信貴山千日回峰【第200回】ナラ枯れ(平成28年9月5日)

 信貴山千日回峰と称して裏山にある信貴山朝護孫子寺にお参りを初めて3年程になりますが、春以降200回で止ったままです。 暑い季節に往復10km、高低差300mの山道を歩くのがしんどくなってきたのが一つの理由ですが、畑仕事を始めたのがもう一つの理由です。 我が家のある住宅地のまわりには里山と田園が広がっており、近くの信貴川では初夏に蛍が飛ぶ、自然に囲まれた環境が残されています。 家のすぐ傍にも町が貸し出している畑があり、希望すれば借りることができます。 「農」よりも「工」の方が好きなので進んで農作業をしようとは思っていませんでしたが、縁あって畑を引き継ぐことになりました。 先日卒寿のお祝いをした女房のおふくろさんはいたって元気で、農家から土地を借りて畑仕事をしています。 そのお友達が同じように借りている畑があるのですが、何種類かの苗を植えた後、自分には畑仕事は向かないので誰かが引き継いでほしいと、 耕作を放棄されました。義母からその話を聞いて行ってみると、ぼうぼうの草の中にいくつかの苗が植えられていました。 10坪ほどの広さの南西の角地で、日当たりもよいので引き継ぐことにしました。 形から入るのが好きなタイプですので、最初に取りかかったのは、柄杓やクワなどを保管する道具置き場を作ることです。 イレクターパイプをホームセンターで買ってきて、地面に打ち込んだパイプに継いで金具で留め、ジャングルジムの様なものをこしらえました。 いくつか水桶も残されていましたので、古い鍋に長い柄を付けた柄杓を作り、近くにある小さなため池の水をすくってためました。 夏の盛りにいくつかトマトと形の悪いナスを収穫しましたが、今はオクラが採れ、秋にはサツマイモの収穫が期待できます。 周りの畑と比べると手入れが悪いため雑草が生い茂っていますが、先日から畑の整備を始めました。 斜面になっている西側と南側の畦から始めましたが、土の中に黒いビニールシートに残っていて、それを取り除くのが大変です。
 畑は家から歩いて10分ほどの距離にあり、帰りは少し遠回りして高台のルートを通ります。 途中西側にひらけた見晴らしの良い所があり、住宅地の中に我が家の特徴のある三角屋根が見えます。 はるか向こうに南から葛城山、二上山、明神山、信貴山など、大阪府との県境の山々がつらなっています。 明神山の北側に大和川が流れていますが、対岸の亀の背地区では長い間地滑り対策工事が行われていました。 ここで大規模な地滑りが起こると大和川がせき止められ、奈良盆地が水に浸かってしまうそうです。 北に目をやると二つの頂きを持つ信貴山が緑豊かな裾野を広げています。 しかし、今年は少し様子が違います。まだ紅葉の季節でもないのに葉を枯らした木が目立ちます。「ナラ枯れ」です。
 ナラ枯れは、カシノナガキクイムシという甲虫がナラやカシに巣くい、虫と共生する菌が木を枯らす病気で虫を駆除しないと周囲に広がっていきます。 木を燃料にした昔は、病気になりやすい古木になる前に切っていたから広がりませんでした。 1980年代に日本海側で問題となり、だんだんと南下して今は大阪や奈良などで異変が大きくなっています。 被害が深刻な東北地方では誘引剤を入れた木に虫を誘い込み、燃料に加工する一石二鳥の方策をとる地域もあるそうです。 幸い若木は枯れにくいといいますが、古木に遮られていた光を浴びて若木が育ち、緑豊かな景観に戻るにはいくつもの夏を経なければならないように思えます。

 仁王様(平成28年2月2日)

