玉大社がある新宮まで約25kmも続く七里ヶ浜と、山並みが一望できます。
2時間ほど歩いて松本峠を越え、熊野市駅の近くのコンビニで昼食のおにぎりを買って駐車場に戻りました。
次の目的地は、毎年私と家内に誕生日をお祝いする一泊二食付きの無料宿泊券が送られて来る東急ハーベスト南紀田辺です。
誕生月の前後2ヶ月間有効で期間が重なる12月に利用しています。
途中みかんを販売している店に寄って地元産のみかんを仕入れ、広い駐車場で夕食に備えて軽めの昼食をとりました。
東急ハーベストまでは100kmほどの道のりですが、中辺路に沿った国道311号線を走っていると10年近く前、最初に熊野古道を歩き始めた当時の事が思い出されます。
ホテルに着いてゆっくりと温泉に浸かってからレストランで席に着くと、私には和食、家内にはクリスマスディナーの料理が運ばれて来て、地酒の「黒牛」と共に料理を堪能しました。
翌日の朝食バイキングではマスクをつけ、レストランの入り口で手の消毒をしてからビニールの手袋をつけて料理をとりました。
チェックアウトの勘定は追加で注文したお酒の料金だけで済み、伊勢路ウォークと東急ハーベスト南紀田辺での宿泊は、毎年の格安忘年行事になりそうです。
第9回熊野古道伊勢路【横垣峠道・風伝峠道】(令和4年1月4日)
1年ぶりの熊野古道伊勢路は、横垣峠と風伝峠を歩く9kmコースです。朝6時前に家を出て花吉野C.C近くのコンビニで朝食を取り、梶賀へ行くのに通い慣れた国道169号線を南下します。
熊野市内のスーパーでお弁当を買ってから横垣峠登り口へ向かう国道310号線は、果物や野菜を売る無人販売の棚が道沿いに設置されています。
この時期はみかんが主ですが、横垣峠登り口の無人販売所は建物の中に幾つもの棚が並び商品が豊富です。
それぞれの棚にお金を入れる鍵のかかった金属製の箱が置いてあり、値段は100円と200円の2種類です。
昼食に食べるみかんを買ってから、車は神木公民館の駐車場に止めました。
みかん畑の中を歩き始めしばらく進むと、世界遺産に指定されている石畳の区間が続きます。
地殻変動の際にマグマが波紋状に固まったという、この地方特有の神木流紋岩の石畳です。
苔むして濡れて滑るため、石と石の間に足を置くようにして歩いて行きます。
水壷地蔵とも呼ばれる地蔵の横に、弘法大師がここを通った際、杖で穴を開けて水を出したという伝説の湧き水があります。
ここで最初の休憩を取っている時、家内の携帯にビデオ通話の着信があり、孫達の元気な姿が映し出されました。
実はその1週間前、家に遊びに来ていた孫娘を車に乗せて畑の大根の収穫に行ったのですが、帰りは私の自転車に乗りたいと言うので、後ろの荷台に乗せて走り始めました。
すぐに急ブレーキがかかったような感覚と孫娘の鳴き声で倒れましたが、フレームと車輪の間に右足を挟まれてしまいました。
翌日、病院で診てもらった所、骨折はしていないが腫れて痛がるので、簡易ギブスをつけて1週間安静にという診断でした。
ちょっとした不注意でけがをさせたことを後悔しながら案じていましたが、元気な様子を見て安心しました。
横垣峠では東側の一部が開けており、熊野灘が一望できます。峠を過ぎてしばらくすると土砂崩れで通行できない個所があり、林道に迂回します。
林道を麓の集落まで下り、川沿いの太陽光発電設備が並ぶ横をしばらく歩きましたが、次のポイントの石燈籠になかなかたどり着きません。
どうやら道を間違えたようで、500mほど引き返すと小さな橋がありそれを見落としていたようです。
国道310号線のバス停高千良に出て熊野古道地域センター「さぎりの里」で昼食です。
何かの催しがあり、振舞って頂いた焼きそばがお弁当のおかずに加わりました。
昼食後、国道を渡り上野の大杉の横を通って風伝峠に向かいます。横垣峠と同じように杉林の中に苔むした石畳道が続きます。
