高野山町石道ウォーク

 第1回高野山町石道【慈尊院~上古沢駅】 (平成25年5月16日) 

 熊野古道中辺路ルートを8回に分けて歩き切り、次の小辺路ルートに繋がる高野山町石道を2回に分けて歩き始めました。 六文銭の幟が並ぶ九度山駅近くの町営の駐車場に車を停め、真田幸村父子の屋敷跡に建てられた真田庵にお参りしてからスタート地点の慈尊院を目指します。 慈尊院では道中の安全を本尊の弥勒菩薩に祈願し、ルートマップが書かれた押印帳を頂きスタンプラリーを始めることにしました。
高野町石道は全長23kmのコースで、その名の通り1町(約109m)ごとに五輪卒塔婆が建てられています。 柿畑の急坂を上っていくと九度山町を一望できる展望台に出ます。 途中無人の販売所があり、試食用のみかんが美味しかったので100円を缶に入れて買い求めました。 柿畑が途切れるところから杉林の中を上って行き、六本杉峠で町石道から外れ丹生都比売神社を目指します。 車の通る道に出てしばらく歩くと朱塗りの太鼓橋が見えてきます。 何かのご縁かも知れませんが、ホームページのロゴにしている橋と同じ形です。 本殿にお参りして石のベンチでこの橋を眺めながらの昼食です。杉木立の向こうに日に照らされて輝く朱色が鮮やかです。
 町石道の二つ鳥居にもどる八町坂はその名の通り1kmほどの上り坂です。 坂を上り切ったところにある休憩所は肘木や蟇股を使った神社建築の立派な休憩所で、天野の里が一望できます。 ここまでが半分の道のりで上古沢駅まで下りますが、ずっと急な下りで太ももの前の部分が痛くなってきます。 足元ばかりを見て歩きますが、ところどころに親指大の薄紫の花を散りばめた箇所があります。 見上げると桐の木が鈴なりの花をつけています。 上古坂駅は川を挟んで山の中腹にあり、今度は急坂を上ることになります。南海電車で九度山駅に戻り半分のルートを終えました。

 第2回高野山町石道【上古沢駅~大伽藍】 (平成25年11月4日) 

 高野町石道は九度山の慈尊院から山上に至る全長23kmのコースで、その名の通り1町(約109m)ごとに五輪卒塔婆が建てられています。 途中の古峠で中断した前回に続き、今回は上古沢駅から古峠を経て大伽藍に至る約16km、6時間のコースです。 大伽藍前の駐車場に車を停めた時は前日からの雨がまだ残っていましたが、バス、ケーブルカー、電車を乗り継いで上古沢駅に着くころには青空が 覗いてきました。雨で濡れた道で2度も転びながら上古沢駅からの急な下り坂を行くと、手の届くところに一杯柿が実をつけている柿畑を縫う道に出ます。 「おはようございます。見事な柿ですね。」と途中で出会ったおじさんに話しかけたところ、富有柿の他何種類かの柿を栽培しており、 ビニール袋がかぶっている渋柿は、アルコールを入れて渋抜きしているとのことです。別れ際にその場でもいだ柿を一つ頂きました。 古峠までの3km程の道のりは、ずっと急な上り坂で汗だくになりながら登って行きます。 峠を登り切り少し行った二つ鳥居の休憩所で汗をぬぐい、早速頂いた柿をむいて頬張ると、さわやかな甘さが口いっぱいに広がりました。
 子安地蔵尊を本尊とする神田地蔵堂は、紀伊高原GCのティーグラウンドのすぐ傍にあり、少し早目の昼食をここでとりました。 国道と交差する矢立茶屋では何組かのハイカーが休憩しています。隣に座っていたカップルは、九度山から山上までを一気に登る健脚で、 6時間程かけてここまで来たそうです。ここから大伽藍までは2時間少しの道のりですが、すぐ前を5人のパーティーが登って行きます。 その内の一人が熊よけの鈴をつけていますが、御詠歌を唄う時に鳴らすような鈴の響きが絶え間なく続き気になります。 少しペースを上げて追い越して行きましたが、後ろから「チリーン、チリーン」と物憂げな響きが聞こえてきます。 だいぶと離れて音が聞こえなくなると、今度は逆に、聞こえない音を聞こうとしていることに気がつきました。 四苦八苦の一つに嫌なものから離れられない苦しみ「怨憎会苦」がありますが、「チリーン、チリーン」を聞いて、 距離が近いから苦になるのであって、適当な距離を保てば苦にはならないことを悟りました。
 大門までは1時間程、急な上り坂が続くところで雨になり、傘をさしての山道です。 登りきったところで国道の向こうに朱塗りの大門がそびえ立っています。 ここから10分程国道沿いの歩道を歩き、高野町石道原点の大伽藍に到着しました。 高野山から宿泊する東急ハーベストクラブ南紀田辺へは高野龍神スカイラインが近道ですが、 雨による通行規制を考慮して海南から高速道路を通るルートにしました。 いつもの通り、田辺の錦寿司で持ち帰りの寿司を仕入れ、ゆっくりと温泉で体をほぐしてから、女房と二人の宴会で第2回高野石道ウォークを終えました。