 松尾山は竜田川を挟んで信貴山の東側に位置する標高300m程の山です。 信貴山千日回峰と称する山歩きも200回近くになり、同じくらいの距離で違うところへ行ってみたくなり、この日は松尾山から法隆寺へ向かいました。 家から竜田川方面へは、車が通る道を行くとかなり遠回りになりますが、裏山を抜けて行くとショートカットできます。 近鉄生駒線の竜田川駅を過ぎてしばらくすると竜田川に出ます。竜田川やその下流にある三室山は、古くから紅葉の名所で、百人一首にも登場します。 中でも在原業平の和歌は有名です。
『ちはやぶる 神世も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは』
この歌を題材とした「千早振る」という落語もよく知られています。落語では自称物知りの隠居がハチャメチャな講釈をしますが、歌の意味は次のようです。
「山を彩る紅葉が竜田川の川面に映り、唐紅のくくり染めのようである。このようなことは神代にも無かっただろう」
余談ですが、竜田揚げは、この川の紅葉の色に似ていることが名前の由来とされています。
 竜田川を渡り椿井の集落を抜け、平等寺春日神社を過ぎて山道を上って行くと、立入禁止の看板のある階段の前に出ました。 フェンスなどもなく無視すれば普通に登れる階段ですが、何か意味ありげなので近くの急な山道を行くことにしました。 しばらくして舗装道路に出ると、そこにも立入禁止の看板があります。この上に浄水場があり、一般の人を入れないようにしているみたいです。 浄水場から更に上って行くと、峠の近くに松尾寺と書かれた道標がありました。 そこからは平坦な山道が続き、30分ほどで松尾寺の三重塔の裏に出ました。 松尾寺は、天武天皇の皇子舎人親王が42歳の厄年に日本書紀編纂を命じられたため、 日本書紀の無事完成と厄除けの願をかけて建立された日本最古の厄除霊場です。 私が厄年の時に来たのは20年以上も前で、この寺の建物の記憶はほとんどありません。 本堂にお参りしてから1丁ごとに石の道標が立てられている山道を法隆寺方面へ向かって下ります。 この道は途中法隆寺カントリークラブのコース内を通る道で、池越えの3番ショートホールでは、この道を通る人の頭越しにショットします。 数日前にプレーした時シャンクして池ポチャは免れたものの、土手の方に飛んで行ったボールは見つかりませんでした。 この道を下って来た時、土手のフェンスから50cm程の所にそのボールを見つけました。 檻の前にりんごを置かれたチンパンジーのように棒切れを使って取ろうとしますが、斜面になっているため転がり落ちます。 フェンスの目が細かいため、腕を入れることもできません。しばらくトライしてあきらめましたが、次にプレーした時に無事回収しました。
 ゴルフ場を抜け、法隆寺の塀に沿った細い道を進み東大門から境内に入ると、右手に中門が見えてきます。 左右両側に松の緑を配した中門は、二層の造りになっていて門というよりも楼閣のようです。 久しぶりに中門の仁王像と対面してある一枚の写真を思い出しました。 この仁王様をバックに肩を怒らせ、目をむいたポーズで納まっている結婚前の息子の嫁の写真です。 「お仁王様」とあだ名された龍馬の姉乙女とは違って、明るくて賢く、ひょうきんな一面もある彼女は今月母親になります。 安産とは縁遠い仏様かも知れませんが、彼女と一緒に写った仁王様に無事の出産をお祈りしてきました。

 信貴山千日回峰【第185回】信貴山城(平成27年10月18日)

 町立図書館に置いてあったチラシのボランティア募集に申し込み、松永弾正屋敷跡の伐採された雑木などの整理、清掃作業に参加してきました。 いつもとは反対のルートで信貴山に登り、集合場所の観光センターに着くと20名ばかりの参加者が集まっています。 責任者から作業内容の説明を聞き、ペットボトルのお茶を貰って屋敷跡へ向かいます。
 信貴山は、今から1400年前、聖徳太子が物部守屋を討伐するため河内稲村城へ向かう途中、天空に毘沙門天王が出現し、 必勝の秘宝を授けたとされ、太子によって信ずべし貴ぶべき山として名づけられました。 この地で初めて本格的な築城を行ったとされるのが、畠山氏の家臣だった木沢長政です。 本願寺と手を組み、山城・大和・河内などに勢力を伸ばし、信貴山城を築城して大和支配に乗り出しましたが、 河内太平寺の戦いで敗れ、信貴山城も落城しました。再び信貴山城が文献に登場するのは1559年。 この年の8月に河内から大和へ侵攻した三好長慶の配下の松永久秀によって改築されたとあります。 松永はもともと三好長慶の配下でしたが、長慶の死後は三好政権の中枢を担い、三好三人衆らとともに将軍足利義輝暗殺に関与しました。 その後、三好衆と対立し、1568年には信貴山城は落城、多門城も包囲され、この戦闘で東大寺に陣取った三好軍との交戦中に大仏殿が炎上します。 織田信長が義輝の弟・義昭を奉じて上洛するといち早く降伏してその家臣となります。 信長が家臣となった弾正を家康に紹介する話が次のように伝えられています。 「三河殿はこの老人をご存じあるまいが、これは松永弾正と申し、世の人のなしがたきことを三度までした仁である。 一つは主人三好氏をそそのかして足利将軍義輝を殺したこと、一つは主人三好義興を毒殺したこと、今一つは奈良の大仏殿を焼き払ったことでござる。」
その後、摂津・河内方面への軍事行動のため、信貴山城を拠点に、甲斐の大名・武田信玄の上洛行動に合わせ、 信長に反旗をひるがえしますが失敗して多門城を明け渡し降伏します。 1577年に再び信長に背き信貴山城に籠城し、信長の嫡子・信忠軍に包囲されます。 所有していた名器・平蜘蛛茶釜を差し出せば助命すると命じられますが、 「平蜘蛛の釜と我らの首と2つは、信長公にお目にかけようとは思わぬ。粉々に打ち壊すことにする。」と返答し「平蜘蛛」と共に爆死します。
 度重なる裏切り行為、大仏殿炎上などから「戦国の梟雄(悪人)」とも呼ばれる弾正ですが最近ではチョイ悪おやじとして見直されています。 室町末期の茶人、武野紹鴎に師事し、千利休とは兄弟弟子にあたるなど茶道の第一人者であり、築城術にも優れていたとされています。 その松永弾正が住んでいた屋敷跡は杉木立に覆われ、往時をしのぶものはありませんが「平蜘蛛」の破片はここに埋もれているのかも知れません。 2時間程伐採された雑木などの清掃作業に汗を流しました。
 後日、久秀の墓と伝えられる小さな卵塔がある達磨寺へ行って来ました。 この寺には聖徳太子のペット「雪丸」が葬られ、隣の卵塔よりも立派な石像が作られていています。 雪丸は、おしゃれな烏帽子に真っ白ボディ、ぷにぷにの肉球がチャームポイントのゆるキャラ界随一の高貴な犬のキャラクターとしてよみがえり、 昨年のグランプリでは11位に入っています。チョイ悪おやじの「弾正くん」では太刀打ちできそうもありません。