風伝峠を下った後地のバス停がこの日の目的地で、バスの到着時刻まで30分ほどあります。
ベンチが無いため道に広げたシートに座ってバスを待ち、車を止めた神木公民館に戻りました。
次の目的地は、毎年私と家内の誕生日を祝う一泊二食付きの無料宿泊券が送られて来る東急ハーベスト南紀田辺です。
誕生月の前後2ヶ月間有効で、期間が重なる12月に利用しています。
ホテルに着いてゆっくりと温泉に浸かってからレストランで席に着くと、私には和食、家内にはクリスマスディナーの料理が運ばれて来て、地酒の「黒牛」と共に料理を堪能しました。
翌日の朝食バイキングは昨年と同じスタイルです。レストランの入り口で手の消毒をしてからビニールの手袋をつけて料理をとりました。
チェックアウトの勘定は追加で注文したお酒の料金だけで済み、伊勢路ウォークと東急ハーベスト南紀田辺での宿泊は、今年も格安の忘年行事になりました。
第10回熊野古道伊勢路【通り峠道と丸山千枚田】(令和4年6月30日)
尾鷲市三木里町でシーカヤック体験、ヨガ教室やイベント企画等を行っている「みきさといーぐみ」の代表Hさんが、活動の新しい拠点となる「ながらのおうち」をオープンされました。
そのリフォームに関わってきたご縁で、11日に開催されたグランドオープンイベントに参加してきました。
当日は朝10時からヨガ、海岸清掃、シーカヤック試乗会が行われるほか、昼からは飲食・物販ブースがオープン。さらに午後は、曼荼羅の絵解きや、紙芝居パフォーマンス、熊野鬼城太鼓の演奏などが行われます。
昼前に家内と2人で訪れると、20坪ほどの平屋を改装した家は大勢の人でいっぱいです。
キッチンで販売されていたサンドイッチとコーヒーそれに稲荷ずしを買って、エントランスのウッドデッキで頂きました。
コーヒーの値段が高かったので思わず聞き直しましたが、有機栽培された豆を使っているとの説明で2杯分1,000円を支払いました。
築100年以上になるこの家を最初に見た時、雨漏りの跡は目立ちませんでしたが、土壁にひび割れがあり、床が傾いているのが気になりました。
床板を全てめくってみると入口の土台がかなりシロアリにやられており、ボロボロになっていました。
土台を取換えジャッキで柱を持ち上げるようにアドバイスしましたが、その後のリフォームでは傾きはそのままにして梁と床が水平になるように新しい部材を継ぎ足したようです。
床板をめくっていた時、台所部分の床下から古い井戸の石組みが出てきたのには驚かされました。「貞子」を思い出して気味が悪くなりましたが、井戸は埋められており、一部は基礎として利用されていました。
昼食を終えてから「ながらのおうち」を後にして、この日歩く熊野古道伊勢路に向かいました。
通り峠道と丸山千枚田は世界遺産登録の対象ではありませんが、古くから生活道として使われ、海の幸と山の幸が行き交った道です。
天気予報で雨を覚悟しており、合羽を着ての歩きですが、距離は4.8kmと短く時間も2時間半程度です。
前回の風伝峠道を歩き終えバスに乗った後地のバス停に車を止め、通り峠に向かって歩き始めます。
道端に葉が笹の葉の形をした笹百合が咲いており、独特のいい香りがします。
通り峠までの道は少し狭いのですが、約800mの石畳道が残っています。雨で道が滑りやすいため、千枚田が一望できる展望台までは上らず、通り峠を下りました。
車道に出て舗装された道を下って行くと見晴らし台があり、小さな田圃が幾つも連な千枚田が見渡せます。
雨が降り続いているため水量が豊かで、田圃から田圃へ水が勢いよく流れ落ちていて、道端にはアマガエルやイモリも出て来ていました。
千枚田入口のバス停まで下りて来てからは、国道311号線の車を止めたバス停まで戻ります。
途中、雨の中で犬を散歩させているおばさんが、国道脇の家に戻ってから傘を持って出て来られました。
