熊野古道小辺路ルート
第1回熊野古道小辺路ルート【高野山~野迫川総合案内所】(平成26年5月12日)
熊野参詣道小辺路は、真言密教の総本山・高野山と熊野本宮という二大聖地を最短距離で結ぶ参詣道です。
金剛峰寺前の駐車場に車を停め、観光情報センターで登山マップを貰って金剛三昧院へ向かいます。小辺路は金剛三昧院の参道から始まります。
薄峠まではなだらかなアップダウンの道が続きますが、峠を過ぎると下り坂が続き、急な所は階段になっています。高野槇の林を抜け、御殿川まで下ります。
真言宗では高野槇が仏前に供えられますが、弘法大師空海が花の代わりにその枝葉を供えたのが始まりと伝えられています。
澄み切った御殿川を跨ぐ赤い橋を渡ると急な上り坂が続き、大滝集落の民家が見えてきます。
このコースの途中でトイレがあるのはここだけです。
トイレは家の周りにシャクナゲが植えられている民家の敷地内にあり、チューリップの咲いている庭もよく手入れされています。
そのトイレは、台湾の高級ホテルにもなかったシャワートイレで、細やかなおもてなしの心が感じられます。
ちょうど主が外におられたので、挨拶をしてお話をお伺いすると、その方は小辺路ルートの語り部の方で、前日も何人かを案内されたとのことでした。
大滝集落の最後の民家の前を抜けて山道に入ると、なだらかな上り坂が続き高野龍神スカイラインと合流する高台の広場にでます。
ここで昼食をとった後、ここからは高野竜神スカイラインを歩きます。花粉情報ではヒノキ科の花粉は少ないとの予報でしたが、高野山では最盛期です。
ヒノキの葉をポールで触ると大量の花粉が飛びます。油断して鼻マスクと花粉メガネをしてこなかったため悲惨な状態になりました。
水ヶ峰分岐から再び、山道に入り林道を経由して予定よりも早く、2時半ごろに野迫川村観光案内所に着きました。
ここの喫茶店でコーヒーを飲みながら4時のバスを待つ予定でしたが、この日は定休日で閉まっています。
仕方なく近くの鶴姫公園を散策して時間をつぶしましたが、山の上は肌寒く、桜はまだ咲き初めです。
10分ほど前にバス停に戻り、階段を上り下りして体を温めながらバスを待ちましたが、定刻を過ぎてもバスは来ません。
バスの時刻表を見ていた女房が、注意書きを見て「これどういう意味かな?」と尋ねてきました。
よく見ると時刻表の下にカレンダーがあり、バスを運行する日としない日が色分けされています。
確認のため電話すると、やはりその日は運行していないとのことでした。
人気のない野迫川総合案内所の花壇に腰かけてタクシーの到着を待つこと30分、高野龍神スカイラインを上ってくるタクシーが見えた時は、
弘法大師の計らいにより救われたように感じました。
第2回熊野古道小辺路ルート【果無峠越】(平成26年11月11日)
『果無しの 山ふところに住むという 大男きて柿を食みをり』。先日の読売新聞に掲載されていた短歌です。
この山の名が一首のなかで決定的に重要な働きをしています。「果無し山から来た男が柿を食っている。この世の外から来たように」。
果無山脈は奈良、和歌山の県境にあります。この茫洋たる名は伝説あるいは忘却のかなたの山を想像させます。
熊野古道ウォーク小辺路ルートの2回目は、順番を2つ飛ばして、果無峠を超え熊野本宮へ至る最終区間を歩くことにしました。
朝の5時過ぎに自宅を出て、国道168号線を通り、「道の駅奥熊野古道ほんぐう」へ向かいます。
かなりの区間バイパスを通れますが、大塔村を過ぎてからは所々車のすれ違いが困難な道が続きます。
熊野古道ウォークを始めてから何回かこの道を車で通っていますが、初めてこの道を通ったのは40年以上前、大学受験に失敗して浪人になった春です。
大津から五条、和歌山を経由して南紀を一周する自転車旅行を計画しました。
寝袋だけを荷台に積んで野宿を重ねましたが、淋しくなって途中で帰りたくなり、ルートを変更して通ったのがこの道です。
急な坂では自転車を押して上り、長くて狭いトンネルではトラックにおびえながら通ったのを思い出します。
道の駅に車を止め、八木行きのバスを待ちます。
全長166.9km、停留所の数が167もある、高速道路を使わない路線では日本一の走行距離を誇る路線バスが走っています。
乗客は我々二人だけで、街中の路線バスではないことですが、運転手さんとのプライベートな会話が弾みます。
乗客から熊野古道についてよく尋ねられるため、彼も中辺路ルートを歩き始めたそうです。