 信貴山千日回峰【第148回】スライドショー(平成27年6月11日)

 ヤフーの「ルートラボ」は、ハイキング、サイクリングや道案内などのルートを簡単に描いて公開できるサービスです。 一木会での話題提供の順番が回ってきましたので、「信貴山千日回峰」というタイトルでルートを登録し、 これまで撮りためた写真を整理して、スライドショーを行いました。
 家を出て三郷北小学校の裏を通り、ブドウ畑の砂利道を抜けると信貴川に沿った山道に入ります。 春の終わり頃、ここで出迎えてくれるのは高くそびえる杉の木に絡まる山フジです。まるで梢に花を咲かせているように見えます。
そこからしばらく行った道端にササユリを見つけました。とても香りが強い花で、一輪活けると部屋が香りに包まれます。
フジと同じ頃に同じような薄紫の花をつける桐が山を下る途中にあります。 最初見た時は大木でしたが、送電線の工事関係者が大幅に剪定して太い幹だけになってしまいました。 しかし、木の回復力は強いもので、次の年には大きな枝を一杯に伸ばして立派な花を咲かせていました。
信貴山朝護孫子寺の境内にも大きな木があります。樹齢五百年のいちょうで、木の枝振りが千手観音の手に似て、 銀杏の形が仏の合掌される両手に似ていることから、千手の公孫樹、仏手白果と名づけられました。紅葉の頃にはいっぱいの銀杏を落とします。
 歩いている途中、様々な生き物にも出会います。小学校裏の池の取水口の所には大きな青大将が住んでいます。 先日暑い日に見た時は体を池に沈め頭だけ出して涼をとっていました。写真の蛇はマムシです。 まだ子供でしたので近づいて撮ることができましたが、小さくても毒蛇らしい文様を持っています。
 毘沙門天王の使者はお寺の扁額にも描かれている百足(むかで)です。道端に大きなムカデを見かけることもあります。 マムシやムカデは毒を持っていますが、むやみに人に危害を加えることはありません。
それよりも厄介なのは人間です。ニュースでも話題になりましたが、信貴山の賽銭箱にも油をかけられた爪痕が残っていました。 経堂の近くにあるトイレの裏に竹藪が開けたところがあり、野生の猪の親子をよく見かけます。 少し離れた崖の上から眺めていた時に気付かれ、親猪が崖を勢いよく駆け上って来た時は思わず逃げだしました。
 城跡へ向かう道の傍に戦国時代の地図にも載っている大谷池があります。水面に信貴山を映す池で、四季折々に美しい姿を見せます。 この池はヘラブナ釣りが盛んで、いつ通っても何人かが釣糸を垂れています。 ヘラブナ釣りの特徴は、道糸を全て水面下に沈めるため竿先を水に沈めて浮きを見ています。
仕掛けには二つのエサを同時に打てるようにハリが二本付いています。 上のハリはヘラブナを寄せるため水中で溶かすエサ「バラケ」、下のハリは寄った魚を釣る為のエサ「食わせ」をつけます。 30cm程の鮒が架かるのを何度か見ましたが、釣り上げることなくすぐにリリースするのがルールのようです。
 2年前から距離9km、高低差300m程のこのルートを歩き始めて150回ほどになりますが、 ともすれば単調になりがちなリタイアー後の生活の中で、季節の移ろいを感じることができます。 本物の千日回峰行の様な命がけの覚悟も信心もありませんが、精神と肉体の健康のため後10年、一千回の満行達成まで続けていければと思っています。