合羽を着てぬれねずみになって歩いている姿が気になったのでしょうか。お心遣いにお礼を言ってそのまま車を止めたところまで戻りました。
雨の中を長時間歩いたので、合羽を着ていても下の服まで濡れています。傘を差しかけてもらって濡れたものを脱ぎ、車の中で服を着替え、いつもの道を通って南紀田辺の東急ハーベストに向かいます。
10年前、初めて歩きはじめた中辺路ルートの地名が掲げられた道路標識を見ると当時の記憶がよみがえります。
伊勢路も海岸沿いの2つのコースを残すのみとなり、それが終われば中辺路、小辺路、大辺路、伊勢路を家内と2人で歩いてきた熊野古道ウォークも卒業です。
第11回熊野古道伊勢路【浜街道(北)】(令和4年12月8日)
七里御浜は熊野市から紀宝町に至る約22km続く日本で一番長い砂礫海岸で、これまでに「日本の渚百選」などに選ばれています。
荒々しい黒潮をおおらかに受けとめるこの浜には、熊野川の上流から運ばれ、熊野灘の荒波に磨かれた小石が敷き詰められています。
アカウミガメの上陸地としても知られています。
今回の熊野古道伊勢路は、この七里御浜を歩く海沿いのルートです。
朝6時前に家を出て梶賀へ行くのに通い慣れた国道169号線を南下し、熊野市から国道42号線で御浜町に向かいます。
途中一回のトイレ休憩だけで150kmの道のりを3時間ちょっとで走り、「道の駅パーク七里御浜」に着いたのはバスの発車時刻の10分ほど前です。
熊野市まで戻り獅子岩のバス停で降り、ここから歩きはじめます。
「獅子岩」は、巨大な獅子が海に向かって咆哮するような姿をした高さ25mの奇岩で、世界遺産並びに天然記念物に指定されています。
展望台横の階段から海岸に下りると無数の足跡が海に沿って続いています。
小石の所は足が沈んで歩きにくいので海に近い湿った砂地を歩こうとしましたが、同じように足が沈むため堤防の上を歩くことにしました。
10分ほど歩いて国道を渡ると「花の窟神社」です。
『日本書紀』によると、イザナギ・イザナミの両神は国産みのあと神産みをおこないますが、火の神カグツチを産んだところでイザナミが女陰を焼かれ、
それが元で亡くなってしまいます。
怒ったイザナギはカグツチを斬り殺し、紀伊国の熊野有馬村にイザナミを葬ったのが「花の窟」の始まりとされています。
御神体は高さ約70mの巨石です。
巨岩の麓には「ほと穴」と呼ばれる高さ6mほどの大きな窪みがあり、白石を敷き詰めて玉垣で囲んだ拝所が設けられています。
ちなみに「ほと」とは古い日本語で女性器の外陰部を意味する単語ですが、このような説明は観光案内のパンフレットには載っていません。
神社の門前に「道の駅熊野花の窟(お綱茶屋)」があり、ここでおにぎりを買って遅めの朝ごはんを頂きました。
登録されている熊野古道は海沿いに進みますが、歩きにくいためしばらくは舗装された街中の道を歩くことにしました。
気候が温暖なためかブーゲンビリアやハイビスカスの花が、道沿いの家の庭にまだ残っています。
交差点で信号待ちをしていると軽トラックに乗ったおじさんがどこへ行くのかと話しかけてきました。
海沿いの堤防の上が熊野古道のルートになっていると教えてくれたので、素直に従うことにしました。
国道を横切り防風林を抜けると堤防があり、その上を幅3mほどの歩道が延々と続いています。
左には打ち寄せる波、右には防風林の光景がずっとつづきますが、所々釣りをしている人がいてその上空を数匹の鳶が飛んでいます。
国道の方に向かう標識があった所で堤防を降りると防風林の中に道が続いています。
アップダウンが無い真っ直ぐな道で景色も単調なため、再び堤防の上の道に戻りました。
お昼を過ぎたところでコンビニに行くため国道沿いの歩道を歩いているとうどん屋さんがあったので、昼食はここでとることにしました。