 第3回高野山町石道【大伽藍~奥之院】 (平成25年11月29日) 

 高野山町石道の最終回は、大伽藍から奥之院までの往復8km程の平坦なコースです。 日曜日の朝10時頃に着いたため、大伽藍前の駐車場はすでに一杯で、少し離れた霊宝館の駐車場に車を停め歩き始めます。 大伽藍から金剛峰寺へ続く道は、両側を植木で凹凸をつけているところから蛇腹道と呼ばれる紅葉が美しい道です。 金剛峰寺は高野山真言宗の総本山で、緩やかな石段を上って表門をくぐると檜皮葺の大主殿の壮麗さに足が止まります。 一連の建物は、規模が大きく切妻の部分にまで彫刻が施されていて華麗です。 金剛峰寺からの道は、両側に土産物屋や飲食店が並び、人と車の往来が激しい国道です。 途中「般若湯」と書かれた古びた看板が目につき、般若心経がラベルに印刷されたワンカップを買い求めました。 一の橋からは大師の御廟へ至る2km程の石畳の参道を歩きます。 巨大な杉木立の中に大小様々な墓石が並び、戦国武将や諸大名の墓や供養塔が垣をなして連なっています。 その中に読んだ覚えのある、司馬遼太郎の文学碑を見つけました。
 『高野山は、いうまでもなく平安初期に空海がひらいた。山上は、ふしぎなほどに平坦である。 そこに一個の都市でも展開しているかのように、堂塔、伽藍、子院などが棟をそびえさせ、ひさしを深くし、練塀をつらねている。 枝道に入ると、中世、別所とよばれて、非僧非俗のひとたちが集団で住んでいた幽邃な場所があり、寺よりもはるかに俗臭がすくない。 さらには林間に苔むした中世以来の墓地があり、もっとも奥まった場所である奥ノ院に、僧空海がいまも生けるひととして四時、勤仕されている。
 その大道の出発点には、唐代の都城の門もこうであったかと思えるような大門がそびえているのである。 大門のむこうは、天である。山なみがひくくたたなづき、四季四時の虚空がひどく大きい。 大門からそのような虚空を眺めていると、この宗教都市がじつは現実のものではなく、空に架けた幻影ではないかとさえ思えてくる。 まことに、高野山は日本国のさまざまな都鄙のなかで、唯一ともいえる異域ではないか。』
 大師の御廟にお参りしての帰り、玉川沿いの新しく開けた道沿いには、阪神・淡路大震災や東日本大震災の供養塔の他に大手企業の供養塔が目立ちます。 永遠の安楽地を高野山に求めて納骨信仰が盛んになるのは、平安時代の末からと言われていますが、 時代と共に供養に対する考え方は変わってきているように思います。 現代人の感覚は、新井満さんが訳詞された「千の風になって」に共感するようになってきているのではないでしょうか。 読売新聞の家庭欄に「心のページ」というのがあります。以前ここに立命館大学の斎藤育郎教授の文章がありました。 斎藤教授は、「あの『千の風になって』の歌は科学的にも本当のことですよ。」と言っています。 「人の体の18%は炭素原子からなっています。仮にAさんというヒトが亡くなって荼毘に附されると、この炭素原子が空気中に放出される。 大気中で酸素と結びついて二酸化炭素になる。 このAさんブランドの二酸化炭素は計算上13万2000個あり、それが空気の中に溶け、千の風として存在する。 そして空を飛ぶ鳥の呼吸で鳥の体内に入り、雨の成分にもなり、一部には海面に吸収されて魚に入り、それがまた人間に入る。 仏教で言う『輪廻』というのは化学的にも証明されることです。」と述べています。
 駐車場に戻って遅い昼食をとり、高野山内の文化遺産が展示されている霊宝館を訪れてから高野・竜神スカイラインを通って 定宿の東急ハーベスト南紀田辺に向かいました。 今回で高野町石道のルートを終え、来春からは高野山から果無山脈を越えて熊野本宮大社を目指す全行程60kmの「熊野参詣道小辺路」を 4回に分けて歩き始めます。