 信貴山千日回峰【第132回】いろは歌(平成27年3月30日)

 冬に美味しいものを食べて2~3kg増えた体重が春になってもなかなか落ちません。 週2回のペースで信貴山千日回峰を続けていますが、その程度の運動ではあまり効果はなさそうです。 そこで食事の量を減らすとともに、山登りのペースを速めることにしました。 ブドウ畑を抜けてからの信貴川沿いの道は少し急こう配になります。平坦な道を歩いて来たペースがこの坂が始まると落ちます。 そこを頑張って上り坂でもペースを落とさないように歩くことにしました。負荷をかけることによって運動量を上げる作戦です。 しんどくて息が切れますが、しばらく続けてみようと思います。
 何年か前から花粉症に悩まされているため、この時期の山歩きでは花粉対策を怠れません。 ジーンズメガネで買った度付きのゴーグルをかけ、鼻の穴には花粉を避ける軟膏を塗り、さらに水で湿らした鼻マスクを突っ込み完全防備します。 他にも、免疫療法で症状を和らげることができると聞いて、梅酒のようにスギ花粉を浸けた焼酎を飲み、体質改善も図ってきました。 これから最盛期を迎えるヒノキ花粉に対しても同じような焼酎を作ろうと思いましたが、花粉を付けたヒノキが手の届くようなところにはありません。 そこで茶色くなったヒノキの実を取ってきて、煎じてみることにしました。 煮詰めて濃い茶色になった液体を焼酎とブレンドして、のどに塗るスプレーの容器に詰めました。 毎晩これを舌の下にシュッとかけると、ヒノキの香りが口に広がりますが、効果のほどは定かではありません。
 信貴川沿いの急こう配を登る途中、いつも同じ地点で立ち止り、登ってきた坂道を振り返ります。 そこからはV字型になった林のはるか遠くに、非対称の椀を伏せたような特徴ある畝傍山が見えます。 手前の石の橋と棚田の風景がマッチして絵を見ているようです。今の時期は山桜がこの絵にアクセントを添えます。 この景色を見るとなぜかいろは歌『色はにほへど散りぬるを、我が世たれぞ常ならむ、有為の奥山今日越えて、浅き夢見じ酔ひもせず。』を思い出します。 その意味は、『匂いたつような色の花も散ってしまう。この世で誰が不変でいられよう。 いま現世を超越し、はかない夢をみたり、酔いにふけったりすまい。』と否定的です。 文中の「有為」は仏教用語で、因縁によって起きる一切の事物。 転じて有為の奥山とは、「無常の現世を、どこまでも続く深山に喩えたものである。」と解説されています。 実は歌の後半の部分は、『いろんなことがあった人生を過ごして来たが、振り返ってみると酔って夢を見てきたようであった。』 と言う意味だと思っていました。間違っていますが、秀吉の辞世の句に似たこの解釈も肯定的で良いように思います。
年に2回桜の頃と紅葉の頃は女房も付き合ってくれますが、お弁当を持って家族そろって楽しく登った道を、今は千日回峰と称して一人で登っています。 深山ではありませんが、子供たちが小さい頃に石の橋の欄干に腰を下ろして休憩したこの道が「有為の奥山」に感じられます。 毎回同じ地点で立ち止りこの道を振り返るのは、橋の欄干に幼いころの子供たちの姿を求めているのかも知れません。

 信貴山千日回峰【第106回】ブドウ畑(平成26年10月31日)