ここ何年もうどんと言えば丸亀製麺の釜卵うどんしか食べていないため、それ以外のうどんは久しぶりです。
注文した山掛けうどんはアツアツでとても美味しく頂きました。
店を出てから国道の歩道が熊野古道のルートになっている所をしばらく歩きましたが、車の往来が激しく騒音もうるさいため少し山側を走る線路沿いの道を歩くことにしました。
12kmの距離を4時間ほどかけて歩き、車を止めた道の駅に戻ってきました。
ここから90kmほど離れた東急ハーベスト南紀田辺に向かい、毎年の年末行事の一つが終わりました。
第12回熊野古道伊勢路【浜街道(南)】(令和7年1月6日)
昨年末、恒例行事にしている熊野古道伊勢路を歩いてきました。初日は250kmの山道を走るロングドライブです。
朝6時に家を出て、京奈和自動車道を五条で降り、コンビニで朝食をとってから新宮へ向かう日本一長いバス路線のある国道168号線を南下します。
この道を最初に通ったのは半世紀以上も前、大学受験に失敗した時です。
南紀一周の自転車旅行に出たのですが、途中でしんどくなって新宮からこの道を抜けて帰ってきました。
当時はトンネルも狭く、車におびえながら走っていたことを覚えています。
まだ車のすれ違いに困難な箇所はありますが、当時と比べるとだいぶ道路整備が進んできています。
途中熊野本宮大社にお参りしてから鵜殿駅に行き、駅前に車を止めて前回歩き終えた阿田和駅に向かいます。
阿田和からは海岸沿いのルートですが、ガイドブックには一般道の緑色のルートと世界遺産登録されている海岸沿いの茶色のルートが示されています。
海岸沿いの道を進む予定でしたが、案内板もなくそれらしい道は見当たらないので、緑色で示された道を歩くことにしました。
この道は国道42号に沿った旧道で舗装されたアスファルトの上に「熊野古道と矢印」が書かれています。
昼食は以前行ったことのある道の駅紀宝町ウミガメ公園で名物のシラス丼を食べる予定でしたが、旧道を歩いていたためいつの間にか通り過ぎてしまいました。
戻る気にはなれないのでそのまま歩き続けますがコンビニなどはありません。
紀伊井田駅まで歩き、駅のベンチで持ってきたおやつで済ませることにしました。
幸いウイスキーのポケット瓶が残っていたので、不満のない昼食になりました。
昼からも同じように旧道を歩きましたが、途中から国道を横切り防風林を抜けて防波堤に上がりました。
防波堤の上には幅3mほどの歩道が延々と続いています。
左には打ち寄せる波、右には防風林の光景がずっと続き、所々釣りをしている人がいてその上空を数匹の鳶が飛んでいます。
途中旧跡に立ち寄ることもなく最後の伊勢路にしては単調な巡礼になりました。
伊勢路のガイドブックには最後にドライブコースとして新宮から熊野川の左岸をさかのぼるルートが案内してあります。
熊野速玉大社にお参りしてから宿泊する南紀田辺へはこのルートでに行くことにしました。
道は車のすれ違いが困難な狭い道で、上流に採石場があるのかひっきりなしに巨石を積んだ大型のダンプとすれ違います。
30分ほど走ると「飛雪の滝」が見えてきました。一枚岩を流れ落ちる滝は、落差はそれほどありませんが見ごたえがあります。
周りはキャンプ場になっているようで、テントサウナがいくつか置かれており、バスタオルに身を包んだ人がいます。
滝の見学を終え先に進もうとするとおじさんが立っていて、ここから先は通行止めだそうです。
途中に迂回のルートもなく橋もなかったので新宮まで戻らなければなりません。
また、大型ダンプとのすれ違いに気を使いながら新宮まで戻って、右岸側の国道を通り南紀田辺に向かいました。
今回のルートで熊野古道伊勢路の全ルートを終え、13年かけて世界遺産に指定されている中辺路、大辺路、小辺路を家内と二人で歩き切りまた。
今年からは和歌山から南紀田辺に至る紀伊路をまた歩き始めようと思っています。