翌週に難所の大雲取越を歩くとのことで心配していましたので、標高差800mの急坂を一気に下るしんどさを少し大げさに説明しておきました。
停留所ではない登山口近くで降ろしてもらってしばらく歩くと、案内板の右手に芭蕉門下十哲の一人といわれた向井去来の句碑が立っています。
『つづくりも はてなし坂や 五月雨』。「つづくり」とは、参詣道の修繕などの目的で参詣人から徴収していた通行料で、
整備された石畳の道は有料道路だったようです。
登山口から急な石畳を登った所に、昔茶屋を営んでいたという数件の集落があり、山から水を引いた狭い水路には大きな鯉が泳いでいます。
ここは日本の里100選にも選ばれた集落でよくテレビで紹介されています。
中辺路は500m毎に、高野石道は109m毎に石碑がありますが、このルートには約300m毎に西国三十三所の観音石仏が立ち並んでいます。
観音堂を過ぎたあたりで、反対側から下って来る二人の外人に会いました。
道の駅でバスを待っていた時に、一本前のバスから降りてきたカップルで、我々とは反対側から果無峠を越えてきたようです。
「Hallow. I saw you at michinoeki bus stop in this morning.」と言いたかったのですが、
とっさに英語が出て来なくて「こんにちは」とだけ言ってすれ違いました。
第十七番音羽山清水寺の千手観音像のある果無峠から一気に1,000mを下りますが、急な階段で片足を上げる度に太ももの前面が痛みます。
途中に出会う観音石仏の札所番号が減って行くのを励みに一番札所青岸渡寺の石仏がある八木尾バス停を目指します。
そこから車を止めた道の駅までは一般道を歩き、途中「とれとれ市場」で半額に値下げされた寿司を仕入れて定宿の東急ハーベスト南紀田辺に向かいました。
(写真上:果無山から見た道の駅 写真下:道の駅から見た果無山脈)
第3回熊野古道小辺路ルート【伯母小峠越】(平成26年11月15日)
熊野古道中辺路や伊勢路ルートは、観光気分で気楽に歩ける道が多くありますが、標高1,000m以上の峠や峰を越える小辺路ルートは、
実質登山のカテゴリーに入ります。
また、このルートは途中の交通アクセスが便利ではないので、分割して歩くプランは現実的ではないとパンフレットに記されています。
熊野古道ウォーク小辺路ルートの3回目は、その現実的ではないプランを計画しました。
一日目は伯母子岳登山口バス停近くに車を止め、一日に一本しか運行されていない村営バスに乗って十津川吊橋でバスを乗り換え五条まで戻り、
JR、南海高野線を乗り継いで野迫川村のホテルに泊まり、翌朝伯母小峠を越えて車の置いてある所まで歩くプランです。
朝5時過ぎに家を出て伯母子岳登山口近くの小学校跡地の駐車場に車を止め、予定通り7時半頃の村営バスに乗りました。
その日は曇り空でしたが翌日は雨の予報で、雨具を用意して雨の中の古道ウォークを覚悟していました。
乗客は二人だけで、バスに揺られながら雨の中を歩く憂鬱な気分を想ううちに、
予定を変更してその日にルートを反対側から歩いた方が良いことに気が付きました。
乗り換え地点で時間調整のため待っている時にバスの運転手さんに相談すると、30分程後に彼が十津川役場行きの別のバスを運転するが、
国道の最寄りのバス停から登山口のバス停までは8kmあり、タクシーもないとのことでした。
翌日雨の中を7時間歩くよりもその日に8kmを余分に歩く方がましだと思い、引き返すことにしました。
川津バス停で降り、なぜもっと早く気が付かなかったのかと悔やみながら、2時間かけて登山口まで戻りました。
伯母子岳登山口からはいきなり急な階段が続きます。途中、日本人の女性がガイドをしている中年の外人グループとすれ違いましたが、
巡礼の道に魅せられるのは共通のようです。伯母子峠付近の道はなだらかなアップダウンが続き、紅葉の終わった落ち葉で覆われ、くるぶしまで埋まります。
カサカサと乾いた音がして歩きにくいのですが、雨に濡れて滑りやすい落ち葉よりもましです。
暗くなりかけてきたので道を急ぎ、つづら折りの急坂を一気に下って明るいうちに大股に着くことができました。
「ホテルのせ川」に着くと歓迎の挨拶が支配人の渋いバリトンの声で聞こえてきます。
支配人のNさんは野迫川村の村おこしにも活躍されている方で、ホテルの経営と本人自身の苦労話が読売新聞の雑誌に掲載されていました。
温泉でゆっくりと疲れを取った後、大広間での夕食です。
このホテルの名物『かしき鍋』は、お肉に鴨・猪・雉をミックスした醤油だしベースの鍋で、宿泊客のほとんどはそれを注文していましたが、