 昨年の9月から信貴山へ登り始めて一年で目標の十分の一、100回を超えました。東京、大阪間を往復した距離を歩いたことになります。 我家から信貴山朝護孫子寺まで歩いて行くルートは4つあります。登りのルートとして使っている道は、三郷北小学校の裏を抜け、 雑木林を通り平群町に出て、そこから信貴畑に向かうルートとブドウ畑を縫って信貴畑へ向かうルートの二つです。 下りのルートは信貴山ケーブルの軌道跡を利用した道と水道施設や鉄塔を管理する山道の二つです。 軌道跡の道はまっすぐで単調なため、もっぱらハイキングコースになっている山道を利用しています。
登りの2つのルートは季節によって変えますが、秋は時々栗が拾える平群のコースをとります。 先日このコースの道端にたわわに実る柿の木を見つけ、熟していそうな実を採り、持っていたナイフで剥いて食べたところ渋柿でした。 そこで渋を抜いてから食べようと4つばかり持ち帰り、ビニール袋に入れて焼酎をふりかけ4、5日寝かせました。 甘くはなりましたが、熟すスピードが速く、柔らかい柿になってしまいましたので、冷蔵庫で凍らせ、シャーベットにすると美味しく食べられました。
 平群町は菊とブドウが有名ですが、このルートの途中に手入れされなくて放棄されたブドウ畑があります。 破れたビニールハウスの中を覗いてみると、形は歪ですが、いくつかブドウの房がぶら下がっています。 小粒ですが、幾粒か食べてみると販売されているブドウとそん色のない甘さです。ただ、薬品で処理されていないため種があります。 荒れてはいてもブドウの木は実を付けているので、手入れすればブドウ畑は再生するのではないかと思い、 いつも帰りに立ち寄るブドウ直売所の若奥さんに、ブドウ畑を借りられるかどうか聞いてみました。 返ってきた返事は「大変ですよ。やめておいた方がいいですよ。家の子供達にも継がそうかどうか迷っています。」でした。 思い付きだけでやれるほどブドウ農家は甘くないようで、すぐにあきらめました。

 信貴山千日回峰【第96回】浦井ブドウ園(平成26年9月6日)

 昨年の9月に信貴山千日回峰を始めて一年が経ちました。四季の信貴山で季節の良い春は爽快ですが、暑いこの時期は苦行です。 汗だくで朝護孫子寺に着くと洗面所で上半身裸になり、体を洗ってさっぱりしてからお参りします。 暑さ以外にもうっとうしい虫がいます。クロメマトイという小さなハエが、顔の周りを飛び回り、目の中に飛び込んできます。 手で避けたり、笹で払ったりしていましたが、今は少し小型の蚊取ラケットを顔の周りで振り回しています。 うまくいけばバチット音がして虫が感電死します。
 信貴山からの帰りに週に一回は、浦井ブドウ園に立ち寄ってブドウを買い求めます。 店には様々な種類のブドウが並んでいますが、一度この店のブドウを味わうと他のブドウの味が薄く感じられます。 熟すと薄緑色の先端が、紫がかってくる「ゴルビー」。濃い紫色の「ピオーネ」。「シャインマスカット」は皮ごと食べられます。 「藤稔」は皮離れの良い甘い品種で、「巨峰」は少し酸味のあるブドウです。 店を切り盛りしている若い奥さんの話によると、ブドウは棚持ちがよく収穫の時期を長く取れるそうです。 リタイアー後一年が経ちますが、住んでいる地域で世間話ができるようになったのは理髪店の主人に続いてやっと二人目です。
 「域際収支」とは、商品やサービスを地域以外に売って得た金額と、逆に外から購入した金額の差を示した数字です。 国でいうところの貿易収支を都道府県別に示しています。 奈良県の赤字額は最下位の高知県とほぼ同じ大きさです。 奈良県は県外通勤者の割合が著しく高く、県民所得は県外で獲得しますが、その労働は県内生産にカウントされないためです。 また、県外での購買活動が高いことも一因になっています。 この店でブドウを買い求めることが、奈良県の「域際収支」改善の一助になればと思っています。

 信貴山千日回峰【第90回】アザミ(平成26年7月22日)

 もう大きく育ちすぎて食べられませんが、信貴山へ向かう道端に、春は孟宗竹、初夏は真竹の筍が勢いよく伸びてきます。 育つとじゃまになるためか、地元の人は見つけると倒してしまい、立派な筍が何本も横たわっている光景を目にします。
肩にベルトでかけられるウェストバッグをつけて行くのが、信貴山へ登る時のスタイルですが、中にはお茶の他にカメラと双眼鏡が入っています。 朝護孫子寺の本堂の高い舞台から、肉眼では見えない4kmほど先にある我が家を眺めるのに、この双眼鏡が役に立ちます。 途中の林の木々に遮られるぎりぎりのラインに、特徴のある三角屋根に二つの窓が見えます。 淀みに浮かぶ泡沫に例えられるように、時がたてば見る人も、見られる家もなくなってしまいますが、 葉っぱ程の大きさにしか見えない我が家が、今は存在することを確認しています。
筍の時期、そのバッグ入れて必ず持っていくのが、カッターナイフとビニール袋です。 孟宗竹は顔を覗かせたころ、真竹は30cm程伸びたころに倒して、カッターナイフを縦に入れ、竹の皮を一気に剥がします。 大きなものを2~3本入れると小さなカバンはパンパンですが、一週間分ほどの酒の肴になります。
 筍の他に、信貴山へ向かう山道で採ってきたものにアザミがあります。 昨年、鉢植えから地植えにしたところ、盛んに花を咲かせ、色々な蝶がやってきます。 アザミの花は沢山の小花の集まりであり、蝶がその一つ一つにストロー状に伸びた口をさして蜜を吸うため、一つの花に長く留まっています。 また、バランスをとるために盛んに羽を動かすので、いろいろなポーズの写真が撮れます。
我が家の庭には、アザミの他に金柑、山椒、ブルーベリー、タラの木など食べられる植物がたくさん植わっています。 よく観察するとお腹が膨れた蝶は、山椒の木に向かいます。その木に花はないのですが、別の目的があります。産卵です。 お腹をまげて木の芽に卵を産み付けます。 ニシンが昆布に卵を産み付けた子持ち昆布は美味しいものですが、アゲハチョウの卵が付いた子持ち木の芽はいただけません。 筍に載せた木の芽に卵がついていないかを確認して食べています。

 信貴山千日回峰【第82回】挨拶(平成26年5月20日)

 最近は週一回ほどにペースが落ちましたが、標高差300m、9kmの距離を2時間半かけて歩いています。 途中、野生の猿や猪をはじめ様々な動物に出会います。 信貴畑の民家の犬は、近くを通るたびに大きな声で吠えていましたが、何度も出会う内に顔を覚えたのか吠えなくなりました。 今では一瞥するだけでほとんど無視されます。 朝護孫子寺にお参りし、山門を出て信貴山公園に向かう道端には黒猫がいます。 我が家の庭で猫の糞に悩まされているため、猫は好きではありませんが、野良猫の威嚇するような鋭い目に魅力を感じ、 酒のつまみの干魚をお布施のつもりで与えるようになりました。 最初は警戒していましたが、慣れてきたのか、今では私の姿を見つけるとついてくるようになしました。
 お寺の境内以外の山道では、ほとんど人と出会うことはありませんが、時たま同じように山歩きをしている方とお会いします。 お互いを遠くで認め、近づいて来て挨拶のタイミングを計り、目を合わせて笑顔で挨拶すると気持ちの良いものです。 たかが挨拶ですが、その短い一瞬に人となりが現れるように思います。 Sさんとは昨年の秋にバス停の休憩所で初めてお会いしたのですが、人懐こい笑顔で話しかけてこられました。 その後お会いする度に再会を喜ぶような感じで挨拶を交わしていましたが、家を出る時間を変えたためか、その後お会いしていません。
 出会う方の中には、自分の足元だけを見つめて、声をかけるのがはばかれるような雰囲気で近づいて来られる方がおられます。 そんな時は挨拶をせずにすれ違います。 挨拶が成立するかは、近づいてくる人を見た直観で判断しますが、判断を間違えたのか、こちらの挨拶を無視する人に出会ったことがあります。 目があった時に「おはようございます。」と声をかけたのですが、私の顔を見て笑っているだけで返事がありません。 失礼な人がおられるものだと思って、その後何度かお会いしても挨拶をせずに行きすぎます。 ある時その方が、本堂の前で一心に般若心経を唱えておられるのを目にしました。 人には無礼でも仏には真を尽くせるようで、少し救われたような気がしました。

 信貴山千日回峰【第48回】初詣(平成26年1月6日)