敢えてアマゴ尽くしの会席料理を注文しました。
野迫川村はスロバキアの村と姉妹都市の関係にあり、スロバキアの赤ワインと共に頂くアマゴのあらい、南蛮漬け、焼き魚、甘露煮は最高でした。
野迫川村は原発事故で人口が減少した福島の町に次ぐ人口減少率全国2位の自治体です。
翌朝、Nさんの運転で高野山駅まで送って頂いた時、参考にと思い里山の資源をいかにして生かすかをテーマとした
『里山資本主義』の本を紹介しておきました。
高野山から南海、JR、奈良交通のバスを乗り継ぎ川津バス停でバスを待っていると村営バスが来ました。
昨日お世話になった運転手さんとの再会です。車を止めた地点に戻り、バスと徒歩と車で2往復して走り慣れた山道を通り家路につきました。
(写真:度重なる土砂崩れの跡)
第4回熊野古道小辺路ルート【三浦峠越】(平成28年4月10日)
熊野古道小辺路は、真言密教の総本山高野山と熊野本宮という二大聖地を最短距離で結ぶ参詣道です。
果無峠、伯母子峠と1,000m級の峠越えの区間に続き、最後に残った三浦峠越えを2月末に歩いてきました。
朝早く家を出て、国道168号線を南下して川津から国道をそれ、三浦口へ向かいます。
この道は車では15分ほどの距離ですが、昨年の伯母子峠越では急遽ルートを変更したため、
当初予定していなかったこの道を2時間ほどかけて歩いたことが思い出されます。
廃校になった五百瀬小学校に車を止め、神納川に架かる吊り橋を渡って高低差が700mある三浦峠に向かいます。
橋の上から対岸を見ると、5年ほど前の大水害のがけ崩れが修復された跡が生々しく見えます。
三浦集落を登った道沿いには、防風林と思われる胴回り4~8mの巨大な杉があり、傍らにはかつて旅館をしていたという吉村家の屋敷跡があります。
ここから、急坂を進むと三十丁の水の立札があり、この水で喉を潤して峠を目指します。
中辺路のゆるやかな古道とは違い、小辺路は急なつづら折れの道が果てしなく続くように感じられます。
所々に五百瀬小学校の生徒が作った、「ゴミをもち帰りましょう!」とカラフルな文字で書かれた看板が目立ちます。
このあたりの道は、ほうきの掃き目も見え、落ち葉が取り除かれています。暫くすると道普請をしているおじさんに出会いました。
地元の人たちの地道な努力によって古道は保たれているようです。
途中がけ崩れのため迂回路が設けられていましたが、その迂回路も所々崩れていて決して安心して通れる道ではありません。
崩れやすい石の足場を確かめ、斜面の木の根を掴んで進みますが、反対側は崩落した斜面で、足を踏み外せばただではすみません。
木の根と間違えて棘だらけの枝を掴むこともあり、痛みと恐怖に耐えて危険な個所を脱出しました。
標高1,080mの三浦峠を越えると、比較的なだらかな下り坂が続きます。途中道端でお弁当を食べている若い女性に出会いました。
高野山から一人で歩いてきたとのことで、普通なら3日かかる工程を2日で歩いて来ています。
神奈川から来た学生さんで、体操服を着て上履きのような靴を履き、ストックも持たず山歩きとは思えない軽装です。
まだ幼さの残る顔からは想像できない大胆さです。
古矢倉跡、出店跡を経て矢倉観音堂の前で昼の休憩をとりました。
この観音堂の如意輪観音菩薩座像の台座には「大阪伝馬市場 山家屋弥兵衛」の名が記されています。
天満市場は、10年ほど前に事務所を構えた天神橋商店街の近くにあり、宴会の食材の買い出しによく行きました。
時代は異にしますが、大阪天満の人の名を見て懐かしさを感じます。
暫く下ると西中バス停に到着し、ここから十津川温泉までは歩くと2時間はかかります。
バスを待っていると先ほどの女性と再会しました。彼女は歩いて十津川温泉に向かい、次の日は果無峠を越え本宮に向かうとのことです。
道沿いに三十三観音石仏が迎えてくれることや下りがかなり急なので足を痛めないようにとのアドバイスしておきました。
途中歩いている彼女をバスから見つけお互い手を振って別れました。
その日宿泊した十津川温泉ホテル昴での夕食はアマゴ尽くしの料理です。
骨酒を楽しみにしていたのですが、アルコールが飛び過ぎていてあまりおいしくありません。
継酒はやめて地酒の冷酒を追加して、アマゴのづくしの料理をおいしく頂きました。
翌日精算すると、一人15,000円の宿泊費がふるさと振興のため半額になっています。
このようなばらまき政策がふるさと創生にどうつながるのかよく分かりませんが、ありがたく恩恵に浴しました。