 毎年、初詣を兼ねて初日の出を見るため信貴山朝護孫子寺へ車で向かいますが、今年は自宅から1時間程かけて歩いて登りました。 途中、信貴フラワーロードと平群からの道が交差するあたりは見晴らしがよく、奈良盆地が一望できます。 昨年46回を数えた信貴山千日回峰でも、息を切らせながら急な坂道を登り切ったこの地点で休憩して、 近くは大和川の流れる王寺の町、遠くは高峰山に向かう名阪国道を行く車などを双眼鏡で眺めながら息を整えます。 元日の朝はいつもと違って、大和三山の向うの竜門岳辺りから上る初日の出を待つ車で一杯です。 大和盆地を朝日が照らす風景はいつの時代も美しいもので、司馬遼太郎さんの短編「兜率天の巡礼」では、 ユダヤの子孫秦氏のリーダーに竹之内峠から見た風景を次のように語らせています。
 『竹之内峠を越えて大和の国に入ると、青霞がたち、手のひらで優しくかいなでたような緑の丘陵が起伏して、 烈しい太陽や地殻をむきだした岩と砂の野を故郷の風土に持つ一行は、思わず声をあげて泣きたいほどの感動を覚えた。』 そして、気候・風土・自然との関わりあいにおいての神々の違いを次のように展開させています。
 『肌骨を刺す自然の中にこそすぐれた神は生まれる。インドで仏教が生まれたのは偶然ではなかった。 風がやめば酷暑は人を殺し、ガンジスとインダスの両川が年に一度は荒れて荒野の風景を一変させるというインドにあってこそ、 肉体をもつがゆえの現世の苦悩から解脱する瞑想が生まれたのであろう。
 シリアの荒蕪の地でただ星と砂をながめてきたユダヤ人の間からこそ、星のかなたに住む唯一の神によって天国の平安を得たいという 救済の教えが生まれたに違いない。自然が人間の肉体を虐めない所に神は育たない。 温和な気候と美しい山河と豊穣な土地に住み、命を愉悦しつつ生涯を送れる者に、現世の解脱や救いの教えはどれほどの必要性をもとう。 大和の地の神は、生命の解放に必要な神ではなく、現実の欲望を充足させるべき神なのであろう。』
 確かに一神教の神とは違って、日本の神仏は、人の生き方に対して「ああしろ、こうしろ」とはおっしゃいません。 むしろ守護神のような役割をされているため、アラカルトを選ぶように気軽に、「家内安全」、「商売繁盛」、「金運招福」、「必勝祈願」などを お願いできるのではないでしょうか。
 縁あって信貴山の麓に引っ越してきて四半世紀、この地にあっての守護神は、信貴山朝護孫子寺のご本尊毘沙門天です。 毎年の初詣で、現世利益の身勝手なお願いを重ねてきましたが、それなりに叶えて頂いたような気がします。 これからは厚かましい願い事を慎み、真言に「ありがとうございます。」の感謝の言葉を添えて参拝を続けていこうと思っています。

 信貴山千日回峰【第43回】ゴミのポイ捨て(平成25年12月25日)

 町田宗鳳さんの本「身軽にいきましょうや―中年からのスピリチュアル・ライフ」を手にしたのはまさに中年の50代。 ふとしたことから14歳で出家、以来20年間、京都の臨済宗大徳寺で修行、34歳で渡米して宗教学者に。 体当たりの経験を繰り返して得た著者の「がんばらない生き方」が綴られており、『50歳すぎたら、しがらみにとらわれないで生きてもいいんです。 そろそろ人生の荷物を捨てて生きたいように生きてみませんか?』とのメッセージに救われる思いがしました。 今は広島大学大学院で教鞭をとりながら執筆活動を続け、各地で「ありがとう断食・瞑想法」を開催されています。 先日、【ごみのポイ捨てと国家の命運】というタイトルで寄稿されたコラムが読売新聞に掲載されていました。
 『日本の都市部は比較的ゴミが少ないが、ひとたび他人の視線を感じない環境に入ると、現代日本人は良心の呵責もなく、ゴミを捨てられるらしい。 本来は森羅万象に八百万の神々の存在や生命の尊厳を感じ取ってきた国民である。モノも人も、同じ<いのち>を生きている。 だからすべてを大切にしなければならないと思えるところが、日本人の美徳のはずだった。 医療や教育など、国家の社会制度にいろいろ不備があることは自明だ。その責任をすぐに政治家に擦り付けようとするが、本当の責任は、 平然とポイ捨てをする国民の民度の低さにある。一人ひとりの国民が他者を思いやり、自然を思いやり、自分中心ではない丁寧な生き方をしているなら、 愚昧な政治現象を生み出しえないはずだ。 このままの勢いで公衆道徳が崩れていけば、何らかの国家的危機が起きたとき、深刻な混乱に陥る可能性すらある。 ゴミをポイ捨てするか否か、それによって国家の命運が決まってしまうといってよい。いつの時代にあっても、美しい心を育てるのは、美しい環境である。』
 信貴山朝護孫子寺の境内は毎朝掃き清められていますが、人家が途絶える信貴フラワーロードから多宝塔に続く道の両側にはごみが散乱しています。 先日ゴミ袋を持って空き缶を拾いながら歩いたのですが、途中で大きなゴミ袋がいっぱいになり、 自販機のあるところまで引き返して捨てなければなりませんでした。一人の善意では片づけられない量のごみが散乱しています。 その最たるものは写真の冷蔵庫です。よくこんなものをこんなところまで捨てに来たものです。
 日本では信号が青になると横断歩道を安心して渡れますが、ハワイ島では横断歩道でなくても道路を横断するために立ち止ると、 車が止まってくれます。中国では青信号で横断歩道を渡ろうとすると、右折左折の車がクラクションを鳴らしながら突っ込んできます。 道路わきのごみや不法投棄に見られる国民の民度の低下を思うと、いずれ青信号でも横断歩道が渡れない国になってしまうと思うのは杞憂でしょうか。

 信貴山千日回峰【第21回】銀杏(平成25年10月22日)

 信貴山頂近くの大谷池から朝護孫子寺までは、なだらかなつづら折りの下り坂です。 途中に朽ちかけた廃屋があり、気味が悪いため毘沙門天の真言「オンベイシラマンダヤソワカ」を唱えながら通り過ぎます。 ある日、その前に来た時「ドサッ」と音がしたので、びっくりして振り返って見上げると大きなアケビが鈴なりになっていました。 熟れたアケビが落ちた音のようです。 他にも道の上に落ちたアケビが転がっている場所がいくつかありますので、先日、カッターナイフの刃を付けた釣竿を使って3つばかり採ってきました。 実を割り、中の白い果肉をスプーンですくって口に入れましたが、アクの強い味で吐き出しました。 カエルの卵のような種は、ゼリー状の部分に甘味がありますが、人が手を懸けた果物とは違ってその味は淡泊です。
 アケビの他に朝護孫子寺の境内にもう一つ、秋に実を一杯つける大銀杏があります。 木の枝振りが千手観音の手に似て、また銀杏の形が仏の合掌される両手に似ている所から千手公孫樹「仏手白果」と呼ばれています。 中国産の品種で、日本では宮崎県高千穂の岩戸神社の境内にある一本と、昭和58年に発見されたここの二本しかない極めて珍しい巨木だそうです。 この時期たくさんの実が落ちていますが、仏が合掌される中の実を食べるのは罰当たりの様で手を出さずにいます。

 信貴山千日回峰【第15回】浦井ブドウ園(平成25年10月16日)

 国道25号から信貴山へ向かう道路は、すれ違うのが困難な程道幅の狭い急な道路でしたが、 勢野地区の開発に伴い緩やかな勾配の広い道路が新設されました。 浦井ブドウ園の作業所を兼ねた販売所はこの道沿いにあり、裏手には開発に伴う圃場整備で大規模な田圃とブドウ畑が点在しています。 販売所の棚にはピオーネ、マスカット、巨峰などのブドウの房がサイズごとに並べられており、かわいい笑顔の若奥さんが販売を担当されています。 この店の魅力はブドウの新鮮さとサービスの良さです。買ったブドウと同じくらいの量の房からこぼれたブドウのパックをおまけにつけてくれます。 甘くておいしい完熟のブドウで、日持ちがしませんのでこれから先に食べます。
 この季節、ブドウの他にも味覚を楽しめるものが、山歩きの途中で発見できます。 信貴畑の集落を抜ける道の傍には大きな栗の木があり、空の毬や車に轢かれた栗が道端に転がっています。 たまに無傷の栗や中身のある毬もあり、靴で踏みつけて取り出します。 先日、手の届くところに少し口の開いたアケビを見つけ熟するのを楽しみにしていたのですが、 タイミングを逸したようで次に採ろうとした時には干からびていました。 他にも歩いていてすぐ手の届くところにたわわに成っている柿があります。 いつか味見をしようと思っていましたが、低い場所の実は大方収穫され、手の届かないところにしか残っていません。 栗の拾得物は隠匿しましたが、柿泥棒は未遂に終わりました。

 信貴山千日回峰【第13回】朝護孫子寺(平成25年10月7日)

 比叡山の千日回峰行を2度達成された酒井大阿闍梨が先日亡くなられましたが、生前仏門に入られた契機を次のように語っておられました。 「女房と喧嘩して『お前なんか死んでしまえ。』と言って家を飛び出し、暫くして戻ると本当に死んでいました。もう仏門に入るしかないでしょう。」 生き仏として崇められていた酒井大阿闍梨と比べるのは恐れ多いのですが、9月から健康と信仰を兼ねて信貴山千日回峰を始めました。
 信貴山朝護孫子寺は公式サイトで次の様に紹介されています。 「今から1400余年前、聖徳太子は、物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、この山に至りました。 太子が戦勝の祈願をするや、天空遥かに毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授かりました。その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻でありました。 太子はその御加護で勝利し、自ら天王の御尊像を刻み伽藍を創建、信ずべし貴ぶべき山『信貴山』と名付けました。 以来、信貴山の毘沙門天王は寅に縁のある神として信仰されています。」
 家の傍の信貴川に沿う道を上り、信貴山朝護孫子寺にお参りし、廃線のケーブルカーの軌道を整備した遊歩道を下る標高差400m、 距離9km程の道のりです。年100回のペースで10年続ければ9,000km、地球一周4万kmを7年で回峰する阿闍梨には到底及びませんが、 気力と体力のある限り、続けてみようと思っています。